『清原和博 告白』(文藝春秋)
読み進めていて、気分が重くなる本であった。自分の内面を掘り下げる作業。この重苦しさはドストエフスキーの『地下室の手記』を読み進めている時に似ていた。西欧的社会主義と決別し、スラブ主義に転向するドストエフスキーのこの書は、稀代の天才の知性でもって描かれた。清原は稀代の天才バッターとして、過去の自分の内面と真摯に向き合い、えぐるようにしてインタビュアーである鈴木忠平氏に言葉を紡いだ。勿論、言っていることの全てが正確とも、隠し立てがないとも思わない。だが、真摯さと苦しさは迫ってきた。読後感は鈴木氏と同じ。P246から引用。
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謙虚と傲慢、純粋と狡猾、率直と欺瞞……。
清原さんが全身から発していたものは、少なからず私自身の心にも巣食っているものでした。あなたを破壊したものは、私の中にもありました。(中略)記録者としてあなたの「告白」に向き合うということは、(中略)人としての矛盾や闇を突きつけられるということでした。
(中略)
これは極端な人間らしさの記録です。
どうしようもなさ、ままならなさの記録です。
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例えば、である。生きがいとしているものが奪われるとしたら? 仕事でも趣味でもいい。歳を取ること、事故や病気で身体が動かなくなること。その時、人は「生きていける」だろうか? 稀代の天才バッターは引退でそうなり、壊れた。清原は言う。「ホームラン以上のものが人生のなかで見つけられないのです」と。小生も昔の基準なら老齢だ。色々な衰えを感じつつ、騙し騙し仕事をはじめ色々なことをやっている。清原は、その老境を人生において先取りした人だ。アスリートの哀しさだ。
生きづらさを抱えた人が、悪い連中につけこまれてシャブに手を出すのはよくある話。大昔の純度の高いモノならともかく、今日日のシャブは純度が低く、常習性が非常に高いと聞く。シャブ中は一生闘いである。何はともあれ、生きろ。君が生きているだけで多くのファンの期待に応えているんだから。それは苦しいリハビリを何度も乗り越えた長嶋茂雄さんに追いつくことだ。
それから、マスターズリーグの復活を切に希望する。通年でやって欲しい。

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