『されど われらが日々――』(柴田翔著、文春文庫)
この小説は日本共産党、ひいては共産主義党派批判として読まれることが多い。それは王道。まずはそれに該当する箇所を引用しておこうかな。話は六全協の後のことである。当時の党シンパ・節子の手紙から。かなり長いが引用する。
私は六全協の内容を告げたアカハタを手に、五、六人の人たちと歴研の部屋で何時間も押し黙って過ごしたあの暑い明るい夏の午後を忘れることができません。それが、単に火焔びん闘争の誤りだとか、あるいは昨日まで党の破壊者だと言われていた人がそれを言った人と再び同じ壇上に並んで立ったというようなことだったら、事はずっと簡単でした。問題は、人間の集団である以上、当然こうした誤りや憎悪や権力欲や、その他人間に付随するあらゆるものが入り込む可能性がある党を、私たちが人民の党は誤りがない、人民の知恵の集まった党の判断は個々人の判断を越えて常に正しいと定式命題化して、信じた、あるいは信じようとした、その私たちの態度にあったのです。
(中略)
党の無謬性が私たちの前で崩れて行った時、私たちの中で同時に崩れて行ったものは、党への信頼であるよりも前に、理性をあえて抑えても党の無謬性を信じようとした私たちの自我だったのです。
(P186〜187)
登場人物の一人である曾根の言葉。
「君は知らないのだよ、党員の連中にかこまれて、自分たちの意見と現実とのギャップを指摘された奴等が、小市民意識だとか非階級的意見だとか、レッテルを投げつけてののしるのに堪えることが、どんなことか。殆どが党員ばかりの委員会に出て、散々長い討論をした挙句、採決となった時、予め細胞会議で意見を統制して出てきている奴等が、今迄の討論とは無関係に、どういう無感動な冷たい眼の壁をつくって、一斉に挙手するか。」
(p107〜108)
いずれも党による全人格の包摂、それに伴う人格破壊(ロボット化)のことであり、マルクス主義党派は人間を食いつぶすという批判に沿ったものである。しかし、この小説が示す残酷さはそれに留まらない。現実そのものの残酷さを読者に突きつける。意欲に燃え、前向きに生きようとすればするほどに。その意味で、共産党を信じようとして裏切られた、あるいは共産党(共産主義)も虚無であった程度のことは、話の象徴と位置づけられよう。
出版されたのは一九六四年で、六全協はちょっと過去の話。マルクス主義の権威はかなり失墜していたはず。ならば、これは共産主義党派批判の話としてのみ読まれたはずがない。恐らくは当時流行していたと思われる実存主義的な小説として読まれたのではないか。そして、「(資本主義に代わる)大きな物語」なんぞ嘘っぱちであるという諦念を植え付けられた新人類世代としては、そういう小説として読んだ。
若いときは何がしかの野望や夢を抱く。才能があればあるほど、それは大きい。この世代で優秀な人は革命にそれを重ねた。それは無上のものであったろう。だが、現実の党の「弱さ」により――敢えてそういいたい――、それが失われた時、人生への期待はなくなる。誠実ならばニヒリズムに、人間的な弱さがあればシニシズムに陥るであろう。佐野や優子は全者に陥り自殺した。節子や主人公の大橋は何とか踏みとどまった。
それにしても当時の若者は何という残酷を突き付けられたものだろう。貧しさが残る時代にあって、カントの言う「自由であれ」とは、どういう意味があったのだろう。当時はマルクス主義の影響力が強かったと言う。ヘーゲル=マルクスにあっては、自由とは法則を利用することである。その法則を理解しているのが党なのだ。すると、マルクス主義に染まった若者の自由とは党に帰依することに他ならない。そして、その欺瞞性が暴露されたのもこの時代だったのだ。その歴史の転回点に居合わされた若者は残酷の中に投げ込まれたのだ。
若干の皮肉を。没落資本家の末裔として、父が満足に小学校にさえ行けず、それにゆえに将来は「町工場の工員」となにがしかの諦めをもって育った人間としては、この東大生たちは甘えていると思う。思想以前に主体と自我を肥大できることがとても羨ましい。「死ぬ前に何を思うだろうか」なんて、自我肥大でなくて何なんだ? 自己中毒と言っていいのではないか。だが、感受性の鋭い彼らの罪だろうか? 恵まれていることに自覚的な人間であれば、そして誠実であればそうなるものではないのか。共産主義党派は若者のそういうところに付け込む。くれぐれもご用心。
生きる意味はそれ自体で宙に浮いて存在するのではなく、自分と他者との関係から浮かび上がってくるものであるとしても、それを引き受けるかどうかという選択は残る。自分には出来ないと逃げることを、「優秀たれ」と思う人は無理に引き受けようとして自滅する。佐野のように。佐野が警官隊から逃げたことを小生は卑怯とも裏切りとも思わない。彼にはフィジカルな強さがなかっただけだ。だが、それを気に病む人はいるのだ。それで思い出したのがかつての上司。60年安保組。だが、デモ参加は一度だけ。「痛いん嫌やし、無駄やん」。本当に世の中を変えられるのは、小生は元上司のほうだと思う。だから、「若者のそういうところに付け込む」共産主義党派なんかでは、世の中を変えることは出来ないのだ。
あ。大石静氏のこの解説文、いいね。
手紙なんか書くことを忘れた今の若者に、長い手紙を読ませたい。生きていることは、悲しいことなのだと知ってからが、人生なんだよと知ってもらいたい。
(p268)

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