『伊良部秀輝 ――野球を愛しすぎた男の真実』(団野村著、PHP新書)
伊良部さんが自殺したと言うとき、最初に思ったことは「ほんまかいな」、次に「何でやねん」、そして、、、「ああ、野球が出来ないことで絶望したんだな」と。本書によると、小生の思ったことは半分正しく、半分間違いだ。間違いのほうを書くと、自殺は状況証拠からして、酒による衝動だったと考えられるから。本当の絶望は、継続的なものだ。もしそうだとすれば、伊良部ほど気を遣う人間からして、身辺整理をしていただろう、と。
小生が伊良部投手を生で見たのは、南海ホークスのあった頃、三沢時代の西武球場、そして、高知ファイティングドッグスの時。新人オープン戦の、西京極球場新装こけら落しの試合でも見たなあ。速かった。生で見た中では、山口高志さんの次だな。
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高知時代に、肘を痛めて復帰を諦めた話は聞いていた。それにしてもなあ。この本からは筆者の口惜しさと無念さ、後悔が伝わってくる。業界で知らぬものはいないやり手のタフ・ネゴシエーター、団野村。彼自身、NPBに4年在籍して、日本球界の理不尽に叩き出された。昔のハーフは、今以上に日本に居場所がなかった。米兵と沖縄の母のハーフである伊良部に対する共感は、小生のような日本人には想像できないものであったのだろう。伊良部さんもまた、日本に居場所がないように感じ、メジャーに飛んだ。(以下、敬称略)
さて、沖縄で米兵の子として生まれた秀輝は、母が米兵と別れた後、再婚した父親の姓を名乗る。少年時代は、いじめられ、体が大きくなってからさらにいじめられたらしい。だが、あの体だ。喧嘩を売られれば相手は瞬殺。物理的にはともかく、自らの精神を守るために、ふてぶてしさを身に着けたようだ。秀輝は、一度心を開いた相手には、徹底的に気を遣い、ありていに言えば「愛を示す」人物であったことは、今や方々で語られている。逆に言えば、その関係にない人には心を閉ざし、悪態をついたりするんだろう。これじゃあメディアとの関係はこじれるだろうなあ。小生も、色々なことで、色々なメディアに色々訊かれたことがあるが、中には「は?」というものもある。
当時、野球の出来る悪童を集めていた香川の尽誠学園で秀輝は、当時高校生最速のボール(確か147km/h)を投げ、全国区となる。大騒ぎされたのも懐かしい。そしてロッテに入り、最初は「打たれて打たれて勉強せい!」ということなんだが、しばらく芽が出なかった。二軍にいるとき、牛島が調整のために降りてきたが、その出会いで、投球術、フォーム(秀輝流に言うならば「ロケーション」「メカニック」)の考え方を学ぶ。他にも小宮山などの薫陶を受け、プロの投手として頭角を現し、あっと言う間に日本を代表する投手となる。当時日本最速158km/hを記録した伊良部だが、そのボールを清原に当てられたりして、「いかにボールを打者から隠すか」を考える。そして、打者を打ち取るためには、打者が何を考え、何を狙っているのか、要は対話が大事であると考える。伊良部は剛速球投手でありながら、その本質は頭脳派だったのだ。投球オタク。話を分かってくれそうな人には、惜しみなく自分の考えやノウハウを伝授する。彼は、そのことを徹底的に考え続ける努力の天才だった。
さて。当時のロッテ球団は色々ごたついていた。バレンタイン監督の謎の解任。言うこととやることが違うことで有名な広岡GMの就任。中四日はいいけど、体質的に120球以上投げさせないことを口約束したのに、江尻監督は守らなかった。160球投げさせた日も。これじゃあ、体が持たない人もいよう。特に、速球投手なら。調子を落としたら「やる気がない」などと、訳の分からないことを言うGM。理不尽がまかり通る日本に居場所がないと感じ、子供の頃からの憧れであるヤンキースを目指す。伊良部は子供の頃から、お手本をメジャーに求めていた。というのは、あの体格では日本人選手はお手本にならなかったからである。
ロッテ球団はトレードでパドレスに入れようとするが、伊良部はあくまでヤンキースを目指す。結構こじれたことを覚えているが、ロッテ球団は一つだけやっちゃいけないことをやってしまったな。オーナーが部下に「私を信じろ(ヤンキースに行かせるから)」と言わせ、そして一筆入れさせた上で、パドレスとのトレードを決定事項として通告したのだ。このオーナー、最低だな。で、結局、ロッテは大損をこくわけだ。同情の余地なし。この騒動があって、ポスティングシステムが確立された。筆者は伊良部を野茂以上の開拓者と呼ぶのには理由がある。なお、日本の選手会は球団側につき、MLBの選手会は伊良部側についた。日米の労使関係を象徴する出来事だな。伊良部はヤンキース球団と選手に温かく迎えられ、溶け込んだ。オーナーとの関係も良好だったようだ。「ひきがえる」騒動ではオーナーが謝罪し、「かえる」の置物が伊良部らからプレゼントされ、それを机に置いていたそうな。いい話だ。だが、名将・トーリとは何か上手くいかなかったようで、エクスポズに出される。そして、故障との闘いが始まり、ウインターリーグで成績を残し、レンジャーズへ。ここで抑えがいなくなり、抑えへ転向。新たな境地を拓こうとしたところで、肺血栓に。日本へ復帰へ。阪神で優勝に貢献するが、膝を痛めて一度目の引退。しばらくして取材でキャッチボールをしたら、痛みが引いてやれるのでは?と考え、アメリカ、日本の独立リーグで復帰を目指したが、今度は肘を痛めて引退。小生は、高知でコーチとして残るのでは、と、思ったのだが、そうなっていたら伊良部の人生は違ったものになっていただろう。惜しくて、惜しくて。身の引き方が潔すぎる。素質はあるけど、馬鹿丸出しのプレーを繰り返す、独立リーガーにもっともっと教えて欲しかった。
引退後、高校の同級生にうどん屋経営を持ちかけられ、熱心に取り組み、店は繁盛していた。だが、土地の返還期限が来て撤退。うどんのこと、経営、はたまた経営に係わるので為替、世界経済、ビジネスのことを熱心に研究したが、「殺るか、殺られるか」という世界ではないので、伊良部には物足りない刺激だったんだろう。普通の人には、避けたい刺激なんだが。そんな伊良部が悠々自適に耐えられるわけがない。とはいえ、コーチとして若い人に色々伝えたい情熱はあったようだ。それは、例の事件で閉ざされる。黒いアメックス。スキミングを防ぐために「強制避難措置」として暴力を正当に行使しただけなのに、メディアは伊良部が悪いように書き立てた。飲酒運転も、「金使えよ」という話に普通は思うが、どうものっぴきならない状況だったようだ。だが、背景を詳しく論じた紙メディアは記憶にある限りなかった。状況も伊良部を追い詰めた。奥様との関係は良かったが、子供の教育のためか奥さまは日本に、伊良部は気に入ったアメリカに。孤独を紛らわすために酒ってのは、小生も男だから分かる。それが、、、自殺の、、発作に繋がってしまった。
・伊良部理論では、ピッチングで一番大事なのは、膝の向き。右投手なら、常に三塁側に。クイックでもそうだ。(なお、蛇足だが、クイックでひねりを蓄えるのは腰から太ももに掛けて、だ。そうでないと崩れる。これは佐藤義則さんの理論。)
・メディアも勉強にお付き合いしていたらなあ。いくらでも教えてくれたと思うよ。
・技術論議は、深夜から早朝に及ぶ。「いつ、どうやって、切り上げるのですか?」とイチローが音を上げるほど。
2ちゃんねるに「あの世オールスター」ってのがある。余りにも若くして参戦した伊良部は、多分、東京オリオンズの監督、稲尾さんから「早く来過ぎじゃないの?」とたしなめられ、相手の強豪、南海ホークスの監督、鶴岡親分から「バカタレ!」と、どなられていることだろう。小生のオカルト体験(父親が死んだときに体験)からすれば、あちらはこちらと大差ないけど、「体」は頑丈のようだ。思いっきり野球を楽しんでいることを希望する。

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