『海賊とよばれた男』(百田尚樹著、講談社)
まず個人的な話を。この作品のモデルは出光佐三である。出光佐三のことを初めて意識したのは、大学3年の頃か。当時、洛風書房という本屋に出入りしていた。ここの主人は、何度か取り上げたこともある魚谷哲央氏であり、当時は昭和維新社という右翼団体のトップであった。
彼が、小生に「君は確か化学を専攻していたね、これが面白いと思うよ」と示されたのが、出光佐三の自伝(自分で書かれていたと思う)。日章丸のことは覚えていないが、戦後の混乱期に馘首しなかったことや出勤簿や労組もない会社であることが印象に残っている。
この本が出た時、そのことを思い出して是非とも早く読みたいと思っていたが、中々時間が取れずようやく読めた。で、出光氏自らの本では、あっさりと書いていたことが、こんなに熱く、ドラマティックであったとは。作者の脚色も入っているのだろうが、熱い。この本は、小生の年代の子供たちが熱中した(であろう)、「友情・努力・勝利」の物語である。すなわち、少年ジャンプだ。少年ジャンプが大丈夫ならば、日本は多分しばらく大丈夫。この本が去年の本屋大賞を得た、ということは、しばらく日本は大丈夫、ということか。
主人公国岡鐡造は弱視で、体が弱く、どちらかと言えば気の弱い少年であった。そこから脱出すべく、早く働かせたい父親の思いに反抗し、進学を進める。そして、新設の神戸商高(現:神戸大)に入る。思春期から青春期に掛け、心と体を鍛えることを意識する。この目的意識性の強さは、神戸大の伝統なのか? 彼は大学の先生から大事なことを言われる。「これから商人はいなくなる。」ここで言う商人とは、カール・マルクスがどこかで皮肉を込めて言った「相場を見て、あるいは相場を操作してあくどく儲ける連中」のことである。決して、レーニンが学べと言った「良き商人」のことではない。良き商人とは、売り手と買い手を要求を知り、廉価で両者を結び付ける人間のことである。このような良き商人が次代を担うと先生から鐡造は教わった。この教えを鐡造は一生追求することになる。一方、俗物的な講演については「黄金の奴隷となる勿れ」という格言が学生たちの間に出来る。それも忘れなかった。また、学生時代にふとしたことで秋田に旅行した時、石油の可能性を知ることになる。まだ、燃料としての価値に誰も気づいていなかった時代に。これが鐡造の一生の生業を決定する。
鐡造は同僚たちが鈴木商店などの大手に入る中、丁稚として小さな小麦の問屋に就職する。ここの店主が偉かった。朝から晩まで、どの店員よりも早く・遅く働くのだ。そして店員を家族のように遇する。高卒(当時)の鐡造は、定時帰りの人間だったが、ふとしたことでこのような店主を見て、感銘を受ける。鐡造は製麺所の新規開拓などで頭角を現すが、没落する家族のために、早く独立することを決心する。しかし、先立つものがない。ここで、学生時代から親交のある高等遊民・日田重太郎が京都の別荘を売って工面する。しかも、返さなくていいという。「あんたがどこまで伸びるか、見たいんや」と。日田は、息子の家庭教師を鐡造に頼んだときに、厳しい躾と優しさを見て、人を育てる能力を見出していた。人財こそが企業の礎とは、P.F.ドラッカーのセオリーで有名である。
鐡造は本当にやりたかった石油の商いを、門司で家族らとともに始める。まずは機械油の商い。優秀なアメリカ製に負けないものを開発し、紡績会社に売り込むことから。次に船の燃料油。ここで評者の個人的体験を。小生は新入社員の時、ある化学物質のプロセス開発に携わった。出来た製品は、触媒が素晴らしく、文字通り世界一の「商品」であったと思う。「」付なのは、売れなかったからだ。どうしてか?「もう、他から仕入れていますので、今更いいです」。商売の多くは、信頼と実績とコネなのだ。この壁は厚い。で、拡大路線と使命感でひた走る鐡造は止まったら死ぬ。普通に商いをしていては食い込めない。まず、燃料として認知されていなかった軽油――実質邪魔者扱い――が使えるエンジンを開発する。そして、大手の漁船は下関にある。そこに売りたい。だが、販売所の縄張りがある。どうしたか? ポンポン船を入手し、関門海峡近くの荒海で、売りさばいたのだ。元売りは大目に見てくれた。この面白い若者を潰すわけにはいかない、と。鐡造の会社員は海賊と呼ばれた。多くは尋常小学校上がりであったであろう店員たちに、商売をはじめ、読み書きなどを徹底的に教え込んだ。彼らが支店長になるとき、上に一々お伺いを立てているようでは駄目だ、と。
九州での暴れっぷりが「眼に余る」ようになり、商売がしにくくなった鐡造は満州に目をつける。満州はスピードワゴンじゃない(ジョジョだよ?)、ロックフェラーが牛耳っている。満鉄に売り込みを図り、足繁く通う鐡造らに現場の人間は心を開く。そこでアメリカの石油は寒さに弱いことを知り、寒冷な気候でも使える機械油を調製し、試験をする。そこで勝利し、満鉄に油を売り込む。商売は売掛が大きく、業容拡大のテンポの速さもあり、経営は火の車。ここに関東大震災が起き、金融引き締めで資金繰りが苦しくなる。高利貸が現れ、日田に相談するが、破産したら一緒に乞食をしようやとさとされ、事業清算を覚悟する。そのために銀行を訪ねると、話を聞いた林支店長は頭取・長野善五郎を訪ねる。林は鐡造の人となりを伝えると頭取は鐡造と面会を希望、その結果、会話の殆どない「禅問答」により大口融資が決まる。その後の経営が苦しいときも、国岡の人を見た銀行員は国岡を支えることとなる。その後、元売りの方針変更を受け、満州に経営の主力を移したが、第二次世界大戦の流れは出来つつあり、石油を巡る戦争になること鐡造は予感する。国家は石油を統制品とし、それに鐡造は反発するが、日本の軍国主義は自由貿易、商業の自由を蹴散らした。貴族院議員の鐡造にもどうしようもなかった。また、アメリカからの石油がなくなれば、日本は南方侵略に活路を求めるだろうが、あの巨大なアメリカ相手に正面戦で勝ち目はない。それは分かっていたが、いざ戦争がはじまったら、何が何でも勝たねばならぬと考えていた。石油の確保のために上海に大油槽所を持つことを構想するが、横槍やら横取りやらが画策される。それを考えたのは、日本国家主導で作られたカルテル=石聯である。この時代、国家の名の下に私腹を肥やす輩が日本中に湧いたが、石聯も例外ではなかった。鐡造は石聯と対立し、国内で商売できなくなり、石油のある東南アジアなどにほぼすべてを移すことを余儀なくされる。なお、油槽所は不正を許さぬ商工省の燃料局の働きかけで守られた。守ったのは国岡商会の働きを見ていた軍人であった。ただ、その油槽所は海軍からの申し出で供用することになった。国のためを思ってのことだが、その国家とやらは国民を敵視するような法律(「要塞地帯法中改正法律案」)を出す有様。鐡造は議員として激怒し、ひっこめさせるが。挙国一致とやらの内実が表れていよう。そして1941年8月、アメリカからの原油輸入ストップ。第一次世界大戦で「石油の一滴は血の一滴」と言われるようになって久しい。日本の石油備蓄はせいぜい半年。ただ、戦争が始まったら政府に協力するのは当然。太平洋戦争の初期、日本軍は快進撃であった。「空の神兵」に謳われる落下傘部隊はバレンバン油田を確保。帝国石油の技師は油田の回復で驚異的な働きを見せ、日本は一息つけるはずだったが、戦線は泥沼・拡大し、敗戦に至ったことは言うまでもない。さて、この油田を巡っても、組織の肥大化と利権化の動きがみられ、それを嫌がった陸軍省燃料課は鐡造の会社に石油の現地分配を任せる。そのために、鐡造は二百人の社員を送り込むことにする。日本国家の理不尽に晒されながら、彼は愚直に日本のために会社を捧げる覚悟があった。また、石油確保のためにタンカー・日章丸を作ったが、石油を運ぶことは出来ず、他の物資を運んでいた中、撃沈された。アメリカ軍は、日本の物資の輸送船を狙い、撃沈した。軍用船に限らなかった。阿波丸事件など、明確な国際法違反であるが、関係者が処罰されたという話は聞いたことがない。戦争責任が追及されるのは、常に敗者のみである。
そして敗戦。日本での営業が実質出来なかった国岡商会は、中国、南アジアに展開していたが、それらを失った。こうなると、普通は会社をたたむか大量の首切りだ。だが、鐡造は家族である社員の首切りなど、考えられなかった。仕事を得るために、GHQが宣伝媒体として眼をつけたラジオの修理に乗り出す。また、デマに満ちた言いがかりに等しい密告により、鐡造は追放されそうになるが、そこはアメリカ、筋道を通した反論に耳を傾け、窮地を脱する。さて、石油の仕事を得たい鐡造ではあったが、石聯の流れを汲む人間たちがアメリカの石油業界を牛耳る者たちとつるんで仕事を得る中、独立不羈の精神・民族独立の意志を貫く鐡造には仕事が回ってこない。そんな中、水と泥を含んだ海軍の燃料タンクを浚って原油を入手する仕事を得る。これがどれだけ酷なことか。うまみがないから、他がやらない、というだけではない。水を含んだ原油は、固まる。さらに泥。流れない。だから、タンクの底にあるものをバケツリレーで汲むところから始めるしかない。しかも、タンクの底は酸欠場所である。それを国岡商会はやったのだ。その姿を見ていた者は、GHQにも、石油メジャーにもいた。彼らは将来、鐡造を助けることになる。悪名高いポーレー報告などは幸いにも反故となり、また冷戦の緊張もあって日本は、精製施設を持つことが許された。そうなると、原油の確保が問題となる。多くの日本の石油会社はメジャーの系列になったが、鐡造はそれを拒否した。まずタンクの確保。旧三井物産のタンクが競売に掛けられるのだが、出来レースでシャンシャンになるところを、筋論で競争入札にした。その獲得費用は、銀行からの融資に掛けた。東京銀行の大江常務はタンク浚いをしていた国岡商店の若者を見ていた。そして、必要な費用を融資した。そんなこんなで、石油メジャーとその配下の石油会社との戦いは必ずしもフェアではなかったが、筋論と使命感で乗り越えていく。鐡造はタンカーをまた作り、メジャーじゃないアメリカの石油会社から石油を購入する。良質のガソリン(アポロ)を安価で消費者に提供した。暴利を貪れなくなった石油メジャーは、西海岸の取引会社に圧力を掛ける。すると、鐡造はヒューストンで石油を得る。だが、もう、アメリカは厳しい。そこにイランの石油を買う話を、ブリヂストンの社長を通じて持ちかけられる。イランは石油の国有化を行なったが、それをイギリスは認めなかった。帝国主義国家は、色々と「ルール」を設定し、やらずぶったくりを正当化する。イギリスも例外ではない。イランの石油を買うことは、イギリスを敵に回しかねないことだ。アメリカは、イランの共産化を恐れて、イギリスの帝国主義的行動を支持しなかった。モサデクのイランの正当性を確信した鐡造は購入を決意し、秘密裏に社員を派遣し、商談をまとめ、秘密裏にタンカーをイラン・アバダンに送る。本のクライマックスゆえに詳述しない。知略と勇気にただただ感動。そして、イランから日本に石油を持ち帰る。南方に眠る英霊の加護があったであろうことは、言うまでもない。拿捕されずに帰ったのだ。その後、事業は発展し、徳山には後にグリーンベルト一杯の工場のモデルとなるプラントを作る。千葉にはさらに大規模な、、、うんぬん。いいや。
鐡造が人間として凄いのは、終戦時に59歳だったが、そこからでも情熱的だったこと。引退した80歳になってから、マルクス研究に打ち込む。その世界の第一人者を呼んでの講義。マルクス・マニアとしてはちょっと興味がある。
さて、敗戦直後、社員に「日本人に帰れ」と檄を飛ばした鐡造は、実に日本人的でないと小生は思う。日本人と言えば、横並び、コネ、利権構築とよそ者排除が大好きな奴らだ。それが全て悪いとは言えない。狭い国土で乏しいものを分かち合って生きてきた日本人には、それが必要だったという面も確かにある。だが、鐡造の場合は、明治を生きた武士たちの倫理が念頭にあったのではないか。それこそが、「日本人」なんだ、と。そして、日本が戦争で徹底的に痛めつけられたのを、思い上がったことへの天譴として捉えている。安倍首相は、「美しい日本」と言い、戦前を変に美化している。ならば、愛読したこの本を熟読し、鐡造が憎んだ先の大戦を否定するべきである。そこに現れた、日本人の醜さをも否定するべきである。高市早苗の言うことを聞いたら、「大馬鹿者」と鐡造(出光佐三)は激怒するだろうなあ。とまあ、これは蛇足だな。
以上のようにメモしたが、他にも、仙ガイ、家族のことを端折った。特に、身を引いたユキさんのことは、本当に悲劇だ。分かれても生涯愛し続けるって、何と書けばいいのか。

6