『永遠の0(ゼロ)』(百田尚樹著、講談社文庫)
「たとえ腕が無くなっても、足が無くなっても、戻ってくる」(p563)。この言葉と全く同じ言葉を、出征前に言った男がいる。小生の祖父である。祖母が亡くなってから、親戚からその話を聞いた。この文字を読んだとき、戦後苦労をして5人を育て上げた祖母のことを思い、涙が止まらなくなった。これが「実感」というものであろう。
この小説は、A新聞社――恥知らずにも、終戦直後に自社の検証抜きで「国民と共に立たん」と言ったところ――をモデルにした新聞社に原稿を入れるジャーナリストの姉と、司法試験を何度も失敗して心が折れた弟が、血の繋がった本当の祖父のことを調べるという形で進む。調べるとは、本当の祖父と係わりのあった人に取材するということだ。
そして、取材された人の発言という形で、著者は日本軍の無能っぷり、残虐さ、理不尽を暴きつつ、その下で必死で闘う軍人たちを描く。あちこちで言われていることだが、士官以上と下士官以下の待遇差別の酷さ、どんなに失敗しても責任を取るということがない海軍兵学校上がりの人間に対する処遇。兵学のイロハを理解していないかのような作戦立案。陸軍だが、辻政信が戦後糾弾されなかったのはどういうわけだ?? 姉は「エリートだから兵学は理解していたはずだが、実際に死の危険のあるところでビビッてしまって逃げたんでしょ」という意味のことを言う。xx謎の反転など。そして、相手をなめたことをして、ちょっとやられると、徐々に増員という、「負けフラグ」を立てる陸海軍。兵站を考えていない作戦。(ガダルカナルの話は圧倒的。)
小生は常々、暴力とは技術の問題だと言う。戦争なんか、まさに技術の問題だ。よくアメリカに物量で負けたという。ならば物量以上に知恵で勝らなければならないが、局地的に成功することはあっても、それらを全て無にしてしまう欠陥が日本軍にはあったと思う。それの極致が人命無視という体質だ。
飛行機乗りは、徹底的に高度な技術がなければならない。一人前に育てるには何年も掛かる。実戦こそが最高の教材だ。ならば、撃墜という事態を経験しても、その敗北から学ぶことがさらに最高の教材であろうに、日本軍は、一旦撃たれたら終わりという飛行機を作った。発想としては、世界トップの性能を与えたんだから撃たれる前に撃て、ということだったんだろう。だが、一対一ならともかく、多数が乱れる空戦でその発想は通用しない。米兵は墜落しても、パイロットを回収する仕組みがあった。日本はそのまま死ぬ。これじゃあ、いくら育てようとしても育つはずがない。そして、熟練パイロットがなくなっていった果てに、人命無視の「十死零生」の特攻をするようになる。
そんなバカげた軍隊の中で、主人公の宮部は生き残ることを考える。軍事のことを真面目に考えたら、宮部は正しい。しかし、こんなバカげた軍隊の中でそれを可能にするには、卓越した技能と実績が必要である。宮部は普段から訓練し、出撃しても周囲への警戒を怠らず、部下たちを無駄死にしないようにコントロールし、生き延びた。だが、「志願」という名前の「強制」により、特攻隊として出撃する。遺される家族を、ある若者に託して。この辺のドラマはとても泣かせる。
小生の母は戦争中に鹿児島の隼人にいた。隼人と言えば、近くに国分、その南に鹿屋だ。その辺の大人が、噂話で「特攻隊ってのは目を付けた若い者を部屋に入れ、“志願します”と言うまで出さないって話だよ」と言っていたと、子供の頃の小生に言った。その話とこの本の記述は違うが、志願ってのは、ただの美談であることをしっかりこの本は描いている。実際には強制だった、と。そして、彼らが死ぬ意味を求めるところは、『日本人の「戦争」』とピッタリ符合する。
http://red.ap.teacup.com/tamo2/1855.html
軍歌の同期の桜で「大和魂は敵にゃない」と言うが、アメリカ人にはヤンキー魂がある。戦争初期、アメリカは海戦で負ける要素があった。人命第一の米軍だが、突破口を開くために死ぬ確率がとても高い作戦を立て、それに勇敢に参加する兵士たちがいた。合理性というか、プラグマティズムの国は、キチンとした理由があれば、日本人に劣らず「命知らず」の任務を遂行する。
真珠湾攻撃で日本は「国際法を無視した」と言われる。結果的にそうなったのは、別にアメリカの陰謀ではなくて、外交官が深酒をしていたせいである。そして、その責任を誰も取っていない。
今、日本は経済の没落、外交での失点を重ねて危機に近づいている。そして、幼児的逆切れをしているのではないか?と思うことが多い。靖国に祀られる二〇〇万柱を超える御霊が、戦前軍部的な幼児性を、現在の政治指導者が行っているのを見て、どう思っているだろう。A級戦犯は合祀されて、シバキだな、うん。

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