『暴力批判論』(ヴァルター・ベンヤミン著、岩波文庫)
本について書く前に。著者の悲劇的な死について書こう。著者はユダヤ系ドイツ人として生まれる。そして迫害を受け、フランスに逃れるが、フランスはビシー政権となる。そして、スペインに逃げるが、そこもまたフランコの政権に。そして、ピレネー山脈を越えてポルトガルに逃れようとするが、たった一日違いで国境は封鎖され、無国籍者の移動が禁じられる。そして、自殺する。
彼は国家暴力によって殺されるのだ。この本は、主として国家暴力について述べている。暴力のうち最も恐るべきもの、それが国家暴力なのだ。そして法はそういう暴力に根拠を定める。「ごめんで済んだら警察要らん」(40年前の大阪の子供)ということだ。で、警察はいかがわしい。
ではこの本について。
この本は決して暴力否定の本ではない。暴力の存在論とでも言うべき本だ。現実は暴力に裏打ちされていること、それがどのように存在しているのか、現実を支えているのか?ということを問うているのだ。
まずはこのように宣言することからこの本は始まる。
暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係をえがくことだ
(P29)
そして最後のほうでこう述べる。
非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定の――支配の、といってもよい――暴力である。これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されなければならない。
(p65)
非難されなければ理由についてこの本は説明している。が、解決すること(暴力をなくすこと)の困難さをも浮き彫りにする。
それではいつも通りに箇条書きでポイントを。かなり分厚く書かなくてはならない。
・暴力批判の俗論として「暴力が正しい目的のためのものか、それとも正しくない目的のためのものか」を問うことがある。だがそれは「原理としての暴力そのものの批評基準ではなくて、暴力が適用される個々のケースのための批評基準」(p30)であるため皮相な批判に留まるとする。
・その皮相な考えの例として自然法の扱われ方を挙げる。「自然法は、正しい目的のために暴力的手段を用いることを、自明のことと見なす」(p30)とすれば、正しい目的のための暴力は何の問題もないことになる。
・対して実定法があるが、実定法とても「あらゆる未来の法を、その目的を批判することによってのみ判定しうる」としているので、自然法と同じく「適法の手段は正しい目的へ向けて適用されうる」(p31)というドクマは共通である。
・こうして、「自然法は、目的の正しさによって手段を「正当化」しようとし、実定法は、手段の適法性によって目的の正しさを「保証」しようとする。」(p31) では、適法の手段でもって間違った目的という、我々がよく目にする事態とは?? 「この点を明晰に認識するためには、まず圏外へ出て、正しい目的のためにも適法の手段のためにも、それぞれ独立の批評基準を提起しなくてはならない」(p32)
・著者は目的の領域=正義の批評基準をまず退ける。そして暴力を構成するいくつかの手段の正当性を問う。そして歴史的に承認された暴力(法定の暴力)と法定のものではない暴力という区別を見る。実定法の尺度を判定するのだ。
・現代ヨーロッパでは暴力でもって個人の自然目的を追求することをどんな場合にも許容しないとされる。「法の手中にはない暴力は、……それが法の枠外に存在すること自体によって、いつでも法をおびやかす。」(p35)からだ。逆説的に、日本で言えば鼠小僧や石川五右衛門が民衆の人気者になる所以である。法=暴力の独占に対する反発か。
・ストライキについて。非行為=非暴力という捉え方があるが、社会的な恐喝なので暴力である。組織労働者は国家を除けば暴力の行使権を持つ唯一の権利主体である。国家に認められた暴力が全面化するのがゼネストであるが、しかし、その段階において国家は敵意をむき出しにゼネストと対立する。「暴力を行使するストライキ労働者に、(国家が)暴力をもって対立することは、法的状況に内在する具体的な矛盾のあらわれ」だが、「法の論理はそこでも一貫している」(p37)
・というのは、「(暴力は)法関係を確定したり修正したりすることができる」(p38)という点で。それが国家の外部に向いたものこそ戦争である。強者、あるいは勝利者は相手の法を措定するのだ。
・そして、暴力は法維持のためにも行使される。本書を裏読みすると、そのような暴力は倫理的・歴史的なものに裏打ちされている。法維持の暴力は社会的脅迫なのだ。
・犯罪者の運命、特に死刑に値することを考えれば、その脅迫の不確定性が浮かび上がる。捉えられなければ罰せられないが、捉えられれば永遠の処罰=死刑となる。「法における何か腐ったようなものが感じとられる」(p43)のだ。
・法措定暴力と法維持暴力の二つが怪物化しつつ混合して警察の中に現存する。警察は「広範囲にわたって法的目的をみずから設定する権限(命令権)を」もっている。(p43)そして、時の権力の意向を先回りしてくみ取り、手先となっていることの例は今現在の辺野古などで見られる。警察は「もはや法秩序によっては保証しえなくなっているところ、(略)明瞭な法的局面が存在しない無数のケースに「安全のために」介入して、生活の隅々までを法令によって規制し、なんらかの法的目的との関係をつけながら、血なまぐさい厄介者よろしく市民につきまとったり、あるいは、もっぱら市民を監視したりする。」(p44)
・こうして法が倫理的にはあやしげであることが感じられる。
・法的協定は、当事者たちによってどんなに平穏に結ばれていても、それが破られたときのことを考えると、破ったものへの暴力を行使する権利が担保されていなければ意味がない。「法的制度のなかに暴力が潜在していることの意識が失われれば、その制度はかえって没落してしまう」(p46)のだ。
・当時のドイツ議会は革命的暴力を忘れたがゆえにみじめな見世物になり果てていた。「議会主義が生きた諸問題のなかで何に到達するかといえば、それは起原にも終末にも暴力をまといつかせた、あの法秩序でしかありえないのだから。」(p47)
・詐欺について。嘘が罰せられない=暴力の不要というところでのみ、話し合い――非暴力的な和解――は本来成り立つ。だがそれでは詐欺や嘘はやり放題。ここで「法的暴力が割りこんできて、詐欺を処罰の対象とするにいたった。」(p48)
・古代ローマでは、詐欺そのものは少しも暴力を伴わないので処罰をまぬかれていた。後代の法では、著者に言わせれば「他者への恐怖と自己への不信」(p48)が法の動揺を示しており、「欺かれた者が振るうかもしれぬ暴力への恐怖」(p49)ゆえに法は詐欺に反対する。
・詐欺という「非暴力的」な手段が引き起こす暴力に怯えて法は制約を課す。同様に、スト権を認めないことにより引き起こされるであろう暴力に怯えて、スト権という暴力行為を合法とする。
・話は階級闘争へ。ジョルジュ・ソレルが出てくる。二つのゼネスト。国家権力と結びついた穏健な社会主義者による政治的ゼネストを「別の主人のもとに――ソ連の官僚制を想起するべきだな――置かれるように、デモンストレートするのだ」(p50;孫引き)とソレルは切って捨てる。対置するはプロレタリア・ゼネスト。国家暴力の絶滅を唯一の課題とする。
・プロレタリア・ゼネストは「労働が完全に変革されなければ、いいかえれば国家――資本と結びついた――による強制がなくならなければ労働を再開しない」(p51)ものであり、革命を貫徹する。既存のシステムに対する「脅し」ではなく、無視であり、純粋な手段であり、その意味で非暴力的である。(この論理は納得しがたいところがある。)そしてアナーキスティックである。
・ともかく、ソレルを引用する著者の主張を。「倫理的で真に革命的な構想と対置するとき、プロレタリア・ゼネストがひきおこしかねない破局を考えてこれに暴力という烙印を押したがるような考えは、どんな考えであれ、とるにたりない」「ある行動の暴力性は、その行動の効果や目的にてらしてではなく、もっぱら手段の法則にてらして、判断されてよい」(p52)
・だが、国家は効果のみを眼にとめる。そしてプロレタリア・ゼネストを暴力呼ばわりして対峙する。また、ソレルはプロレタリア・ゼネストにおいて、厳格な構想ゆえに、革命のなかでの本来の暴力の展開をどれほど減少させうるかを論じているらしい。
・外交官は私人間の合意とよく似通ったしかたで、国家間の紛争の処理にあたっている。(法が直接支配するわけではない。)
・一切の暴力を完全に、原理的に排除することはまだどうにも想像できない。このあたりから話はかなり抽象度を増す。「すべての法理論が注目しているのとは別種の暴力についての問いが、どうしても湧きおこってくる。」(p53)
・「手段の適法性と目的の正しさについて決定をくだすものは、決して理性ではない」(p54) 手段の適法性については「運命的な暴力」、目的の正しさについては「神」である。
・そういう次第で、「神話的な暴力は(中略)神々のたんなる宣言である」(p55) 存在の宣言である。運命的な闘いが法をもたらす。(英雄伝説)
・「法の措定は権力の措定であり、そのかぎりで、暴力の直接的宣言の一幕にほかならない。正義が、あらゆる神的な目的設定の原理であり、権力が、あらゆる神話的な法措定の原理である。」(p57)
・法措定暴力が保証しようとするものは権力である。そもそも法(レヒト)は権力者の特権であった。境界を引くことで、(権力者の)敵にも権利を認める。法を知らずに境界を踏み越えたものは、贖罪させられる。今は処罰だ。「暴力のみが法を保証する」。
・直接的暴力の神話的宣言は法的暴力の、歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として明確にする。それを滅ぼすことが課題となる。それを命じうる純粋な直接的暴力とは? 「神話に神が対立するように、神話的暴力には神的暴力が対立する」(p59)。それは「前者(神話的暴力=法)がつみをつくり、あがなわせるならば、後者(神的暴力)は罪を取り去る」(p59)ものだ。(イエスを思い出すよね)
・悪乗り。神的暴力はイエスなのだ。「神話的暴力はたんなる生命にたいする、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受けいれる。」(p59〜60)
・神的な暴力の現れの一つとして、教育者の暴力がある。それは究極的には法措定の不在によって定義される。それは「罪を取り去る暴力」「生活者のこころに関しては、けっして破壊的ではない。」(p60)
・戒律は行為以前にある。戒律は行為の物差しではない。断罪を戒律から根拠づけることはできない。「非常の折りには、それ(戒律)を度外視する責任をも引き受けねばならぬ」(p61)
・「生命ノトウトサ」と言う言葉への強烈な批判。これは本書の柱の一つだと小生は思うので、引用しておこう。(p63)――小生としては、三島由紀夫がまさに命を賭して「生命よりも大事なものが人間にはある」と訴えたことを思い出す。
生命ノトウトサというドグマの起原を探求することは、むだではなかろう。たぶん、いや間違いなく、このドグマの日づけは新しい。衰弱した西ヨーロッパの伝統が、見失った聖者を茫漠たる宇宙のなかに探そうとした、最後の錯誤がこれなのだ。(中略)もうひとつ考えておくべきことは、とうとい、とここで称されているものが、古代の神話的思考からすれば罪の極めつきの担い手であるもの、たんなる生命なのだ、ということである。
・「暴力の廃絶の理念のみが、そのときどきの暴力的な事実にたいする批判的・弁別的・かつ決定的な態度を可能にする」(p63)
・目の前の現象を見るだけでは、暴力の弁証法的な変動を認めるに過ぎない。解脱するには、「国家暴力を廃止する」(p64)しかない。そして「新たな歴史的時代が創出される」(p64)のである。
・著者の言う純粋な暴力は、この本で明らかなように現象形態としては非暴力である。そして、大衆の<生>がむき出しになる革命的暴力もそういう類の暴力である。
・(神的)暴力のもつ滅罪的な力は、人間の眼には隠されている。
・「非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定――支配の、といってもよい――暴力である。これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されなければならない。」(p64)
最後に。ソレルを紐解いたこの本の論理に従うと、革命的暴力は現象形態として、非暴力であってこそ純粋な現れ方となる。それを阻害する「何か」があるからこそ、むき出しの暴力に投げ込まれる。
暴力革命で批判されるべきは旧体制なのだ!

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