『数学的思考の技術 ――不確実な世界を見通すヒント』(小島寛之著、ベスト新書=318)
宇沢弘文の弟子の経済数学者による本。宇沢先生の弟子らしく、「経世済民」という観点からの発想を強く感じた。
第1部は「不安定な毎日を生き抜くための数学的思考」と題して。世の中を生きるには戦略が必要だ。だが、大抵それは事前に考えたようにいかない。「事前には最適である戦略が、実際に時間経過とともに実行段階で必ずしも最適でなくなる」(動学的不整合性、p18)があるからである。例えば、インフレ政策を取ろうとしても、国民は政策の影響を予想するため、効果がないように。次に、「変なスイッチ」が入ってしまった(笑)。ちょっと引用しよう。
最近よく、経営者の高額報酬が問題になる。(中略)このような不公平感を一般化して、「社長は社員から搾取している」などというような議論に結びつけることは極めて危険だ。
(中略)
社長が時に大きな報酬を得るのは、社員が安定した生活を送ることと表裏一体なのである。
(p23)
今のプレカリアート問題をどう思う?とかいう突っ込みは置いておいて、理論上は正しい。目先の金が必要な労働者はリスク回避的に振舞う必要がある──それゆえに最低限の固定給でも受け入れる──一方、経済的に余裕のある経営者はリスク中立的に振舞うことが出来るからだ。でも、これ、搾取可能な条件として、アナマル派が証明していたと思うし、素朴な言葉でマルクスが言っていたと思う。マルクス主義の洗礼を受けた人間としては突っ込まざるを得ないのであった。で。ボーナスは、労働者が自発的にスキルを高め、努力をするために有効であることが示される。但し、それは余り高くてはならない。リスク回避的行動に影響を及ぼさない程度に。次に、加湿器にどれだけの価値を各人が見出しているかを引き出す工夫は面白い。そして注意すべきことは、本音を引き出すにはコストが掛かるということ。こんなことまで証明できるんだね。多重債務者は考えに一貫性がなく(双曲割引)、だらしない発想となる。年金は国家の無限性(無制限性)に依拠したネズミ講である。人口が減少さえしなければ。ヒルベルトの無限ホテルで無限の本質が示される。
無限とは、自分自身全体を自分の一部分に収めることが出来る不思議な器
(p61)
ゲームの理論は構成員全体が納得する利益配分を目指すルール作りをする──ルールを選定した上で個々がエゴイスティックに振舞って──が、協力ゲームの解には「安定集合」「コア」「シャプレー解」「仁」とか、色々あるんだなあ。ここではコアが紹介されている。でもこれ、暗に上手く行かないことがあることも示しているよね。例えば、AさんとBさん二人が組むと、8億儲かる場合とか。世間は厳しいのだ。で。心理が確率に影響することがある。医者に「手術で助かる確率は70%」と言われると、気に病む人の場合は確率が下がるかも知れない。株の売り買いの場合は「ナイト流不確実性理論」があり極端な行動に帰着するかも知れない。「動こうとするとその方向が悪い方向に思える」(ダウ&ワーラン効果)のだ。で、衰退産業にしがみつく。
さて、経済はネットワークである。近年の特徴としては、「ネットワーク外部性」が勝ち組・負け組を産むことか。ある商品がどれだけ多くのユーザーに利用されているか、で勝敗が決まる。古くはVHS、二〇年くらい前はウィンドウズ。こんなのは偶然だ。さて。市場の取引には時間と手間、要はコストが掛かるので、需給の一致なんかに従うことはない。この辺りの機微を調べる理論の一つに「サーチ理論」というものがあるらしい。その延長に「命がけの飛躍」を支える「貨幣」の謎を解く、数理的なアプローチ方法があるらしい。凄い。あのトートロジーを切開できるのか? 市場の成立には多数の参加が必要。保険もそうだ。いわゆる大数の法則。で、これを敷衍すると、国家による保険のほうが合理的なことも有るんだよね。何でも市場に任せればいいというものでもない。公的事業と私的事業の振り分けは、市場の性質を考えて、ね。
第2部は「幸せな社会とはどういうものか」と題して。著者の本領発揮。金は天下の回り者。エコに目覚めて消費を止めると、回りまわってみんな不幸になるかも知れない。経済の外部性が、不幸を齎すかも知れない(公害など、「市場の失敗」、あるいはピグーの「外部不経済」)。ハーディンの「共有地の悲劇」という寓話もある。ただ、市民の意識も変化して、それが経済行動における選好に反映しているのも事実。公共事業も環境改善型に変化している。ちなみに、乗数理論は歴史=論理的に否定されているらしい(『容疑者ケインズ』(プレジデント社))。デフレが恐ろしいのは、「雄鶏が啼」(マルクス)くようにして得た貨幣を蓄積した人間が、蓄積そのものに快楽を覚えること。新古典派の処方箋──インフレを起こす──は確かに出口のない迷宮だ。増税してでも、環境改善型、福祉改善型での公共事業をすべきと筆者は言う。
さて、ミクロ経済学には「抜け目ない裁定戦略的な方法論」という言葉があるらしく、それは、「僅かな隙でも儲ける道があればそれは必ず実行される」ということらしい。「裁定」とは利ザヤを稼ぐ、みたいな。だが、先の事は分からない。もっとロバストな発想が必要なのだ。そのためにはウェブレンに連なる「制度学派」の考えを深めるべきと著者は言う。
人間は包括的な立場から制度を修正し、時に抜本的な組み換えを行って、環境とうち解けて行くのである。
(p141)
ウェブレンの弟子と言っていい宇沢弘文は、公害問題で制度学派に転向した。そして「社会的共通資本の理論」を打ち立てようとした。医療、教育、交通などが思い浮かぶ。それだけではなく、金融も含めるべきと考えていたらしい。これは理に適っている。で。コモンズの悲劇については、「実際のコモンズはオープンアクセスではなく、掟がある」ので、社会的共通資本についても、適切な制度や掟で持続可能に維持できる、とする。ベーシックインカムについては、インフレ状況を想定した批判がなされる。社会的共通資本でさえも高騰し、貧困化が進行し、社会は不安定化する、と。貧困対策としては、社会的共通資本の充実であるべき、と。条件と考えが今のベーシック・インカム理論と離れている気がする。がまあ、市場経済に何でも委ねればいいというものではなく、社会的共通資本の充実には同意する。「貨幣が引き起こす悲劇には非貨幣的なシステムを使って対抗せよ」と。宇沢は社会的共通資本を活かす上で最も重要なファクターを都市空間と捉えた。で、ル・コルビジェらの「ゾーニング」という設計主義丸出しの都市計画は世界で大失敗した。ブラジリアとか、筑波とか。暮らしにくく人々を憂鬱にするらしい。で、ジェイコブズという人が魅力的な都市の四条件を見いだした。
1.街路の幅が狭く、曲がっていて、一つ一つのブロックの長さが短いこと
2.古い建物と新しい建物が混在すること
3.各区域は、二つ以上の機能を有すること
4.人口密度ができるだけ高いこと
(p158)
なんだ、1970年代までの日本の都市やん。ちょっと行けば田園風景が広がっていれば個人的には文句なし。さて、既存の経済学ではこういうややこしく多機能なものを分析するのが苦手らしい。株式市場も多機能であり、様々な問題があるが、それは魅力と裏腹である。この世界になってくると、数式ではなく「物語」による理解しか届かないのかも知れない。そして、この本はコトバとの関係に入っていく。
宇沢は公共財と社会的共通資本の違いとして公共財は国防(社会的安全)や電波のように分割されないこと、「混雑現象」はないが、社会的共通資本では医療のように「混雑現象」や河川の水質汚染がある。公共財は市場機能が有効に働かない。で。従来の経済合理主義的発想を抜け出て、「人々の知識は全知全能などとはほど遠く、いろいろな思い込みや誤謬にはまり込んでいる」と考えてみよう。そして「公共財や社会的共通資本の存在」により、普段は意識されざるものに触れることで、新たな豊かさに触れ得るのだ、と。例えば、何気に行った美術館で素晴らしい作品に出会うとか、何気に文楽に行く、とか。世の中(の豊かさ)は多分そういうところで満たされるのだ。インターネットのコンテンツの多くは、無料で公開されている。これも公共財と言えよう。ここに多くの人間が精力を注ぎこんだら、経済成長は見た目ゼロになるかも知れない。だが、「そこでは華やかで人間的な営みが展開され、新しい生活空間が創出され続ける」(p173)であろう。確かに、「継続的な経済成長が必要なのは、途上国のみであり、先進国には必要ない。」(p173)こういうのを、「ミルの定常状態」というらしい。
第3部は「「物語」について、数学的思考をしよう」と題して。概念を突き詰めると、どういう世界でも「定義も意味も曖昧な領域」に突き当たる。(かつて、スウェデンボルイは数学的な言語を創出しようとして挫折したらしい。)トートロジーに突き当たるのだ。「哲学における「ことば」、数学における「数」、経済学における「貨幣」、科学における「時間」」(p177)。筆者はこれこそが世界の秘密を解き明かすための有力な武器と大胆にも考える。簡単に個別で論じることの不可能性を示し、相補的に論じることを提案する。だがその後の議論は、問題の難しさを示しているだけのような? ただ、そこから面白い発想が湧いてきたのも事実。例えば、「ピストロジー」「サーチ理論」「タトヌマン過程」「時間の矢」「マクタガートのパラドクス」。数理経済学で示される限界が本で暗示され、ケインジアンであるアカロフ(『アニマルスピリット』の著者の一人)は数理的天才であるが、「物語」で経済に切り込むようになっているとのこと。意識が存在を規定する(爆)。で、物語は三六種類しかないそうな。
さて。筆者は村上春樹ファンである。「村上の奥底に「ある種の数学的思考」が存在する」(p198)という。トポロジーによると、『ノルウェイの森』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は同一の構造らしい。確かに。でも、ここからが凄い。村上文学の趣旨の一つとも言える文章を引用する。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している
(p207)
筆者によると、「トポロジーでは、1点だけを考えず、周囲のふくらみを併せて考える」(p209)そうだ。これで分析すると、空間がどういう構造をもっているか――内部、外部、境界はどこか――、明示されるようだ。『1Q84』は、「善と悪」「日常性と悪」のトポロジーの話とのこと。これらはパラレルワールドであり、「陸続きだが普通の道を辿ることでは行き着けない場所がある空間」同士とのこと。「連結だが、道連結でない空間」。こんなことを文学でやっている村上は、勿論数学をあからさまに示しているわけではない。だが、ソフトウェアとして数学を使っているのだろう。一方、図形や数式を使わずに、読んでいると勝手に図が読者の頭に浮かぶ説明が出来る人もいるようだ。ロシアのポントリャーギン。フランス人のモランに至っては、四次元の図形について語って説明出来るという。四次元? どんなものか? 三次元は四次元の展開図を示すことが出来る。サルバドール・ダリのキリストの磔が例となるとのこと。四次元立方体の展開図。
http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/b6d1d042276c54cde1f892125334105b
さて、村上。村上の文体は平易であり、論理的である。そして厳密である。それゆえに、多くのドメスティックな問題意識を抱えつつも、世界中で読まれるのであろう。そして、確率的に揺らぐ世界を見据えるとき、「彼は偶然を拒否し、必然とすりかえようとしている」(p236)と筆者は言う。それを感知するか、しないか、で。『ノルウェイの森』は、色々な自死が描かれていた。「生」と「死」のトポロジーをほのめかしながら。だが、小生には、少なくとも直子の死は、ちょっと違って捉えたんだが、まあいいや。筆者は谷川豊と婚約者の自殺を示し、「論理を数学的素材そのものに用いているのでは、死の誘惑からは逃れられない」と正直に告白する。そして続ける。「それに勝つには、そいつを現実認識に用いなければならないのだ。そして、村上こそが、現実認識において数学を用いている作家なのではあるまいか。」と言う。うーん、若いぜ! 汚れちまった悲しみに(謎。三日月夜空、可愛いぜ(もっと謎。
さて、村上は暴力や悪についても考える。直視し出したのはオウム事件からかと。オウムの独善、端的には「ポア」に対して、「それは測定できますか? 客観的に証明できますか?」と反論する。村上は、現実という、生活者が積み上げたモノを「ショートカット」してしまうことを許さない。彼は「ものごとの関係性を図形によって可能な限り明瞭に掌握しようとし、そしてその素性を論理によって再検証する」(p245)。それは予測、想像にも使えよう。「幾何学は見えない世界に対して用いるのだ」(p245)そして、「幾何学は、見えているものの偽りの形に騙されないためにも有効なのだ」(p247)。ポントリャーギンとモランは、盲人とのこと。
明示出来ない、入り組んだ、ややこしいもの。数学は、暗闇を照らすというよりは、探るためにあるのかも知れない。

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