製作決定後、30万円のカンパをとある人から要請され、独身じゃないので断った作品。
はじめのうち、説明しなければいけないことを端折り過ぎと感じたが、その後はドンドン引き込まれた。
当時の共産主義運動の受容のされ方が、スターリン主義の克服を目指したはずの新左翼でさえも、実に軍隊的・疎外されたものであることが表現されていてそれは良かった。こういうのが最も人殺しのイデオロギーになるのだ。
さて、あの事件、ただのウヨな人は共産主義の狂気で済ますのだろうが、小生みたいな極右から見たら、日本人の、それも軍国日本の狂気に満ちているように見えた。お上に対して、皆おかしいと思っていても突っ込まないんだもん。お前の属している組織やらはそんなにえらいのか、とか、分かっていたら起きなかっただろう。(ネチャーエフ事件を見るとロシア人もそういうところがあるかもね。)
あ、共産主義に戻る。「ブルジョア」という罵り言葉、「俗物」という罵り言葉がマルクスやらレーニンが使ったことは有名。だけど、女性は
本能的に、男に可愛いとか綺麗とか思わせたいものだし、男もかっこよく思われたいし、人間としてはおいしいものを食べたいものだ。そういうところまで、この映画にあるようにブルジョア的とか否定されたら、もう、なんというか。んで、さらに「お前は分かっていない」と言う森さん。わかっていなければ、わかるように説明するのがリーダーだろうに、そうせずに死ぬまで殴って指導。あかんわ、森さんあかんわ。
で、人間なんて、理性で理解できていることなんて、特に自分のことについては少ないもの。ただ、嫌なことと痛いということだけは分かる。でも、何故嫌かや痛いかまでは理性的には説明できないものだ。だから「共産主義化」という、当時の共産主義受容に照らした理性主義的理解では、人間なんて何時までたっても理解出来ないし、共産主義化なんて無理なんだ。(ってか、そもそも関係のことだし)
「嫌」という叫びから始まるのだ。それを党の名の下に抑圧した時点で、共産主義運動は負け。
「俺たち勇気がなかったんだ」という最後の言葉、確かにそうだけど、勇気は知性に裏打ちされてこそ。むしろ知性に欠けていたんじゃないか、と。大衆と共に。それが共産主義。運動=関係なんだから。
あと、永田洋子が森恒夫の自殺(自分自身を「総括」)を受けて「卑怯」と叫んだことは理解出来る。彼女は今、病気のため意識レベルが30とか酷く状態らしいので、期待できないが、何故あんなことになったのか、残す義務があると思う。
共産主義(運動)と日本人のアカンところを見せ付けられて、やりきれなくなった。
「指導という名の欲望」問題にも示唆があった。ってか、そのものやん。

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