『1★9★3★7(イクミナ)』(辺見庸著、河出書房新社)
1937年は南京大虐殺があった年。同時に、ヘレン・ケラーが日本で熱狂的に迎えられた年である。日本は狂熱にうなされる、というか、飲み込まれていった年である。惨事を担ったのは皇軍。同じであろう人々が、人道に熱中したのだ。これはどういうことか?
著者は父が中国戦線に行った。そこで何があったのか、父は何をしたのか、亡くなるまで聞かなかった。多分は聞けなかった。中国戦線で亡くなった日本の兵士は四十万人。対して、亡くなった中国人は一千万人を下回らないとされる。戦争のキルレシオが25になることは普通ない。とすれば、とにかく手当たり次第に皇軍は人々を殺したとしか考えられないし、余りにも多くの証言(文書含む)がそれを裏付けている。言うまでもなく国際法違反で、本来ならば携わった人間は全て軍法会議で厳しく処罰されるべきものである。だが、日本軍は独自でそういうことをしなかった。
そしてそういうことについては、近年ではベトナム戦争での韓国軍の行為が自国では裁かれないように、戦争における残虐は裁かれない。著者は、そこを日本をターゲットに、裁こうとする。但し、凡百のリベサヨのごとく、外部ではなく、内部として、自分の血のこととして。著者は正直に言う。「海ゆかば」に魂を揺さぶられる、と。そこで小生は著者に共感したし、信頼感を得た。「非道徳的道徳国家」。戦前日本を見事に説明した文章ではあるが、なぜそれが可能だったか。
著者は行きつ戻りつしつつ、父を問う。そして、世界に比しても残虐な皇軍の行為を可能ならしめた日本を問う。そして、それは何も総括されず、抉られなかったのではないか、と、告発する。そして、今は新たな「戦前」ではないか、と。「つぎつぎになりゆくいきほひ」に今は飲まれているのではないか、と。(小生はそれは、日本の主体とは言えないところに、戦前以上の情けなさがあると思うが、それはまた別の話。)
著者の持つラディカリズムは容赦ない。「戦後民主主義の虚妄に賭ける」と言った丸山眞男、戦記物を残した石川達三、火野葦平、竹田泰淳や反戦詩人とされる金子光晴にも容赦がない。そして、戦前日本を分析した数多くの言説をあらまし紹介しながら、著者は納得できないことを吐露している。
だがしかし。それは、人間には無理難題なのかな、とも思う。著者は次の文章を引用する。それは諦めにも似た引用だ。
「もし私たちがすべての人の苦痛を感じることができ、そうすべきなら、私たちは生き続けることができない」(p210、プリーモ・レーヴィ「灰色の領域」『溺れるものと救われるもの』)
ここでいったん答えが出ているとすることも可能であろう。だが、もやもやは残る。それに著者はこだわる。言えば、語りえぬもの(生きていけないから)を語ろう、というわけだ。「コノオドロクベキジタイハナニヲイミスルカ?」と。それは今の課題でもある、と。全ては戦争のせい、と言えれば楽である。だが、戦争を担うのは究極では個人である。「ああ、すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」、と。
著者は色々と、著者の父の石巻新聞での連載を取り上げたり、軍記物を取り上げる。で。象徴として取り上げるのが、昭和天皇の戦争責任(左翼業界では有名な「そういう言葉のアヤ」発言)や、原爆発言(「仕方のないことだと思います」発言)。日本国民は激怒してしかるべきだが、ほぼ無反応であったことに著者は絶望的な感慨を持つ。
まあ、分からないでもないが、ここからは小生の考え。戦前を知る昔の人たちから聞いたことなどをもとにその考えは出来ている。明治の記憶を持っていた人々は、天皇には実質の権限はなく、長州を中心とした閨閥が天皇を錦の御旗に政治を行っていたことを知っていた。顕教としては絶対君主だが、支配層の密教としては「ギョク」に過ぎない。御名御璽を押すハンコに過ぎない。だが、軍国日本になるにしたがって、「ネタがベタ」になった。そういう流れを大人たちは知っていた。「裸の王様」という本当のことを言えなくなった。天皇には本当の意味で決定権など何もなかったことを知ってはいたが、言えなかった。だから、終戦時の「年少世代」には、天皇を「テンスケ」「テンコロ」と罵る人はいたし、その世代の天才の中には「などてすめらはひととなりたまいき」と恨む人もいたが、その上の世代からすればは「そもそもすめらちゃうし」というわけである。だから、かかる発言についても天皇に同情しこそすれ、怒れなかったのである。戦中にあって、大空襲の責任を天皇に迫らなかったのはそういうことを当時の日本人は理解していたからであろう。さらに戦後世代は、基本天皇なんてどうでもよかったのである。
とはいえ。明治維新以降育まれた日本人のエートスは、余り変わっていないというのはその通りで、皇軍やあの戦争を支えたメンタリティーは温存されている。戦後の奇跡の復興を支えたのもそれだとはよく言われているし(軍事では負けたが新たな経済戦では、云々)、それが全て悪いとは小生は言えない。だが、危険ではある。結局のところ、排外主義も、拝外主義も、島国根性なのだ。その視点から中々日本人は脱却できなし、「全き歓待」などできない、「人間」なのだ。日本人以外を同じ人間とは見れず、他者としてしか見れない。
救いはないのか。いや。堀田善衛の『時間』という小説において、堀田は陳英諦という、南京大虐殺を生き残ったインテリの目から日本軍を描いた。日本人にもそういう精神はあるのだ。他者の目を全ての日本人が共感を持てないということはない。土佐日記もあるし(違)。
島国日本も様変わりした点が多い。外国人が多く日本に移り住み、当たり前のように大企業では働いている。島国根性は、多少痛い目に遭いながら変わっていくであろう。しかし。
その悪しき意味での島国根性は、「ムラ意識」という形で、一部リベサヨに息づいている。彼らは批判者を罵倒したり、リンチすることで悪しき日本精神を表明している。それに一部在日が飲み込まれている。それを体現しているSEALDs保護者などに著者が情け容赦ない批判を浴びせるのは当然のことであろう。そして、一部リベラルは、平成天皇に期待する始末である(今上天皇に同情すべき点は多いにしても、あてにしてはいかんだろ。)。さらに言えば、護憲論のごときの多くは、日本にのみ主体があるかのような書き方で、その世界観は幼児のそれである。大人(諸国)は心の中で笑いながら利用するだけであろう。
んで。「「パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」が、未来に先行して、いまやってくることもありうる。」(p398)としても、それは恐らく、日本の主体で行われるとは限らないであろう。レーニン帝国主義論を参照にすると、「伸び行く帝国主義」にこそ、そういうアトノセカイを引き起こそうとする<力>があるのだ。日本人という問題に限らないであろう。
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