『物理学に生きて 巨人たちが語る思索のあゆみ』(W.ハイゼンベルクほか 青木薫訳、筑摩書房)
物理学に巨大な足跡を残した方々が一同に会し、一九六八年の夏にトリエステの国際理論物理学センターで行なった講演録(というのかな?)。正直、馴染みのない分野の話はチンプンカンプン。ただ、考え方や行なったことについては興味深いところがかなりあったので、後で触れよう。そして、かつては「趣味」の一つのようであった物理学は、今や高度産業社会においてはあちこちでその成果が使われている。だから、物理学に携わる人間は巨大な倫理に面している。このことについては、特にハイゼンベルクのところで感じさせられ、また、訳者の「物理学とその時代――あとがきに代えて」に見事に表現されている。それは、企業内エンジニアにも突きつけられた問いなのだ。
さて、この本で一番興味深かった、あるいは面白かったのは巨人たちの顔写真である。どれもこれも魅力的だ。特に、ハイゼンベルグの人懐っこい、面白い(失礼)笑い顔は、この世の地獄を突き付けられた人間のものとは思えない。否、地獄を突き付けられたからこその悟りなのであろうか。
さてさて。偉大な物理学者の業績はウィキペディアに任せるとして、以下は面白かったエピソードを中心に記す。
【ベーテ】
・地下鉄で、ユージン・ウィグナーがヒントをくれたおかげで、地下鉄内で問題を解決してしまったらしい。
・星内の原子核反応は二つの陽子の核融合が有名だが、それではシリウスなどの明るい星の説明が出来ないらしい。6週間調べて、炭素サイクルの中で4つの水素原子が1つのヘリウムになることが分かったとのこと。
・戦時中の原爆研究は「おぞましい仕事」だが、誰も見たことのない数百万気圧の状態方程式を求めたとのこと。コンピュータ(!)を使って。量子力学の計算なんだろうなあ。
・宇宙船の表面にコーティングされた石英があるが、地球突入時にはマッハ100位になるわけで、恐ろしい熱が発生し、石英は融けて蒸発する。融けると「液」だが、温度によって粘性が大きく異なるはずで、それを組み込んだ解析をしたとのこと。CFDなんだろうか? 蒸発モデルも入れたのかな?
【ディラック】
・この人の講演は、考え方を考える、というメタ思考が面白い。分野によって求められる考え方や方法は異なるが、決めつけてはいけない。一度にたくさんのことをやり過ぎてはいけない(汗。くつろいだ時にこそ良い発想が出る。
・相対論的量子論では、テンソルではダメで、スピノルってのが出てくるらしい(何のこっちゃ)。
ここでの教訓は、一つのアイデアに執着してはならない。
・計算結果における無限大を無視する当時の方法におかんむり。無視して良いのは、無視し得るほど小さいものだけだ!
【ハイゼンベルグ】
・日本のどこかの高い塔のてっぺんの手すりの上に立ったらしい。運動神経抜群。
・ボーアの頭脳(電子が異なる軌道を回る)にビビり、話を聞きに。「ボーア祭り」。そこで分かったのは、ボーアは計算をしていなかった! 幅広い知識から洞察していたのだ。
・新しい概念を、古い言葉で説明を始めなくてはならないという矛盾。
・アインシュタイン曰く「観測可能な量だけを使うというのは、どういう意味なのだね?」 「何が観測できるかを決めているのは理論なのだ」。 背景には、マッハの思考の経済がある。
・厳密な数値計算の研究もされていた。どこから乱流不安定が始まるか、という研究らしい。だが、数学者ネーターに臨界レイノルズ数の存在を否定されたらしいが、流体力学をやっている人は誰でも臨界レイノルズ数の存在を知っている。謎だ。
・「保守的進歩主義」。ギリギリまで数学的に洗練された古い概念を使い倒し、その限界を見極めて新たな(野蛮な)概念を作ること。ここに科学者のだいご味があると思う。だがパラダイムシフトの時は、最も努力を要する・・・。
・にしても、ボーアとかシュレーディンガーとかアインシュタインとか、臆することなく意見を言うのは凄いなあ。
・幼児期の体験から、理論を作るに先立ち、全体像を把握(構想?)してから、仕事に掛かるべきとハイゼンベルグは言う。
【ウィグナー】
・全てが予測できるわけではないから、世界は面白い。同感。
・科学が即物的な成果に繋がることを嫌がる科学者もいる。(堕落を感じるのだ)何というか、浮世離れ。
・20世紀初頭、ハンガリーに物理学者の席は四つ。それじゃあ飯が食えないだろうということで、ウィグナーは化学工学を専攻。その後、物理学者でも飯が食えるように。
・巨大科学の出現後は、社交性があって強くの態度が必要である。社会にアピールする責務があるのだ。(それは倫理において、も。これは本著を貫く課題である。)
【クライン】
・オデュッセイア マニア(笑)。
・電磁ポテンシャルとアインシュタインの重力場ポテンシャルの相似から、空間が四次元になる波面方程式が見えて来たとのこと。勿論、実験や観測は無理な話で、数式を用いて「思念憶測の渦に巻き込まれる」。
・ついには「一個の荷電粒子は、五次元の測地線を記述する」と。
・四番目の空間方向は0.8×10^(-32)mに閉じているらしい。
・疑うだけの理由があるときにはつねに、その自由を行使することもまた科学者としての自然な態度なのです。
【ランダウ by リフシッツ】
・13歳にして中等教育(高校だな)終了。リアル・ちよちゃん(あずまんが大王)。
・人間の独創性の勝利は、時空の曲率や不確定性原理のように、思い描くことすらできないものを理解する力にある。
・一般物理学教程は、一部だけ読んだ。いつかはしっかり読みたい。
・スターリン批判で死にかけたことはスルーされてる。
・幅広い分野の人間と交流したことが、彼の財産(金の蓄え)であった。
・単純さと秩序をとことん追究する。「物事をよりトリビアル」に。レーニン主義だね。
・ソファーに寝ころんで物理が彼のスタイル。
で。「物理学とその時代 ――あとがきに代えて」
ベーテは原子核理論の祖。言うまでもなく原爆や原発の産みの親の一人。それによる批判も多いらしい。だが、なぜ、マンハッタン計画が発動したのか? ドイツへの脅威である。ドイツにはハイゼンベルクがいる。(ハイゼンベルク誘拐計画があったが、立ち消えとなったらしい。)ユダヤ人は皆殺し、というドイツの状況で、ユダヤ人は「狂気」なしで生きることが出来るだろうか? 言うまでもなく、理性と狂気は並立する。アウシュビッツしかり、原爆しかり。青木氏は言う。「切迫した状況をリアルに想定する努力をしたうえで、同じ立場に立ったときに自分はどうするかを考えようとしないならば、歴史を教訓にすることなどできはしない」(p168)。その後、ベーテは核実験停止を訴えることになり、反核運動をはじめとする社会運動を担うことになる。原発推進だったが、彼は後処理についての知識は乏しかったとのこと。政治や教育を担った後、70歳を超えてから研究の最前線に復帰という驚異的な仕事をされた。
次にハイゼンベルク。第二次世界大戦の時に、ドイツに留まる。自分が亡命すれば、非ユダヤ系のドイツ人物理学者は、どうなるのか? 留まったことが、マンハッタン計画を推進させたことは言うまでもない。ハイゼンベルグ自身による反論となるものは、青木氏によると『部分と全体』第16章にある、とのこと。そして、マイケル・フレインの戯曲『コペンハーゲン』。ナチス滅亡の後、ハイゼンベルクはオットー・ハーン(核分裂の発見者)らと共にイギリスの農場に幽閉されていた。(ソ連の手に渡る前に殺害する案もあったらしい。)そして、彼らは広島への原爆投下を知る。核物理の恐ろしくおぞましい結果に彼らは戦慄するしかなかった。戦後も、物理学者間の亀裂は残るのであった。さて、ハイゼンベルクは死の前に、神様にあったら、「どうして、相対性理論、そして乱流なのですか」と聞いてみたいと言い残している。神様は相対性理論については答えてくれそうだ、と(笑)。ハイゼンベルクのバックボーンは、非線形現象だったとのこと(山崎和夫氏)。不確定性原理は、先日、それを塗り替えられるかも知れない式が提案された。物凄く実験物理の精度が上がって来たから、見えてきたことである。
最後にランダウ。教育者として名高い彼は、ソ連内部の科学のリーダーであり、そして最先端の科学を担う者として、スターリン主義の批判者であった。――『唯経』を、彼がどう読んだかは興味がある、ちなみに宮本修正主義集団(日本「共産」党千駄ヶ谷派)は、党内のイデオロギー支配のために未だにこの本を経典扱いしている。―― この当たりの事情は、『物理学者ランダウ スターリン体制への反逆』(みすず書房、佐々木力(有名なトロツキスト)・山本義隆(元東大全共闘)・桑野隆編訳)に描かれているとのこと。彼は大粛清の時代、逮捕され、一年間獄中で暮らしていたのだ。実際にスターリン批判の書き、一九三八年のメーデーに撒こうとしたらしい。彼を救ったのは、イギリスで知り合ったP.L.カピツァとの友情であった。カピツァはイギリスからの一時帰国時にソ連に拘留され、ソ連の重工業にとって欠かせない人物にされ、スターリンとのパイプがあった。カピツァはソ連の物理学者のためにクレムリンに百通以上の手紙を書いた。ランダウ逮捕の後、カピツァはモロトフ首相に手紙を書く。「現代物理学のもっとも謎めいた領域でちょうど発見をしたところなのだが、ランダウ以外の理論家には説明することができない」、もしランダウが釈放されなければ自分は研究所をやめる、と圧力を掛ける。時代状況を考えたら命がけの賭けである。カピツァは賭けに勝ち、ランダウは釈放され、超流動理論は日の目を見た。釈放後、戦後となり、ランダウは、監視付きで水爆研究に従事させられる。カピツァは拒否して自宅軟禁。ランダウはそんなカピツァを毎月訪問したが、それ自身命がけである。スターリン死後、ランダウは「解放」される。さてさてさて。資本主義的帝国主義(アメリカ)、国家社会主義(ナチス)、共産主義(共産党)のうち、一番苛烈でおぞましい体制はどれでしょうか、諸君!
科学者が今や、社会の様々な状況と無縁であることは出来ない。どのように振る舞うか、倫理を持つことは重要である。だが、ランダウのように、共産主義体制においては、そのような倫理さえ、党のイデオロギーの前に全面屈服しなくては、生きることさえ困難なことがあるのだ。

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