子供の頃の楽しかったこと第三弾。ヤクザ用語(元は仏教用語)で「西向かす」は、「殺す」ということ。「西方浄土」から。そんな言葉は子供は知らない。「西に行く」とは楽しいことであった。確かにそこには「西方浄土」?があった。 親父に連れられて甲子園球場に行ったり、親戚のいる神戸の板宿に行ったり、100円玉を握りしめて交通科学館(当時)に行ったり。最後の話からにしようかな。
交通科学館によく行ったのは小学3年から5年だったと思う。行き/帰りの運賃は20円、入場料は50円。10円余る。今年の4月に閉館したと思うが、ネット情報を懐かしく見ていたら基本的に最後まで当時と変わらなかったようだ。HOの大パノラマ(レイアウト)がやっぱりお目当てだった。朝昼晩を表現した15分の運転。当時の特急は583系やブルートレインがスター。在来線は101/103系の時代。ローカル線にキハ58系。土日に行けば良い席で見ることが出来なかった。また、昔の一等車や80系の展示、モーターからどのようにして車輪に力を伝えているかの機構の説明が面白かった。マスコン弄ったら、カムが動いて徐々に「段数」が変わるもんな。中学生や高校生になって見ていたらもっときちんと分かっただろうに。あと、昔の時刻表を見たかったが、一般開放はされていなかった。仕方なく一般開放されているところで「鉄道ジャーナル」なんかを見ていた。
板宿へは阪急電車で行った。小学生の頃は淀川を超えたら西宮まで大抵田園地帯。阪神はカーブが多く、小生が幼稚園の頃吐いたらしいのでそれから阪急。西宮北口西の車両基地まで阪急特急は飛ぶように走る。西宮北口に停止して、名物だったダブルクロスを「ダダダダダダダ」と通過したら、今度は高級住宅街の山手の麓を疾走。物心ついたときには三宮の先は地下鉄。で、西代で地上に出て板宿へ。地上に出るときのまぶしさ。板宿駅は急なカーブにホームがあり、とても大きな隙間があって危険だった。小学生でも注意しないと下に落ちる。ってか、何度か下に落ちる夢を見た。板宿の親戚の大叔父は戦争帰りで、小学校で言われた戦争の話をしたら「それはちょっと違うなあ」と、戦争体験の話をしてたな。結局、戦争でモノを言うのは運である。株屋に銭を掴ませて良い銘柄を教えてもらい、売り抜けて財産をそこそこ作るような人で、かなりのリアリストだった。阪神淡路大震災で家がつぶれても、80歳を超えていたはずなのに即金で家を立て直し、、、すぐに亡くなった。まあ、あれは一種の怪物だろう。中国戦線で「ここ寝苦しいから」と寝る場所を変えたら、元いた場所に爆弾が落ちるような人だった。
親父に甲子園に最初に連れていかれたのは、江夏−田淵がバッテリーだった中日戦だったと思う。野球に余り興味はなかったので、きちんと見ていなかったのが惜しまれる。多分阪神が2−0で勝った。一度だけ巨人戦に連れていかれたと思うが、これは覚えていない。よく覚えているのが阪神が初めて最下位になった1978年。広島戦でいきなり0−7とリードされた。この試合、8−7と逆転するのだが、植松という外野手が大活躍した。逆転三塁打を放ったと思う。とてもエキサイティングな試合だった。甲子園球場はイカ焼きの臭いを思い出す。親父が若い頃は銀傘の一番天辺の席から海が見えたらしい。また、正月興行や東西対抗とか、にわかには信じがたい話をしていたが、後にネット時代になって本当のことだと分かった。あ。親父がオカンと付き合っていた時、阪神戦はデートに使えず――人気がなかったから――、苦労してオカンがファンだった西鉄の切符を手にしたらしい。相手は当然南海ホークス。どっちの応援をしていたのかは知らん。昭和30年代、南海ホークスは阪神より人気があったのだ。で。父と母が結婚したのは1962年の日本シリーズの期間。皆、当時出たばかりと思しきトランジスタラジオを持って披露宴に参加、披露宴どころではなかったらしい。

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