『金閣寺』(三島由起夫著、新潮文庫)
三島の文体は整序的(アポロン的)で煌めいている。その彼が、どうして混沌のうちに(ディオニュソス的に)割腹自殺したのか。それを知りたくて『文化防衛論』を求めて本屋に行って、目に飛び込んだのがこれ。
金閣寺放火を題材にしたこの本は、三島の美学に引き付けて事件を解釈されたものであり、事実と異なるところが多い。例えば、事後の犯人はカルチモンや短刀を投げ捨てて「生きよう」とつぶやく。現実には、カルチモンを飲み、割腹をしようとして気絶したところを保護されている。
ただ、アプレゲールな事件として知られるこの事件に至る、犯人の心象風景には結構迫っているのではないか、と感じた。
燃焼にして金閣という美に捉われた犯人は、恐らくそこに真・善・美――この表現はギリシャ美学にコンプレックスを持っていた三島に敬意を表した――の一切を幻想として持っていた。だが、現実にはお金に支配され、住職よりも事務方が力を持っているお寺に幻滅し、「金閣寺の実際がこんなことになるなら、焼くしかないじゃない!」とばかり放火した。全てに絶望した現実の犯人は、服毒&割腹自殺を図るが一命を取り留めさせられ、だが、結局のところは衰弱死する。
さて、この小説では、青春の昏い情熱に物語を転化する。真・善・美を「永遠」とするならば、金閣は半永久的にそれを有し、他を圧する。だが、人生は一回限りであると同時に、人間は代替可能で相対的なもの。住職と雖も、坊主は一皮剥けば生臭い俗物である。(よく知られた話だが、現実の住職はとても立派で、三島による描かれ方は文学としてのものであり、一切の釈明を行なわなかった。) 幼少のころから吃音に強いコンプレックスを持ち、暗い情念に生きた主人公はお寺でとても明るい友人を得る。だが、彼は「事故死(後に自殺と判明)」する。お寺の配慮で行かせてもらった大谷大学では足に障害のある友人が出来るが、この強かな生き物とも結局は分かり合えない。自分が永遠なるものを得、全てを乗り越えるには、金閣を焼くしかないという妄念の虜になり、焼いてしまった後は、乗り越え完了とばかりに「生きよう」と思うのだ。
文体は三島らしく風景描写は煌めいているが、心理描写はちょっと狂気が入っている。まあ、文学の王道は犯罪=狂気を描くことだもんなあ。で。この小説は事件後6年経過して書かれたもの。31歳の時の作品であり、アプレゲールなどが過去のものになりつつあるときに、青春の狂気と決別するために書いたのではないかと思ったが、はたして。最後はああいう死に方だもんなあ。
おまけ。三島が生きていたら、今の「右傾化」の薄っぺらさを激烈に撃っただろう。

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