『民衆暴力 ──一揆・暴動・虐殺の日本近代』(藤野裕子著、中公新書=2605)
読後、思ったのは、民衆はインテリのイデオロギーに従った存在では決してなく、彼らが決起し、暴力を行使する理由は「我々の生活を守れ」という言葉に尽きるのではないだろうか。それが進歩的に見えたり、排外主義に見えたりするが、別に別の原理に従っている訳ではないと思った。だから、関東大震災の時、知り合いの朝鮮人を守りつつ、知らない朝鮮人を殺したり出来るのだ。
本書の解説としては、この本のあとがきが素晴らしい。一部抜粋する。(p208から)
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「暴力はいけない」という道徳的な規範だけで民衆暴力を頭から否定することは、そこに込められた権力関係や、抑圧をはね飛ばそうとする人びとの力を見逃すことになる。それだけでなく、抑圧された苦しい現状から一挙に解放されたいという強い願望と、差別する対象を徹底的に排除して痛めつけたいという欲望とが、民衆のなかに矛盾せず同居していたことも見逃しかねない。
権力への暴力と被差別者への暴力とは、どちらかだけを切り取って評価したり、批判したりすることが困難なほど、時に渾然一体となっていた。一度暴力が起きると、さまざまな感情や行為が連動して引き出されるためである。
したがって、過去の民衆暴力を簡単に否定することとも、権力への抵抗として称揚することとも、異なる態度が求められる。
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外国には分かりやすい例がある。ロシア革命の一つのスローガンは「ドイツ女(皇后)を絞め殺せ」であり、パリ・コミューンはプロイセンに対する排外主義がきっかけであった。どちらも対戦国への敵意が排外主義として表れつつ、革命としても表現された。
必要なことは、以下のことであろう。
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民衆暴力をネガティブに捉える機制を見抜き、暴力をふるう行為者に即した理解を試みること。そして、権力を乗り越えようとする民衆の力がどのように発揮され、同時にどのような存在を切り捨てていたのかをしっかりと見据えること。
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暴力をふるう論理、内在的論理を把握しなくては、あらゆる変革的思考と行為は、現状では単なる道徳論に堕し、一ミリとて社会を動かせないだろう。

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