『いまこそハイエクに学べ』(仲正昌樹著、春秋社)
ハイエクの名前を初めて知ったのは、学生時代だったろうか。寮内のマルクス主義者にこれを批判的に読めと渡されたのが『隷属への道』。だが、そう言われると、評価しようとするのが小生。ってか、この社会主義批判は、当時存在したソ連や中国のことを的確に捉えていると思ったし、「真理に従属せよ」と言わんばかりのマルクス主義者に辟易とした気分もあったので「ハイエクの言うとおりですがな」と言って本を返して、相手は何か怒っていた気がする。
しかし、ハイエクにはそんなに興味が湧かなかった。ソ連が崩壊し、矢鱈持ち上げられていても、「反そのものは何も生まないよーだ」(by ニーチェ)という考えもあったしね。要は、ハイエクを甘く見ていたということだ。
さて。21世紀に入り、あちこちでその名前を聞くようになり、消極的自由の議論を見聞するようになり、その方法論に興味が出て来た。これ、次の時代の共産主義の要素になるかも知れない(!)、と。で、多分左派に分類される仲正氏がこの本を出しており、すかさず購入。
さて。この本。大事なことは太字で示され、それが非常に的確。ありがとう。
んで、最初に注意されることは、あまりコンパクトに「まとまった像」を作り出さない方がいいという気がする、とある。確かに、そうだ。矛盾し、断片的で、自由な精神の持ち主に、カレキテルなことをするのは良くない。ハイエク主義なんて、ハイエクに失礼だろうね。マルクス主義がマルクスに失礼なように。
それにしてもハイエクって、面白いなあ。オーストリアの人なのに、スコットランド啓蒙主義を引き継いでいるし。彼の生い立ちに興味があるが、それは紹介されていない。また、自由主義段階を経て、独占・寡占の時代に向かって行った中にあって、あくまでも自由主義を擁護しようとした姿勢は、反時代的で好感が持てる。そう言う人間を小生は好む。
で、細かい話に入る前に。小生がこの書物から得られたハイエクの考えのイメージは、次のようになる。
「一人一人の、それほど大きな力も知識もない人間たちが、それぞれにしたいことを自由に出来るように、ささいな鬩ぎ合いの中で、自分たちで掟を作り、それに必要最小限の法的強制力を持たせ、社会をつくっていく。今で言う消極的自由を守り、擁護するには、「国家」などが巨大な力をもってしまってはならず、ましてや一部の「力のある(と自らを考えている)人間・あるいは人間集団」=エリートによる、超越的な理念などによる社会の設計(設計主義に基づく)は、自由を著しく損ねるので断固として批判していく」というところか。旧来の社会主義・共産主義の国家は言うまでもなく、それらの運動論の失敗を見ると、ハイエクの考えは尊重されなければならないだろう。
さらに、新自由主義の思想が持つ設計主義的要素への批判にハイエクの考え方は使えるだろう。ちょっと嫌味を言えば、計画経済という露骨な設計主義の行き詰まりを見たトロツキストが、新自由主義という別の設計主義――なぜ新自由主義が設計主義なのかは、後で――に行き着いたのは、彼らの純粋性・理念性にあると小生は思う。まあ、同じ穴の狢ってわけだ。ハイエクはレーニンに通じる「逡巡」がある。疑り深さはオーストリアの歴史によるのか、それともスコットランド系の思想によるのか。新自由主義は「不在の」設計主義とでも言うべき思想である。自生的秩序であっても、作為と見做し「市場原理に反する」となれば破壊する。そこには、設計思想と同様の傲慢がある。だから、ハイエクは新自由主義に対して反論をするであろう。
ちょっとハイエクを誉めすぎか。自由を擁護する思想の一方で、自由の条件についてハイエクは無頓着な面があるとも思った。一言で言うと、ハイエクの考え方には、大いに落とし穴(欠落点)があると思う。それは最後にでも。彼は恵まれた環境にあったのかなあ。
第一章は「設計主義のなにが問題なのか?」と題して。この問題では言うまでもなく『隷属への道』が取り上げられるべきである。社会主義批判の第一級の書物。それを評するに敢えて(笑)マルクス主義的な言葉で状況を説明すると、自由主義段階から帝国主義段階となり、寡占・独占が進む中で集団主義・集産主義が広がっていった。これは資本の運動の効率により広がったわけで、エンゲルスやカウツキーらに見られるようにその運動を極限にまで推し進めるという発想が社会主義の側にもあった。これらが極端に具現化されたものが、ソ連型社会主義であり、ファシズムである。だが、ハイエクの批判の矛先はそこに留まらない。資本主義内部の鬩ぎ合い――階級闘争、資本家間の闘争――が様々な矛盾と悲惨を齎した。そして、それへの一定の解決のために考えられた(戦争=)福祉国家や社会民主主義的手法をもハイエクは批判する。この発想を素直に受け取れる人は少ないであろう。だが、ちょっと落ち着こう。ハイエクはどういう批判をしたのか?
ハイエクの言う「集産主義」とは、「自生=自発的 sponteneous」な諸力から成る非人格的で匿名のシステムとしての市場を廃し、社会に存在する様々な力を「意識的 conscious」に管理・組織しようとする考え方である。
(p32)
それは
ある決定的な社会的目標へ向けて、社会全体の労働を計画的に組織化
(p40)
することである。これはハイエクの考える自由主義とぶつかる。
ハイエクにとって「自由主義」というのは、各人の自発的な管理されることのない努力を尊重する「個人主義」であると共に、そうした努力の結果として生まれてくる「市場」などの自生的な秩序を信頼する考え方である。
(p33)
「集産主義」は、自発性を抑圧し、そして市場の無政府性を認めることが出来ないものとハイエクは考えているのであろう。――勿論、「集産主義」は市場の無政府性故に生まれたのだが。――ハイエクはそこに歴史の逆転を見る。ハイエクの歴史観は以下の通りである。
人類の歴史は、細かな儀礼やタブーだらけで、人々の日々の行動が強く拘束されていた原始的な部族社会から、「一般的 general」なルールだけ定められていて、それに抵触しない範囲であれば、好きなように振る舞うことのできる、より自由な社会へと進んでいる
(p43)
さて。計画経済を実際にやろうとすると、それは権力による経済への介入となる。権力をコントロールするのに民主主義を、と、色々な社会主義者は言うが、「どの程度、どのように」が実は分かっていない。様々な利権がぶつかりあう中、合意形成は極めて困難だろう。結局のところ、計画立案者の、あるいはプログラマーの独裁に帰着する恐れがある。それはソ連・中国の経験を謙虚に見れば明らかである。これらは「予測可能の(一九世紀的な)」科学主義的誤謬である。それは、
社会科学的な普遍法則に基づいて社会を合理的に改造しようとする科学主義・工学的に支えられて発達した思想
である。この発想を設計主義と言う。その発想は、社民主義、福祉国家論にも現れる、と。
ハイエクの懸念は尤もだ。だがしかし。経済的な設計主義が、資本や市場の無政府性から生まれて来た知恵であることも、考えなくては片手落ちだと小生は思う。勿論、ドイツ観念論などから生まれた理性主義の<欲望>という面を否定しはしないが。そしてまた、市場のプレーヤーは決して水平ではないし、中には国家暴力と比するくらいの<力>を有するプレーヤーもいるのだ。まあ、批判は後でまとめるか。
第2章は「自由主義の二つのかたち」と題して。ハイエクは「真の個人主義と偽りの個人主義」があるという。個人主義は「社会の理論a theory of society」であるとする。モナドではないのだ。関係性=反応を意識する個人主義。ここで措定される個人を、統制的・一面的に支配しようとするあらゆる考えにハイエクは反対する。制度とは、こういう個人の働きかけによって自然発生的に形成されると考える。そういう次第で、社会全体を単一的な“知性”の基準によって合理的に設計することが可能とする設計主義に基づいて個人の行為を制限しようとする考え方に集団主義を見る。そういう発想を有する個人主義について、ハイエクは「合理主義的な擬似個人主義 rationalistic pseudo-individualism」と名付け、斥ける。
ハイエクはデカルト合理主義を当然批判し、ひいては合理的な行動を取ると措定される「経済人」という概念を批判する。次に、民主主義を信頼するが、多数決は万能であるという迷信を持たない、と言う。どの領域にまで、決められたルールを適用すべきか?(「公/私」二分法問題) また、平等はステータスの同一化という意味での平等であってはならない。ただ、どうなんだろう? 機会の平等を否定するのは??
ハイエクは歴史的に積み重ねられた伝統や慣習による掟が法となることを好ましいとしているようだ。ホッブズを源流とする社会契約論を、ひいてはフランス革命を否定的に見る。自由・平等・博愛を言うが、フランス革命の理念の「自由」は、理性主義=設計主義に基づくものであり、ハイエクにとっては自由ではない、ということになる。
さて、法の支配は、国王の専制に抗して自由を守るために生まれたとされる。自由を保障することが大事で、民主主義はそのための手段というわけだ。そして、法の前で全ての個人は平等となる(イソノミア)。ハイエクは、平等性を毀損する独占や寡占を批判した一七世紀イギリス議会の動向に注目する。マグナ・カルタやコモン・ローの歴史に注目する。強くはない水平な個人が、鬩ぎ合いながら掟=法を作るというイメージにあくまで忠実たらんとしている。ジョン・ロックの『市民政府論』をも、政府の権力を制限するための議論と見る。議会には権力の専制に抗する役割があるとする。議会が「人民の意志」を代行する形で法を新たに作ることは「人の支配」に過ぎない。そして、憲法には権力(そして権威)の制限のため、具体的に権限を明記する必要がある。そうしないと、イギリスのように議会主権→議会全能=独裁という罠に陥るからだ。
法の支配(rule of law)とは法それ自体による支配(rule of the law)ではなく、法がどうあるべきかに関する規則(ルール)、すなわちメタ法的原則(meta-legal doctrine)、あるいは政治的理念である」
(p97、『自由の条件』)
法の淵源を「人間」に見定めろ、ということか。ハイエクにあっては言うまでもなく自生的秩序=掟である。
第三章は「進化と伝統は相容れるのか」と題して。ハイエクは自生的秩序が「適応的進化 adaptive evolution」の結果出来るものと考える。合理的な設計によるものではなく、社会的進化論のような優勝劣敗でもない。背景に個人の経験の蓄積(伝統)への信頼がある。そして進化するのは制度や慣習であり、個人が優れていく必要はない。そして制度や慣習の進化について、マンデヴィルを紐解き、「法」が中心的であることを示す。こうして出来るものが「正しい振る舞いの一般的ルール general rules of just conduct」である。ルールの効用は事前には分からない。だから、取り敢えずやってみて、ダメなら修正ということが可能になるし、公平に見えるし、進化を担保する。
さて、高度に分業化された社会においては価値観や利害が錯綜する。個々人の目的を措定し、社会を設計することは上に書いた論理により全体主義に繋がりかねないし、何よりも進化を妨げるので反動的である。ハイエクの考えでは、進化とは伝統を踏まえたものということになる。そして、伝統を感じる心は、伝統によって育まれたルールによって育つ。それにつれて理性も進化すると考える(「進化論的合理主義 evolutionary rationalism」)。このような厚みを持ったルールに従うならば、限られた情報と知識しかない“無知 ignorance”な個人の動きによってでも、自生的秩序は形成され、進化していく。超越的な設計(主義者)は不要というわけである。
ここで「無知」が出た。生産過程で、市場で、個々人は限られた知識しか持っていない。合理的経済人は全ての情報を持った人たちが市場を形成し、フラットな関係が結べるかのような妄想を抱くが、現実にはそんなことはない。そんな妄想は、計画経済で全て設計出来ると考える妄想と同様である。市場における個人は、価格などの重要かつ必要な情報だけを入手し、行動する。「全ての」情報など知りはしない。価格メカニズムによって導かれる価格に情報が収斂することは合理的な機能である。これは、「自分ではその意味を理解していない公式、記号、規則などを慣習的に使用することによって、個人的には所有していない知識を利用している」(p135)ことに通じる。これはパソコンの仕組みを知らなくても、こうやって文章を書けるようなもの。こうして、「人々が自分の知らない知識を活用することによって自生的に形成される市場の秩序を、「カタラクシー catallaxy」と」ハイエクは呼ぶ。共通の枠組みの中で、相互の利益を調整するというニュアンスがある。「経済 economy」では、経済単位があり、それらに#共通の#目的があるように措定されよう。カタラクシーでは、行為者各自が別々の目的で市場にアクセスし、自生的秩序を作る。設計された理性的な法ではなく、掟に従う。ハイエクによると、大きな社会では異なった目的、価値を追求する人々が係わるので、カタラクシーが発達しないと機能しないと考える。注意すべきは、なんらかの尺度でもって「最大多数の最大幸福」を測定することは出来ない、とハイエクは考えていることである。これは、価値説における循環論法の再現だね。だから、カタラクシーの論者であるハイエクは各人の幸福のための尺度を考えることはしない。
さて。ハイエクは人間社会の秩序について「タクシス taxis」と「コスモス cosmos」の二つに分けて考えた。タクシスは指令的(人工的)社会秩序、コスモスは自生的秩序の意味で用いられる。コスモスにおいては、進化の過程での淘汰を経た諸ルールが秩序を生み出す。タクシスでは命令を補完するためのルールである。市場経済のルールは前者、会社内のルールは後者。これらのルールは必要なところでそれぞれ運用され、「自由で複雑な社会は、二つの秩序の巧みな組み合わせによって成り立っている」(p149)のである。そして、問題はコスモスをタクシスと誤認し、設計主義的に手を加えようとすることである。例えば、政府はタクシスであり、社会というコスモスに働き掛けることで機能する。だが、過度の働き掛け(干渉)は、社会をタクシスと見なすことに繋がる。ついでにハイエクは社会を「有機体 organism」と見なすことにも反対していた。というのは、有機体とするならば、全一的な機能に部分が奉仕するというイメージがあるからである。
なお、ハイエクを保守主義の文脈で語る人がいるが、それは結構無理筋なのかも知れない。自生的秩序は「伝統や慣習を介して形成されるが、それは決して集合主体のようなものではなく、ましてや、伝統や慣習を守る歴史的使命のようなものを全体として担っているわけではない」(p152)と筆者は言う。歴史や伝統が守られるかどうかは、構成員の意志と状況に掛かっている。どの伝統や慣習が生き残るかは、彼らにとって利益になるかどうかによる。そしてそういう自由が大事なのだ。ハイエクは「なぜわたしは保守主義者ではないのか」と言明している。自由主義者は変化(進化)を受け入れる。ハイエクに言わせれば、保守主義者はカタラクシーの持つ調整能力を理解していないとのこと。そして、交流を妨げ、変化を妨げ、集産主義的に管理しようとする、と。この面において(ハイエクの言う)社会主義者と保守主義者は共闘する、とまで。(筆者によれば保守主義も色々で、伝統が変化に対して柔軟に対応できる――ってか、でないと生き残れないだろ!――と考えたオークショットのような人にはハイエクの批判は当てはまらないと指摘する人もいるらしい。)
第四章は「法は社会的正義にかなうべきか?」と題して。前にハイエクは秩序をコスモスとタクシスに分類した。そして、コスモスに対応するのが「ノモス nomos」もしくは「自然の法 the law of liberty」、タクシスに対応するのが「テシス Thesis」もしくは「立法の法 the law of legislation」と言う。馴染み言葉に置き換えれば、ノモスは「掟」、テシスは「法律」になるかな。ハイエクはコモン・ローを高く評価していて、そこで立法する裁判官を評価する。この裁判官は、「政府の組織から相対的に自由な立場に立ち、人々の慣習の中から「法」を発見し、判例法を形成」(p161)して法を実効ならしめてきた。テシスは、議会による立法であり、元々はタクシスの制御のためのものである。ハイエクによれば、これら二つの法は適用範囲が違うはずだったのだが、いつの間にかテシスがノモスの領域を侵犯し始め、ひいては議会万能主義に陥ったとのこと。勿論、それには必要性があったとハイエクも指摘する。判例法の誤りが判明した時、原理的な問題まで追及せざるを得ない場合、など。だが、「法の支配」という概念で混乱が生じ、議会万能主義的誤謬が生じたのだ、と。ハイエクは私法――私人間の関係を規律する法の総称(民法、商法)――と、公法――国家と個人の間の関係を規律する法の総称(憲法、行政法、税・財政法)にノモスとテシスを照応させる。そして、公法が本来的なあり方と見做されることにより、法制における設計主義が生まれて来たとする。私法こそが、公共的利益を維持・拡大するうえで主要な働きを果たしていたにも係わらず。本来、ノモスを守るためのテシスであるとハイエクは考える。
さて。ハイエクの正義観が面白い。「ある「行為 action」が「正しいか」「正しくないか」は、(中略)その行為が「正しい振る舞いのルール」に適合しているのか否かのみによって決定される。」(p173)とのこと。そして、帰結から正邪を考える帰結主義を退ける。そのルールへ誘導する「正義感覚」があると言う。それは進化の過程で発達すると言う。そしてそのルールは、「正しくない行為」を禁ずる、という消極的な性質であることが多い、と。現実において、消極的テスト――それは特定の目的だけに有利であるような性質のルールを排除する――を経て成立しているがゆえに、普遍化可能性(universalizability)を得、「大きな社会」でも人々に共有されるとする。なお、具体的な目的を実現することを目指す正義とは、部族社会的な正義感情の名残とされる。
一方、こういう考え方に敵対するものとして「法実証主義 legal positivism」がある。これは、実定法以外のもの――道徳や宗教など――を切り離して考える立場である。それは無から法秩序を設計しようという発想に繋がりかねない。
ハイエクは上記の掟に即した正義を認めるが、「社会的正義 social justice」は正義と言う言葉の乱用だと言う。まるで社会が一つの人格――有機体――であるかのようにみなす原始的思考である、と。それは「配分的正義 distributive justice」と等値される、と。“公平な処遇”は、時として市場での分配を超えた再配分を行わなければならない可能性があると言う。社会というアモルフで無目的なものに目的を付与する必要がある、と。この辺になると、ハイエクってお花畑の人としか思えないのだが、まあいいや。なお、社会保障を全て否定しているわけではないが、アメリカの保険がどうなっているかを見れば、ハイエクも罪なことを言ったとだけ書いておこうかな。
民主主義が肥大化し、利益誘導政治や行政との癒着に警鐘を鳴らすところは理解しやすい。そして、民主主義的立法をノモスにおける「正義」の観念で制約すべきと言う。そして、議会に無限の権力を与えないために、「ディマーキー demarchy」という概念を提示する。民衆が、ノモスとしての「法」を守りながら、それに根源のある立法そして行政を実行するということである。
さて、ハイエクとロールズはそりが合わなさそうに思える。ところが、ハイエクはロールズの配分的正義論を肯定的に評価しようとしているらしい。ロールズの配分的正義の問題は、経済活動を規定し、制御する諸ルールの一般的体系を設計する際に考慮に入れるべき諸権利の配分と割り当てを巡る問題であり、直接的な結果誘導のことではない、と。そして、ロールズを評価する中で、相互協力のための――タクシス的な性格を持った――「制度」の必要性を認識しているとのこと。タクシスとコスモスは相補的という常識的な考えなのだ。
終章は「現代思想におけるハイエク」と題して。筆者によるとハイエクの思考は、「様々なレベルの二項対立から微妙に外れていく思考様式」とのこと。どちらかに与しているようだが、実際には独自の視点を持っている。例えば、社会主義/保守主義では保守主義のようだが、今まで書いたように両方に批判的である。リバタリアンやプラグマティズムとも一線を画する。市場での均衡という発想を否定する。「共通善」も否定することでコミュニタリアンとも一線を画する。
ここからは哲ヲタネタ。統整的理念で有名なカントの哲学を上の次第でハイエクは否定していよう。「人間の認識と行動を統制する法則は経験と慣習によって形成される」とするヒューム主義に近い。とはいえ、聡明なハイエクは、コスモスだけでは社会は運営できないことに気付いたように、カント主義に近づいている。ハイエクは精神/物質の二元論というお馴染みの軸足にではなく、「行為」にそれを置き、ルールの進化や社会秩序の発展を考える。
格差社会については、ロールズのところで見たように是正の必要を認めるも、プロセスの公正さ、結果が「カタラクシー」に及ぼす影響を考える、と、著者は見る。民主主義については上に見たような制約を提案する。最近話題になっているらしい「熟議的民主主義 deliberative democracy」が討議のプロセスにおける「公共的理由 public reason」の呈示において注目され、それによりルールや正義が掘り下げられ、制約されることに通じる。
ふう。ハイエクの発想は大体分かった。「“あまり強くない個人”が自由に生きることを可能にする「大きな社会」のメカニズムを明らかにし、それを守っていくこと」(p227)である。そこでは、個々人の水平性が前提にならなければ“欺瞞”だ。というのは、ハイエクの発想の前提が、現実にはないことを誰でも知っているからだ。発想には、そこに最大の弱点があると思う。魅力的で、そう出来ればいいなあ、という点では「自由な人間の自由な諸連合」(マルクス)と同じような印象だ。それと、自生的秩序が出来る時、強者=弱者が出来、弱者が泣きを見るのも色んな業界で観察される。それから、国家レベルの“自生的秩序”――国家間では、それ以外にあり得るだろうか?――が、帝国主義(イデオロギー)となり、世界に押し付けられて植民地支配などの悲惨を産んだことは誰でも知っておろう。まだある。企業や組織というタクシスの内部のこと。これは離脱が担保されているから、いいということなのだろうか? それと、新自由主義の時代を見ていると、強者同士の自生的秩序から排除された、例えばプレカリアートの扱いはどうなるのだろう。
次に。自生的秩序で上手く行かないことが一杯あるから、設計主義が生まれたのではないだろうか。設計主義と自生的秩序、これらは組み合わせて、あるいは棲み分けて、使い分けて行く以外にないだろう。
とにかく、ハイエクを引用して何かを言っている人間に対しては、注意をしたほうがいいな。マルクス・レーニンを引用している人間に、警戒をしなくてはならないように。
でもまあ、それでもなお、ハイエクは魅力的だ。筆者に大いに感謝。

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