早いもので20年も経つ。あの日は、三沢から岐阜大垣の出張のために大阪の実家にいた。その直前に三陸はるか沖地震(1994年12月26日)と、その揺れ戻し(1995年1月6日?)を体験していた。はるか沖地震は特急日本海の中で起き、電車に閉じこめられた。揺り戻しは会社の寮で会い、冷蔵庫がダンスするのを見た。部屋の片づけに1日要したが、怪我もなく物損もなかった。震災の直前の金曜日には変な胸騒ぎがしていたのを覚えている。嫌な予感というものか。
さて。1995年1月17日。二階で寝入っていたところに地震。「東北はよく揺れるなー、また大きいな」と寝ぼけながら思っていたら、一階から父親が「凄い地震や、起きて確認や!」と叫ぶ声で「あ、ここ大阪や」と気づく。実家の中は大した被害がない――但し、後で家にひびが入っていたことを確認――ことを確認しつつ、テレビはつけっぱなし。はじめ、神戸震度7と出ていて、「えらいこっちゃー」と思ったが、十数分後、表示が消えていた。情報の混乱が感じられる。まあ、家壊れてないし、もう少し寝れるなと思って寝入る。
9自前だったか、父親が叫ぶ、「テレビつけぇ、えらいこっちゃ!」。テレビをつける。唖然。高速道路、コケとるがな。電車、全部止まってるがな。どないしょ? 電話はつながらん。その頃、三沢の寮は大騒ぎだったそうだ。「たもち(←当時の渾名)と連絡つかん」と。すんません。本社レベルで問題になったそうな。あ。最初の死亡者情報は「大阪市内で老婆が倒れた箪笥の下敷きになり死亡しました」だったかなあ。そんなん、神戸はどないやねん。大規模火災も起きとるで。それまで、関西は地震がないとどこか信じていた。自分自身も、記憶にある限り最初の地震は小学校3年の頃で、震度は2だったと思う。大きい地震はこの時まで全く記憶にない。親父は「戦争中の南海地震以来かな」。なんやねん、その地震。戦争中だから報道されてなかったが、かなり大きな被害があったそうだ。
昼前に「近鉄が動き出している」という情報が出る。平野から布施まで歩く。特急は夜まで満席。急行に乗る。超満員。東青山で連絡待ち。ホームから見える晴れ上がったお天気の、のどかな田園風景が不思議に思える。神戸じゃあんなひどいことが起きてるのに。東青山からは座れる程度の混み具合。養老で乗り換えるが、大垣行は座れないくらいに混んでいた。車内の会話は地震について。「千人死んだらしいで」とか。何とか夜の10時に大垣のホテルに到着する。ロビーで「大阪経由で来ました」と言ったら、「大変でしたね」と言われ、ちょっとだけ交通状況なんかを聞く。そして翌日から大垣で立会仕事。その合間も情報が入る。増え続ける死亡者数。板宿のおじさんは大丈夫か。4日後に連絡が実家に入ったらしい。さすが戦争帰り、生きていた! 倒壊した家からどうやって夫婦で脱出したのか記憶にないらしい。何が不足しているかと聞けば、「女物の下着」。金曜日に大垣の仕事が終わって、多分新幹線に乗って大阪の実家へ。
翌日土曜日、10万円の女物の下着を平野のいずみやで買いこみ、母親と一緒に平野駅へ。福知山線から見る車窓は、伊丹から屋根の壊れた、ブルーシートで覆われた家々。三田で神戸電鉄に乗り換え、新開地、そしてそこから西に回り、確か押部谷で降りて臨時バスに乗り山を越えて神戸市内へ。到着は板宿駅だったと思う。正午過ぎに平野を出て夜に到着。親戚の待つ避難所の体育館に向かう。道すがら、板宿の街を眺める。印象的だったのは、東向きに歩いていた時に見えた風景。山側は何ともなく、灯りがあるいつもの日常風景。海側は壊れた家々。勿論真っ黒。避難所に到着するとすぐに親戚が見えた。大量の女物の下着をボランティアに渡す。かなりのペースで消えて行ったと思う。1週間経っていたためか、暖かくない食事はアホほどあった。温かいものは貴重だったと思う。パンをいただく。そこで一泊。三宮から船が出ていると聞いたので、多分バスに乗って元町まで。そこから歩く。ビルが傾いているせいか、あるいは地面が歪んでいるせいか、歩くだけで揺れているような錯覚。港からの船は普段は観光遊覧船。とってもゆっくりと離岸し、2時間くらいかけて大阪天保山?へ。遠目でも灘あたりが壊滅しているのが分かる。
三沢に帰り、毎日ニュースにくぎ付け。新聞も読む。その新聞には、左翼系の機関誌もあった。痛感したのは「危機のとき、人間は共産主義者として振る舞う」ということ。助け合う人々の姿は『烽火』や『人民の星』からしっかりと伝わる。図書館で目通しする『赤旗』からも。そして、政府はとても無能。伊丹駐屯地や八尾駐屯地の自衛隊は「暴発寸前」だったと三沢の隊員から聞く。色々言われているが、村山は事態を二日くらい理解しておらず、緊急事態なんかまったく頭になかったらしい。これは「社会党だから」という問題ではどうやらなかったらしい。あの政権、自民党の延命のために村山を立てただけだからね。だが、俺は感じた。「こんなバカな政治では、危機の時に我々は殺される」と。エンゲルスの有名な箴言が頭に響く「プロレタリアートは出来合いの国家をそのままにして使うことは出来ない」と。支持し、投票し、時には行動を共にした社会党の震災における体たらく。左翼では駄目なのだ、極左でないと! 村山はずいぶん経ってから震災地に入る。「今更何しに来たんや!」という住民による罵倒が全国放送される。兵庫の権力者にペコペコするだけ。ダメだこりゃ。一方、天皇皇后。特に皇后様。被災地に入り、被災者一人一人の手を取り涙を流す。「正田のメリケン問屋」と古参右翼に揶揄された方は、「国母」としての役割を立派に全うされていた。大したものだ。危機の時、天皇制が権威を示すのは一六年後に繰り返される。とはいえ、「役割を全うされた」という感じで、天皇に帰依するという感覚はなかった。「村山と違って立派」という感じだ。
様々なものが復興する様子、あるいはまだまだ苦しんでいる様子はあの日までメディアを通じて伝わっていた。青森まで。しかし。3月20日、日本国家の中枢であの事件が起きる。すると、青森までそういう情報が伝わることは稀になった。「ああ、日本にとっては東京がほぼ全てなんや」と感じさせられた。
但し、インターネット(パソコン通信)の世界では状況は伝わっていた。当時のネット状況であってもビデオが流れていたのだ。回線代は凄かったと思うけど。インターネットの可能性が知られるようになったきっかけが、この大震災だったと思う。
また、東日本大震災で東京震度6と聞いた時、あの灘の壊滅を思い浮かべたが、そうはならなかった。姉歯建築も無事だった。小生は阪神大震災の教訓を活かしたがゆえに、地震による直接的な被害が東京にはなかったのだと思う。
但し宿題は出来た。津波、原発、帰宅難民。だが日本は、人類はそれを克服するであろう。

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