『日本人の「戦争」 古典と死生の間で』(河原 宏著、講談社学術文庫)
本を読むと、打ちのめされることがある。この本の場合、その頻度が余りにも多かった。右や左の俗論を瞬間的に退け、納得せざるを得ない論を提示する。その論が、非常に新鮮でありかつ真っ当であれば、「俺は今までこの問題について何を考えてきたのだ?」と打ちのめされるのである。
この本と出合ったのは、去年の十月だったと思う。松山の紀伊国屋で、この本は光っていた。「読め」と。まあ、著者の名前が某選手と極めて近いせいであったような気もするが。
著者は一九二八年生まれで、大東亜戦争を少年兵予備として終戦を迎えた。戦中派の常として、戦争で死ぬのは前提として、死ぬ意味を求めていた。戦後、価値観が激変する中、新たに流行となる価値−−マルクス主義、民主主義などなど−−とは距離を置き、おそらくは死んでいった者たち−−それは可能性としての自分でもあったろう−−の意味を問い続け、去年亡くなった。
この本は、一九九五年三月にまず築地書館から出版されている。あの阪神大震災の直後である。本書のあとがきにそのことについて触れているが、オウムについては触れていない。(あのテロは三月二〇日) いきなりだが、初版あとがきから抜粋しよう。
本書は「戦争」を、人間の実感、心の軌跡としても捉えようとしたものだからである。
今、世界と日本は巨大な変動に直面している。戦後日本についていえば、それは永らくわれわれを拘束してきた次の三つの“信仰”が崩れ始めたからである。
第一には、ソビエト体制が崩壊したこと(中略)第二に、あのバブル経済最盛期に横行した「金銭」信仰が崩れた(中略)第三は、「技術」信仰への疑念である。(中略)あの阪神大震災での横倒しになった高速道路であり、橋桁を落下させた新幹線の橋脚だった。(中略)結局、人間の心や自然の摂理を上回る意義をもつものでないことを教えている。
直後、ニューエイジ思想のなれの果てと言えるオウム事件が起き、「心」にまつわる言説にも疑念が湧いたわけだ。
何かに期待し、前提とし、それが崩れる。歴史の実相とはそういうものではないか。ミネルヴァの梟が飛び立ったあと、全ては明らかになる、といわれる。だが、それは、振り返る時点での価値によって、だ。同時代的に追体験することはすごく困難である。
ここで一人の男のことを紹介したい。他ならぬ、この評者の父だ。子供の頃、父の言うことが結構嫌だった。だって、あの戦争を肯定的に語るし。学校で言われていることと違うやん、と。父は一九三五年生まれ。軍国主義教育を真に受けて育った世代である。ちなみに学年でたった二つ上の母は、そのペテン性に子供の頃に気づいていた。では、父は気づいていなかったかというと、細かく書くわけにはいかないが、決してそんなわけではなかった。だが、父の父(小生から見れば祖父)は、沖縄戦で戦死していた。小生の父は祖父から大変可愛がられていたらしい。その祖父を奪った戦争を憎んでいるのは確かだったが、しかし、同時に、戦後の「民主主義野郎」が戦争を全否定する言説を垂れ流すことは、受け入れ難かったと思う。今になって、父親の考えと気持ち
は大変よく分かる。ちなみに戦後民主主義のチャンピオン、丸山真男は「さすが!」と唸らせることを言う。
「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」
(p258)
丸山は一九一四年生まれ、大人になってから敗戦を迎えている。この世代は、大東亜戦争に至る流れを知っているので、その虚妄性も知っている。彼は、逢えて、大日本帝国を『実在』と言い、戦後民主主義を『虚妄』と言っている。すなわち、戦後民主主義というアメリカ由来のキッチュを、虚妄と知りながら賭けているのだ。この世代は、悪く言えば「ずるい」。軍国日本のペテン性も、戦後日本のペテン性も見抜いているのだ。評者の父親は軍国日本を真に受け、敗戦=祖父の死=戦後民主主義の到来を死ぬまで受け容れなかった。すなわち、父は戦後の時間について、「止まっていた」のだ。レイ・チャールズの歌の一節に "time has still, since we apart"というのがある。別離は意識の時間を止めることがある。父にとって戦後は「生きるべき時間」ではなく、「止まった時間」であった。死ぬ意味を考えていた河原少年もまた、死を与えられなかったことで時間が止まったように思う。彼は言う。
「生きててよかったっていう気持ちはゼロ。皆無ね。」
(p261)
前置きが長くなった。ここまでに書いていない課題を含め、本題に入る。かなり長い「メモ」になる。

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