塩見孝也さんの訃報が日本を駆け巡った(というほどでもない)。
同世代の人が色々と書いているが、追悼もあれば、かなり強烈に批判しているものもあり、とても興味深い。
小生は、氏が出獄した直後位に京大の講演を聞き、その場の交流会で少しだけお会いしてお話した。
話しているときは、バブル期の真っただ中で革命を呼号するのは、「可能性」として分かるにしても、すぐそこにある現実としては考えられず、正直ピエロっぽく感じた。ただ、熱っぽさは印象に残っている。独特のオーラがあった。
その後、飲み会会場までご一緒したが、雰囲気が違う。どちらかというとほんわかしたオーラだった。昔から「優しいがゆえにテロリストになる」という。そういう類の人なのだろう。
その後どういう話をしたか、残念ながら覚えていない。
で。氏も歴史になった。日本革命を担おうとした、数多くの人物の中の歴史に。評価はこれからも多少は変わるだろうが、しかし、一定固まっているほうじゃないかなあ。
現時点で小生がどう思うかを書いておこうかな。氏は「日本のレーニン」と呼ばれた。でも、70年代前後の雰囲気でのレーニン評価に引きずられていると小生は思う。今、『オクトーバー 物語ロシア革命』というイギリス人による本を読んでいる。その中に描かれているレーニンは、勿論四月テーゼをひっさげたレーニンではあるが、しかし、その後のレーニンはそのテーゼに従いつつも、彼我の力関係を測定しつつ、かなり慎重に行動し、発言している。五月においては「日和見主義」と言われかねないほどだ。激しようとする労働者・兵士を抑えているのだ。
レーニンは、可能な限りロシアの、そしてヨーロッパの状況を分析していた。どの程度大衆が自分たちについてくるかを測定していたのであった。革命後の農民の動向や意識を把握し損ねて、(干渉戦争があったとはいえ)農民虐殺に手を染めてしまう失敗があったとはいえ、レーニンは力関係においてリアリストであった。
一方の「日本のレーニン」は? 革命的大衆の外側が見えていたのか? レーニンマニアとしてはそう言わざるを得ない。
厳しい評価はここまで。日本の少なからぬ大衆が左翼を支持し、過激路線を支持し、破たんした時代の象徴であり、そのロマンを追い求めた人を、批判しつつも嘲笑することは小生にはできない。けだし革命は歴史の電撃である。いつ来るかは分からない。「人知を超えた」ものの一つが革命なのだ。
塩見さん、安らかに。

3