八重の桜を見ていて、歴史というものを考えていた。鯨の脂を取るために、アメリカが日本を力づくで開国させたことは、日本人なら誰でも知っているだろう。たった四杯で夜も眠れないトラウマというわけだ。支那の惨状を見て、日本人は「ああなるのか」と恐怖した。不平等条約を力づくで結ばされ、その失地回復には長い年月を要した。近代国家化=トラウマの刻印であり、トラウマの刻印者は宿命的な敵となる。
さて、支那、あるいは清国、そして李氏朝鮮。彼らは華夷秩序のまどろみの中にあり、清国はイギリスなどに蚕食されても亡国の危機感が乏しかった。明治日本が「このままじゃあ、亜細亜は共倒れですぜ?」と呼びかけて、国家の変革を呼びかけても、無視した。「華夷秩序の化外の野蛮人が、清国に物申すとは、不届き千万」というわけだ。彼らは明治時代、まどろんだ。勿論、清国にも朝鮮にも、目覚めるべきとした人はいたが、弾圧され、国を変える前に日本などのなすがままになった。ちなみに小生は、「悪友と縁を切れ」と言った福沢諭吉は、当然のことを言ったまでと思う。今現在、日本はアメリカという、悪友との関係を見直すべきだと小生が考えたようなものだ。
その後日本は、欧米に侮られまいと必死の努力をして富国強兵の道を突き進んだ。ロシアへの恐怖心への対策、手短な植民地の獲得、それらのために朝鮮国家を亡きものにした。その後、第二次世界大戦での日本の敗北で朝鮮は独立を回復する。分断国家ではあるが、いずれも近代国家として。彼らのトラウマは日本によって刻印された。朝鮮(そして韓国)の宿命的な敵は、日本である。
一方、化外の民の日本(倭)によって、他の西欧列強以上に蚕食された清の後継、中華民国は亡国の手前となった。「大中華、まさに滅びんとす」。蒋介石、毛沢東、西欧列強、日本。これらが支那の大地で鬩ぎ合った。結局のところ、義勇軍行進曲(現・中華人民共和国国歌)に代表されるような、抗日でまとまった共産党勢力が支那で伸長し――蘇州の革命記念館ではそう書いていたぞ――、台湾を除く中国を平定した。「抗日」すなわち、日本が敵、という意識で建国されたのだ。よって、中国の宿命的な敵もまた日本である。
そういうわけで、日本は宿命的な敵だらけである。近代国家の成立には、宿命的な敵が不可欠のようだ。これは、もう、どうしようもない。そういうものだ、としか言いようがない。これは出発点であり、克服が困難なトラウマである。
勿論、敵とは渡り合わなければならない。だが、同時に、争闘は破滅的な結果を招きかねない。大東亜・太平洋戦争のように。周辺にも思いっきり迷惑。敵を新たに作りかねない。小生が思うに「敵とは仲良くせよ、だが、毅然と。」歴史を踏まえ、理解し、その上で堂々とする。これが難しいのだが。
「お前、戦争放火者ちゃうんか?」と言いたくなるような話が、日本およびその周辺で湧いている。李氏朝鮮にも、清国にも開明的な人々はいた。日本にもいた。誰の声を聞き、誰の声を抑制すべきか。敵の中にも味方はいるものだ。国家を一体の塗り壁みたいなものとして取り扱う見方は、危ないと思っていたほうがいい。蓮池透さんの本を読めば、あの北朝鮮も、そんな「一体」なんかじゃないことは見えてくる。(とりあえず、北朝鮮は銭の力で溶かしてしまえ、と思う。小生は極悪なのだ。)
日本に味方なんて周囲にはいない、と思ったほうがいい。だが、たいていの近代国家はそういうものだという点から出発して「敵と仲良く」する方法を考えるのが筋なんじゃないか。
でもまあ。前に書いたけど、華夷秩序の中に、近代国家を超えるヒントがあるけどなあ。

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