ゲバラより尊敬しているフィデルが亡くなって何も書かないわけにいかないだろう。
次期アメリカ大統領(予定)が正直にも「独裁者が死んだ」と言った。いや、正直に言ったのか、あるいはオバマの業績の否定を意図して言ったのか。それは分からない。が、確かに「独裁者は死んだ」のである。
フィデルはゲバラと同じく裕福な家に生まれた。裕福な家に生まれた人は、愛と正義感に溢れる人が多い。それは神の子と言える。それはキリストが神の子と言われるがごとく、それは肉の束縛から放たれた人であるとも言える。生活の苦から解放されているのだ。
革命家にはそういう人が多い。基本的に善良を絵に描いたような人たちなのだ。
フィデルの祖国キューバはアメリカ資本の支配に長年苦しみ、半独立国であった。フィデルは新婚旅行でアメリカに行き、感激するほどアメリカ好きで、そして野球好きである。アメリカには複雑な思いがあったであろう。ホセ=マルティの理想は中々実現しなかったのである。
そして悪名高いバティスタ政権でキューバは腐敗の極みに達した。ゲバラは革命を志し、一敗地にまみえたとはいえ、農民大衆を味方につけた武装蜂起は、続々と味方を増やし、考えようによってはあっけなく革命に成功する。いや、ここで言う革命とは、権力奪取のことである。
さて。私事。現在日本において、革命について熱く語り合える場所が月一のペースで大阪に存在する。そこに時折参加させてもらう。だがそこは革命の理想を持つ者たちの場所、というよりは、かつてそういう理想を持っていたが、しかし今は「存在論的に」革命を語る場である。革命とは何か、それはどういうときに可能か、あるいは不可能か、などなど。参加者が概ね同意するであろうことは、「革命は”原初”を獲得する、暴力闘争である」ということ。革命は抑圧された者が自由を獲得するための、新たな秩序を獲得するための、暴動であり、暴力であり、軍事行動なのだ。政治革命についてはそれしかありえない。
よって、革命が可能になるには、大衆が暴力によりそれまでの秩序を破壊することを欲するという条件が必要となる。それはとても悲惨な状況であり、具体的には戦争なみに悲惨な状況でしかありえないであろう。これについてはレーニンやハナ・アレントやベンヤミンのあれこれを思い起こすだけでいい。決定的には「暴力は革命の助産婦」(エンゲルス)であろう。
ゲバラもフィデルもその図式に則って権力を獲得した。だが、レーニンも後の世に「血塗れニコライ」と揶揄されることと同じ法則がフィデルたちにも降りかかった。革命はまず、秩序の破壊である。同時に、新たな秩序の獲得である。革命に参加した者たちが同一の意志を持っているとは限らない。様々な意志、可能性が、むき出しの暴力、軍事行動と共にあるものだ。フランス革命の昔からそうと相場が決まっている。妥協出来ることばかりならどんだけ幸せか。ロシアならエスエル右派もカデット左派もメンシェヴィキもいた。ボリシェヴィキは時には妥協しつつ、結局のところは彼らを排除=ほぼ皆殺し、という力学を選んだ。フランスならロベスピエール処刑にまで行き着く。フィデルは、同志たちを粛清=処刑する道を選ぶ。それは、新たな秩序について非和解的な対立がある場合、一方が引かなければ血でもって行為・言論の代位とするしかないからだ。そのようなものを通じて、法は措定され、秩序は形成されるのである。国家の「原初は暴力」なのである。
レーニンにせよ、フィデルにせよ、彼らに反対する人たちは彼らの人権侵害を批判する。それでもって地獄落ち決定などという。確かにその通りだ。だが人権のない状況を改めるには、その状況を破壊するという非人権を超えた非人道を通過することも歴史にはあるのだ。その事態を彼らは引き受けたのだ。ただそれだけである。偉大なるフィデルは、地獄への道を勇躍邁進しているであろう。

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