『ミッション・エコノミー 国×企業で「新しい資本主義」をつくる時代がやってきた』(マリアナ・マッツカート著、関美和・鈴木絵里子訳、ニューズピックスパブリッシング)
前の会社にいたときに、薬の開発をしている人に聞いた。「今の創薬は、本当に必要と思われるものを作るには数千億円要する。(始まったばかりの)高分子医薬や核酸ならば、兆を超すかも知れない。メルクなどの超大手はともかく、タケダクラスでも「本当に必要なもの」を開発するのは厳しいだろう。なので、当たり障りのない向精神薬なんかばかり開発しているのだ」と。かなり自嘲気味であった。
今、人類は、二酸化炭素排出に伴う地球温暖化の悪影響が、素直に自然科学を受け取るものにとっては危機的な状況である認識を共有している。(異論はあるが、説得力はない。)その対策として地球上に必要となる投資額は500兆円とも言われ(恐らくもっと必要だろう)、必要となる技術上のブレークスルーも多数あろう。そして、何よりも人類の、環境問題への圧倒的参加が必要であろう。
問題は、「どうやって」である。ちょっと近代の歴史を。社会主義計画経済は不足の経済という無責任体制により自壊した。結局は国家エリートが全てを計画するという、疎外態の究極に行き着き、「缶詰に石が入っていても誰も責任を取らない」、「どの部署も能力を過小に申告し、資材をため込むために常に不足している」ということになり、計画経済の論理では修復不可能となり、崩壊した。旧社会主義圏は資本主義になだれ込んだ。社会主義を部分的に取り入れたような福祉国家(=戦争国家=総動員体制w)も、イギリス病に代表される非効率が叫ばれ、とどのつまりは世界中が「新自由主義」と言われる原理主義的資本主義にグローバルになだれ込んだ。それは市場万能論が跋扈し、優勝劣敗こそが自然の理で、それに疑問を持つことは負けが確定した許しがたい社会主義者、というわけである。だが、ブローバル資本主義が世界を支配した90年代から二酸化炭素の排出量や資源の消費量は指数関数的に増大し、貧富の差は拡大し、やらずぶったくり(レントのかすめ取り)が自然の摂理のごとく語られ正当化され、人類は総体として疲弊した。野蛮な資本主義だもんな。それに対する処方箋の一つがこの本である。

2