ここのところ、暴力について考え続けている。暴力の問題についての原点は子供の頃の体験である。
1970年代末、石油ショック不況(多分)で近所の会社でストがあり、子供なので騒々しいのを見に行って(野次馬だな)、ピケのおっちゃんに「ガキは危ないからあっち行きや」と諭され、言われたとおりに離れてしばらくして、警察だったかヤクザだったかが突入して乱闘をするのを見たり、解放同盟の「行動」を見たりして育ってきた。実感として、「世の中一枚剥けばむき出しの暴力が噴き出る」と思っている。
この子供の頃からの実感を確信に変えたのが学生運動の体験。住んでるところを「合法的に」壊すという、法執行=暴力に晒されたし、国家権力は自らの利益のためには法を破りつつ、むき出しの物理的暴力を行使するのを目の当たりにしてきた。
暴力は特殊な現象ではなく、顕在したもののみならず、潜在しているものも含めて現実を動かす<力>である。このことに気づけば、暴力論こそが社会学の柱であるべきことが分かるであろう。
そして、暴力は差別、抑圧、貧困などに姿を変えて民衆に襲い掛かるものだ。否、システムそれ自体が暴力なのだ。ところが、そのように暴力を捉える人は余りにも少ない。
戦争、テロ、暴動を暴力と言うのは分かりやすい。むき出しだからだ。だが、それは社会的な矛盾の表出(痙攣)に過ぎない。それらのむき出しの暴力を齎すものについて向き合わなければ、暴力をなくすことは叶わない。広範(広汎でもいい)な別の暴力から生まれた、分かりやすい、空しい、絶望的な暴力こそが戦争、テロ、暴動なのだ。
「テロとの闘い」。よろしい。賛成だ。だが、それは空爆や戦争ならば余りにも空しい。隠遁姑息な対症療法に過ぎないからだ。貧困、差別、抑圧をなくすることが本当の意味での「テロとの闘い」だろう。9・11でアメリカはアフガンを空爆し、二年後には核兵器云々を口実にイラクを破壊した。その結果、百万を超える民衆が殺された。だが、問題は何も解決するに至らなかった。そして、テロリズムは世界に拡散し、ISILは日本へのテロを予告している。
小生はマルクス主義の考えを概ね支持する。マルクス、エンゲルスが見抜いたように、社会的強制力全般が暴力だと考えている。だから、怒る人がいるだろうが、塩の道などで非暴力不服従を訴えたガンジーさえも、広い意味で暴力革命論者、それも最も素晴らしい暴力革命論者であると捉えている。ただ、彼は暴力の中の一つである武装、軍事行動などに頼らなかっただけだ。民衆の中の意志を呼び覚まし、社会的な組織された暴力を率いたのだ。(ついでだが、トロツキーはそこを見誤り偉大なガンジーを軽蔑するに至った。)
暴力=社会的強制力について、この混迷する世界大の政治経済での身の処し方として真剣に考えるべき時代が、個人としても国家としても到来した。我々は暴力と無縁ではない。多少なりとも広い意味での暴力を行使して生きている。(ちなみに貨幣というものは国家暴力の凝縮物だから、高給取りはそのこと自体で暴力的存在なのだ。)問題は行使される暴力が妥当な、共感を呼ぶ、可能ならば民衆のためになる暴力なんだろうか、ということだ。日常生活さえ暴力の現れと言われれば驚かれるかも知れない。だが、「最もイデオロギー的なものは非イデオロギーをまとって現れる」ように、制度化され、相互に承認された行為は、むき出しでないから暴力に見えないだけで、裏では貨幣などに裏打ちされた暴力が潜んでいるのだ。考えてみたら不思議なことだ、金属片に過ぎないものを渡すことで、生活の糧が得られるなんて!(マルクス経済学が偉大なのは、そこに眼をつけ、市場経済を支える暴力を暴いたことだ。そしてそれを反転させる論理を紡いだ。偉大な逆説の神学!)
その意味で一番懸念していることを書く。しばき隊は初期、その暴力は圧倒的共感をもって迎えられた。小生とても彼らのその時点での暴力を支持する。在特会の言葉の暴力を防圧するには、人間の壁という物理的暴力でしか可能性はないからだ。だが、彼らが差別発言を連発するなど暴走するに当たり、心ある昔からの左派がしばき隊を窘(たしな)めた時、しばき隊諸君は罵倒という言葉の暴力でもって返した。それは今や「ぱよちん騒動」とか「豚の餌」とか、どう見ても民衆の支持を得られるとは思えない地点にまで来た。
繰り返しになるが、誰一人として暴力から逃れられない。そして、多少なりとも暴力(国家暴力の凝集としての貨幣も含む)を行使して全ての人は生きている。暴力は技術の問題と時折書くのは、最も人間的なものであると考えるし、それは深く倫理と結びついていると考えるからだ。だから、人間はすべからく倫理的でなければならないのだ。
ソレル、ベンヤミン、アレント、バタイユ、そしてガンジー。学ぶべきことは多い。だが、最も広い意味で暴力を捉えていると思えるのは日本人今村仁司だ。自分としては注目すべき人だ。
繰り返しになるが、むき出しの物理的暴力をなくするには、そこに至る様々な暴力を吟味し、軽減していかなくてはならない。小生は「取れ、武器を、組め、隊伍を」というラ・マルセイエーズを今の雰囲気で歌う気にはならない。

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