『民主主義とは何か』(宇野重規著、講談社現代新書=2590)
2020年当初からのコロナ騒動を見ていて、日本のシステムに危機感を持った。とはいえ、本音を言えば安倍〜菅の政府側よりは、それに有効な対案を示すべき側に対してである。出来もしない「全国民PCR検査を」と煽る朝のテレビ、それと口調を合わす野党。こんなの、算数できたら無理と分かる。というのは、熊野寮の後輩に某県でコロナ対策に駆り出され、統計解析を毎日のようにやっているのがいて、「PCR検査を有効に機能させるには、検査対象の人口の1/10の検査能力が必要、望ましくは1/7」と言われていたから。日本全体なら、大体2000万件/日である。今現在を基準にしても100倍だ。お金は措くとして、人、物をどうする。無責任極まる。結局、色々と判断が遅い憾みはあるけど、政府与党のやってきたことが一番真っ当だった。
野党と雖も馬鹿ばかりではない。しっかりしたことを言う人もいた。だが、それは全然センセーショナルじゃないので、極論に声が消されていたように見える。というか、単品ならば素晴らしいと思う人財もいるにはいる。だが、今のシステムでは埋没するのだ。勿論与党にも。与党のほうが重用されているかなあ。そして、優秀な在野の人や、上に記した後輩(学者)みたいな専門家も多数いる。だが、彼らの真っ当な声は余り採用されているようには見えない。すったもんだでそこに落ち着いているようには見えるのだが。
甲論乙駁の民主主義、責任を伴う意見表明、少数意見を含めた多様な意見を尊重し、具体的な行動に繋げる作風。こういうものが機能しているのか。持ち場立場を越えて良いものを採用する作風はあるのか。とある芸人に至っては「選挙で多数を得たらフリーハンド」というようなことを言っている。三昔前ならテレビから退場だが、それを「実行」している政治勢力を、大阪財界とメディアが産んでしまった。正直、民主主義は機能不全を起こしつつあるし、それは権力交代ごときでどうなるわけでもないと感じたのである。どうにかしなくてはならない、少なくとも考えておかなければならない、そういう次第で本書を手にしたわけである。
本書は民主主義について「参加と責任のシステム」という観点から論じる。ただし、その論調は民主主義の持つ様々な欠陥を、歴史=論理的に説明しつつ、それを自覚した上で論じている。民主主義万歳では決してないのだ。「民主主義」という言葉が肯定的に用いられた歴史は、せいぜい250年くらいか。欠陥そのものはプラトンの昔から論じられている。そして現前する状況もそれを証明している。だがそれでもなお、他のシステムよりマシなのだ。(チャーチルかよ)

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