彼をはじめて見たのは1992年の二軍だったと思う。全身これバネ、だけどどこか硬そう。筋肉はあまりなく、針金みたいなので「バッタ」と野次っていたと思う。
当時のオリックスは「高橋(デカ)、本西、藤井」と外野手がいたので一軍デビューは遠いんだろうなとか思っていた。何か勿体無いなあ、と。そしてジュニアオールスターで大きなホームランを放って改めて「勿体ないなあ」と。
プレースタイルは好きじゃなかった。だって、打席であんなに動き回るもん。そんなん打たれへんやん普通。でも最後のミートの瞬間は、身体の前側に思いっきり壁を作っていて、理に適っていた。こういうのを天才と言うんだろうなあ。
小生は1993年7月に青森の三沢に転勤した。そこで会社の野球チームに属するのだが、そこの四番がある冬の夜言うのだ。「TAMO2さん、オリックスの鈴木って知ってます? 先日彼と飲んだんですよ。」と。小生は「知ってるよ、すごい素質ありそうな華奢なバッターやね。出番はしばらくなさそう。勿体無い。」と返した。なぜイチローは三沢に来たか。同僚の四番が高校時代の時のチームメイトに佐々木明義さんがいて、彼がイチローと同期のオリックスの選手だから旅行で来たそうな。
で。同僚は言うのだ。「鈴木はすごいですよ、三人で飲んでいて「ではこのへんで失礼します」と言って、ホテルに帰ったんですよ。その後夜遅くなり、結構飲んでいたので心配だからホテルに行ったら、湯気が出るほど素振りしてました。これはど偉い選手になりますよ。」
1994年以降の活躍は書く必要はない。他の選手じゃなくイチローを使ったのは仰木監督の慧眼だね。
因みに、改名はパンチさんのおまけだったような記憶があるw
そして応援歌は「福本豊(世界の福本)」の流用で、最初は「荷が重い」と思ったなあ。失礼しました。
で。2001年に三沢から新居浜に転勤し、そこでも凄い話を知人から聞いた。まだ無名だったイチローは、星野伸之と一緒に自主トレに新居浜に来ていた。阪急ブレーブスの時、新居浜で二軍の試合が定例で、星野さんは自主トレの地を新居浜を選んだらしい。
イチローは、まだ無名なのに新居浜の子供に折れたバットなどを「僕は絶対に有名になるから、それ捨てないで取っておいてね」と言いながら寄贈していたらしい。あ、イチローでもバット折るんだw というのはともかく。
今ならとんでもないお宝だろうけど、「オカン」は怖いw 子供の親は折れたバット=ゴミと思って捨ててしまったそうなww なんという・・・
イチローは今でも盆栽と金魚を趣味にしているのかな。草野球を究めるらしい。好きなことをやって欲しいね。最後のショートゴロ、引退する人の身体じゃない快足だった。眼かなあ。
イチロー引退会見も色々ジワる面白い会見だった。お疲れ様。努力し続ける天才。少しは見習いたい。あの硬かった身体をあそこまで柔らかく出来るんだからなあ(そこか!)
星野さんは今も新居浜で野球教室をオフの期間にやっているはず。手伝ってくださったら幸いですね。

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