有田芳生さんとは、キンピーブログのオフ会で三度ご一緒している。お茶目でウィットに富んだ愉快な人だ。さて、有田さんは統一教会やオウム問題をはじめ、人権に関わる活動を精力的にやっておられ、今は反レイシズム運動に係わっておられる。
差別問題や暴力問題は受けた教育のこともあって「ライフワークにしたろ」と思っているし、またそういう付き合いもあり、有田さんのツイッターをフォローしている。で、有田さんがニューズウィークの記事にお怒りで、ツイッターを読む限りはどうも有田さんのお怒りはズレているんじゃないかと思った。
で、昨日、ニューズウィーク日本語版 2014.6.24発行、p32〜、深田政彦記者の記事を読んだ。小生の予感は当たっていた。
まず、記者は最初のほうでこのように指摘する。
日本人一人一人の隠れた差別意識が、デモや横断幕という社会運動の形で表に出るようになったのが在特会デモの特徴だ。
それは社会に拡散していると警鐘を発する。それに対してカウンターが登場し、在特会を圧倒する人間が集まっている事実を指摘する。だが、その方法に異議を唱える。暴力で相手を威嚇する手法はいかがなものか、と。
思い出すのは、部落解放同盟が採用した「糾弾闘争」。身近で誤爆糾弾があり、それの心労で幼馴染の母親が亡くなっている。彼らの手法を嫌い、被差別当該の多数は部落解放同盟を嫌っていた。日常生活を送る被差別者は、外部から来てワァワァやって、混乱を持ち込み、外部(他者)との間に溝を付ける人間を好くことはまずない。経験から断言する。
正直、しばき隊登場時には「素晴らしい」と思った。在特会のような輩には、怒りを表出し、大衆的実力行動でもって対峙するしかないこともあろう。だが、ネットでの各種評判、特にお世話になっている方々に対する攻撃を見ていると疑問を持たざるを得なかった。というのは、ガキの頃のトラウマ絡みが刺激されるからだ。「ああ、解同と同じ自滅の道を反レイシズム運動は進みだしたな」と。
最大の暴力は、大衆占拠である。それに成功したしばき隊は確かにエライ。だが、巴マミのようにこう言いたくなる。
「あなたは差別をなくしたいの、それとも、反差別を掲げて暴れたいだけなの?」
反ヘイト団体の手法を書こう。部落解放同盟の糾弾を思い出して仕方がない。
反ヘイト団体は「反差別」という絶対的な大義を盾に、相手の言動に少しでも差別的な響きがあれば、容赦なく身元や過去を暴き、徹底的な批判を加え、社会的生命を抹消しようとする。時に暴力もいとわない。寛容さや理性を「日和見」と嘲り、あえて憎悪の連鎖を引き起こす。
こういうのを「愚かな不寛容」とアメリカでは言い、ポリティカルコレクトネスへの反省が生まれているとのこと。運動の過激さへの批判、あるいは論理的に「それは別の局面から見た差別じゃないの?」という、生まれるべくして生まれた批判をする周辺者への罵倒、威嚇。そういうものに疑問を持つ記者は正しい。同和教育世代にとってはデジャブーだ。運動がコアなメンバーだけで自閉し、破滅していくであろうことは容易に想像がつく。
中心人物の一人、野間易道氏はイラク反戦、チベット人解放運動、反原発と政治運動に参加してきた。特に反原発では国会二十万包囲の立役者の一人で、当時の野田首相との面会を実現させた能力は評価されるべきである。反原発組織を「しばき隊」にした。手法を「怒りのマーケティング」「炎上マーケティング」と記者は名付ける。野間は言う。
「『私たちは決して許しません』と呼びかけるのではなく、『ふざけるな、ボケ』と叫んだほうが人は集まる」
怒りの表出はいい。だが、それを原則にしてしまうのはいかがなものか。どうも「参加していない大衆」が見えていない。運動家は得てして、周囲が見えなくなるもの。必死であればあるほど。参加している大衆だけの問題ならば何も言わない。だが、その外には、共感を示す大衆がいて、彼らの問題でもあるのだ。『ふざけるな、ボケ』と大声で騒ぎ立てたい大衆なんぞ、どれくらいいるのだろう。傷害事件、逮捕者が出たら、運動そのものに違和感を持つのが当たり前だろう。そういうことを背景にした「成果」をもとに、行政に食い込もうとしているらしい。これもデジャブーだ。ただ、解同は公共施設利用から対立団体を締め出すことはしなかったね。
広く知られているように、ヘイトスピーチは欧州では法律で処罰の対象となっている。だが、この法を盾に、「俺が差別と思ったから差別やあ!」という方々により、恫喝の道具に成り果てているのも事実だ。小生は在特会のようなあからさまな差別団体の活動に対する規制は必要だとは思う。だが、同時に、とてもデリケートな問題になり得るなので、反論権は確保されるべきだと思う。何よりも、辛淑玉あたりが――出てきた――が求めるように、ヘイトスピーチ規制の法制化により、歴史的事実としても今や疑問を持たざるを得ない「従軍慰安婦問題への疑問」さえも「侮辱と憎悪」として封殺されるのは、科学的・学問的自由への脅威となるであろう。記者が言うように「理性や知性はない」ことになりかねない。ハナ=アレントが、アイヒマンが「ただの人」であることを証明してしまったがために、「ナチスは狂人」という物語を維持したかった連中に学問的に抹殺されかかったようなことに国家がお墨付きを与えかねないのだ。理性や知性は日本において死ぬことだろう。
反ヘイト法が早くから制定された欧州では、イスラム団体がムスリム社会への批評さえも「ヘイトスピーチ」として訴えることがあるという。訴訟されただけで、訴えられた者はコストを負担させられる。こうなると、言論封じに利用される。今、安倍ちゃんの周辺がやっていることだ。同じ穴の貉かよ、反安倍運動にシフトしている反レイシズム団体さんよ。オーストラリアに旅行した時に、現地の人に「生活保護費漬けの少数民族問題」を語る人がいたが、それについて触れたコラムニストが「差別された」と訴えられたらしい。反ヘイト法の制定や運用には注意が必要だ。ちなみに在日三世の浅川晃広氏は「ばかげたヘイトスピーチは公開の場で批判すれば済むことだ」という。記者は反ヘイト法を日本で制定しようとしている人たちが、先行者が抱えている問題に見向きもしていないのではないか、と、懸念を表明している。最後に記者は言う。
日本は独り善がりの「正義」と腕っぷしばかりが支配する息苦しい国になるのか。もどかしさを引き受けてでも、議論を重ねる国にとどまるのか。ヘイトスピーチをめぐる議論の行方は、日本の今後を占う1つの分水嶺なのかも知れない。
小生も同じ思いを持つ。
で、有田さん。反ヘイト団体を「ぎりぎりまでやってくれる」と称賛し、「既存の運動や政党は合法主義のあまり、闘わなくなった。きれい事と口先だけの人権派ばかりだ」という。反ヘイト団体をスペイン内戦の人民戦線外国人義勇軍にすらなぞらえているらしい。
気持ちは分かる。だけど、視野狭窄に陥っていません?? 日本共産党流に言うならば、圧倒的多数の人民を獲得するという、多数者革命は原則的に正しく、いくら「反ヘイトスピーチという名のヘイトスピーチ」を行う「過激」な人を集めても、それは出来ませんよ。
繰り返すが、解同の過激な糾弾闘争は、被差別当該の運動離れに帰着したんですよ。三百万のきょうだいのうち、三万人を組織できているか、できていないか、というレベルに。

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