40. KM生@政治将校様,TAMO2様
2013年03月13日 23:28
それにしても、中共は律儀ですね。
新中国建国以後60数年の間に、「大躍進・反右派闘争・文革・改革開放政策・天安門事件」等々(さらには少数民族問題も含めて)政治闘争の被害を受けなかった中国国民など皆無でせう。にもかかわらず、さして自国に利益をもたらす訳でもない「日本からの食客」の面倒を60年以上見続けているんですから。
伊藤律なども、(回想録を見れば、文革の一時期迫害を受けたことはあったようでしたが)帰国できたのは、決して日共のイニシアチブではなく中共のイニシア(80年当時の革命外交の清算による周辺諸国との関係改善・経済優先路線によるものではあったが)によるものですたからね。
41. 政治将校@KM生・TAMO2両師匠
2013年03月14日 10:22
そう、この手を問題をリアルな息遣いで回想したり、話し合える最後の世代かもしれませんね、我々は。
中共では路線論争の果ての権力抗争で何人もの幹部、「毛主席の戦友」たちが「走資派」「外国のスパイ」「修正主義者の走狗」などのレッテルを張られ、結局命を落とした者多数です。
あとで文革見直しなどで「名誉回復」されても、遺族から「命がなくなったいま、どういう意味があるのか!」と怒りの声が爆発したということです。
そうした中、文革後期から「いかなる路線に立っていても過去の功績には報いるべき」「最低限の生活保障は失脚後もすべき」といった不文律が確立され、機能しているようです。だから、「死刑執行猶予」なんて変な刑罰まで登場していますね、薄起来の妻の件では。
一種の「ゲームのルール」で、「何があっても命の奪い合いはやめよう」ということで、その中に乗っかっているのが北京機関の生き残りの方たちの問題です。実は関係者と話したことがありますけど、対日本についてどういう路線が話し合われていたかなどの確信部分は頑として話してくれませんよ、いまだに。
42. TAMO2@政治将校様
2013年03月14日 22:10
>対日本についてどういう路線が話し合われていたかなどの確信部分は頑として話してくれませんよ、いまだに。
まあ、軽々しく言えないですけど、朝鮮戦争の後方攪乱のための、武装蜂起なども考えられますからね。墓場まで持っていくしかないんでしょうね。
中共としては、日本に帰られて何か言われるよりも、自国で囲っておくほうが管理できるというのもあるんでしょうね。
43. 政治将校@TAMO2師匠
2013年03月14日 23:25
>朝鮮戦争の後方攪乱のための、武装蜂起なども考えられますからね。墓場まで持っていくしかないんでしょうね。
それに近いことは、計画があったようです。また、朝鮮戦争の失敗(どうも、金日成の冒険主義と評価したらしいです)で、朝鮮はもとより、日本など周辺国の共産主義運動が打撃を受けたことに鑑み、新たな活動家を補充することを狙って、在中国の日本人活動家を1958〜60年頃に帰国させることも検討され、一部実施された模様。これら日本人帰国者の多くは中国共産党員で、日本共産党に入党して二重党籍だったと思われます(日共にあえて入党しない活動家も多数だったと推測しています。あちこちで拾った話から)。
44. KM生@43.政治将校様
2013年03月15日 05:48
>1958−60年中共から帰国党員
「その多くは帰国後日本の現実に目覚めて離党し、結局は(高い費用掛けて養ったのに)何の役にも立たなかった」と、何かの本で読んだ記憶があります(^^)。
実際「シベリア抑留時代アクチブ(=ソ連の手先)だった人間」の大部分は、帰国後(当初を除いて)筋金入りの反共になったもんね(^^)。
45. 政治将校@KM生師匠
2013年03月15日 07:49
>アクチブと反共主義者、シベリア党員
それが、2000年を超えてからお互いに和解して、抑留者組織も統合し、国会前に寒空下、座り込みをしましたから、歴史は動くものだなと思いました。当時、この人たちの支援をしていて、弁当やお茶を配ってました。
出征兵士の10%前後がシベリア等、ソ連軍に持っていかれて重労働させられましたからね、これが国民に与えた心底での反共、反ソ連意識は大きな要素として政治に影響を与えていますね。
あと、おっしゃるようにシベリア帰りですぐに入党した人で残っていたのは緋田元常幹など、党幹部でも一部だったかな。けっこう抑留者運動の世話役には党員が多かったですが、戦後の生活の中で「いい議員」に出会ったとか、労働運動の中で入党したとか、シベリア経験をむしろ突き放して(ソ連の現実と日共を意識の中で分けて)党員になった人たちがほとんどだったように、話を聴いて思いました。

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