2020/3/5

ワルターのイギリス  指揮者


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SONY Records SRCA 8734 CD 1992

ドヴォルザークの交響曲第8番だ。「イギリス」の名称でもお御馴染みだが、この曲が聴きたくなると即座に掛ける定番のCDでもある。演奏は批評家の宇野功芳先生には些か評判の悪いものだが気楽に聴くのだから関係ないだろう。収録年は1947年、ニューヨークフィルのレコード用の演奏。幸い年代の割りに音質が良い。その演奏は極めて表情的だ。なんか気持ちに流れっぱなしなので、まるでアマチュアみたいだが、グッと気持ちが入ると濃厚な表情を見せ、中々聴かせる。テンポも加速すると止まらなくなる。楽員もそれで上滑りするが、そこが面白くもある。時に常軌を脱した激しさを見せるが、なんだか如何にも人間が音楽をやっている感じが良いのだ。なのでアダージョも気持ちを込め過ぎ野暮ったいが、そこが素敵だ。しかしながら形式的で何も面白くない演奏を聴くよりはマシだろう。第3楽章の優美な旋律も磨き過ぎて思わずホロッとする程だ。それにしてもこんな"御涙頂戴のアレグレット"なんて、そうざらには聴けない。終楽章は正に集大成だが、冒頭のファンファーレから輝かしく、旋律に気持ちが常に篭っているので夢中に成ったら止まらない演奏。だからアレグロは乱奇知騒ぎ。この曲に掛けた巨匠の気持ちがよく解かる。だけど「そんな処がファンには魅力なんだろうな?」と思いながらも大物の割りには印象が薄い巨匠だ。(「それが原因なのかな?」と聴き終わると何と無く理解出来る。)コーダも完全に上滑りして終わる。次に「モルダウ」が収録されている。録音年は、1941年。これも表情的な演奏。浪漫的過ぎる感じがする。ここでもテンポの速い箇所は上滑りしているが最初のイギリス交響曲と比べ、今1つスムーズに音楽が進まない。ニューヨークフィルと巨匠の音楽性にズレがあるのだろう。それ程に感傷的な演奏。最後は、R・シュトラウスの「ドン・ファン」だ。録音は、これが一番鮮明。1952年に収録しただけの事はある。これは、前2曲と違いストイックな演奏で逆に色が無い。テンポも速く、どんどん進むのだ。巨匠にしては近代的な表現だ。ドライで禁欲的なベームみたいな演奏だ。残念なのはやや造型が甘い事。そこが如何にも巨匠らしい。だけど必要な音は漏らさずよく鳴る。一点の曇りのない演奏だとも言える。そのせいか聴き終わると圧倒的な印象を受ける。不思議な指揮者だ。


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Columbia Graphophone England 33CX 1036 LP

上記の文は2010年に上げたものだが、誤字や文章上の表現の間違いを改正した。その演奏を今更ながら英国コロムビアの初期盤で聴き直してみたので、その感想だ。商品番号は、33CX 1036だ。(その 33CXの連番にはフィルハーモニア管弦楽団を指揮した若き日のカラヤンのレコードもある。)さて聴くとするが、針を下すとト短調で始まる序奏から深い。その後のフルートがなんと素朴な事か?この第1楽章は、Allegro con brioだが、正にそれですぐ駆け出すのだが、レコードの方が音の肉付きが良い為か上滑りはCDで聴いた時よりは感じられず、「イケイケ」状態だ。表情の急変も、レコードで聴いた方が唐突感がなく有機的だ。突進振りが物凄い。各主題も明確に聴こえる。やはりCDの場合はリマスター処理によって音楽の大事な部分が削り取られるようだ。で、第2楽章だ。Adagioだが、フルートとオーボエのソロの後にヴァイオリンのソロが現れる処が、まるで対話でもしているような風情がある。この楽章もテンポはかなり自由に動く。処々激しく感情的な部分も、この楽章の特徴だが、そんな傾向の演奏であれば聴く方も良い意味でノッて来る。演奏のスケールも、どちらかと言えば小さいので生にワルターが、この曲に込めた思いもダイレクトに伝わる。そんなワルター節とも言える演奏が第3楽章で味わえる。 Allegretto grazioso - Molto vivaceの楽章だが、冒頭から美しく、ニューヨークフィルも良く歌う。あまりにも感傷的過ぎる程だが、この曲にはそれ位がちょうど良い。聴いていても納得する。これならば「アメリカのオーケストラも悪くないじゃん!」と思う程だ。コーダはト長調4拍子だが、力強く踏みしめている。そして第4楽章、即ち Allegro ma non troppoだが、トランペットによるファンファーレは輝かしく、目が覚める位だ。チェロによって主題が静かにゆっくりと提示される部分はまるでブラームスだが、最初に提示された主題は次々と変奏を繰り返すうちに巨大になるのだが、その過程が自然で、それが膨れ上がった頂点では、ホルンのトリルも効果的だ。コーダは輝かしく、乱痴気騒ぎで終わるが、こんなに楽しい演奏ではどうでも良くなってしまう。しかしこの演奏はワルターのレコードでは割と地味な存在だ。

(2010/03/14の記事より追記)

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2017/3/21

主観と客観の狭間のブルックナー  指揮者


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Dutsche Grammophon LPM 18 854 LP 1964


ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと言えば、真っ先に浮かぶのが、ベートーヴェンだが、その演奏様式から場合によっては古く感じるものがある。それはテンポの扱いやバランスと言う事になろうが、以来と違い、極端に神格化をされないので、改めて聴き直すと、また別の発見もあろうと思う。それが巨匠のブルックナーの交響曲だが、既に他界された音楽評論家である宇野功芳氏の評論に影響をされた世代の音楽ファンには、「フルトヴェングラーとブルックナーは水と油」なんて認識の人も結構居るだろう。その論評は、モーツァルトとて同様だったが、何の先入観もなく聴くと現在の整理整頓された演奏と比べて、とても自由奔放なので、逆に面白いなんて楽曲も割とあるものだ。小生の場合は「魔笛」だった。「ドン・ジョヴァンニ」は鈍重だが、そんな彫りの深い演奏は、この時世にはないので、その意味では説得力もある。所謂”大時代”の音楽ではあるが、それは懐かしくもある。それと氏の録音データや、それらの情報については、朝日新聞等の左派系媒体のように捏造や偏向が多々あり、これは巨匠に結構詳しい音楽ファンでも混乱する程だ。それだけ変な情報が蔓延している。それは記事を書く批評家連中が、まるで「講釈師、見て来たように嘘を言い」を実践しているからで、とにかく想像だけで記事を書く。なので未だにその辺の整理が付かず、「これはどうなの?」なんてものがあり、全部解決したとは言い難い。然も「ないものがある」ような録音物の情報がまだ蔓延っている。酷いのになると関係者の証言(従軍慰安婦問題のようだ)なんてものがある。つまり証拠はないのだ。過去には、その手の捏造記事も多々あったのだから、古い音楽ファンには、まだ騙されている人も居るだろう。つまり日本のジャーナリズムの欠点は、そんな処にも影響をしているのだ。さて能書きは此処までとして、本題に触れよう。そのブルックナーの交響曲だが、巨匠の演奏として残っているものは、4、5、6(第1楽章欠落)、7、8、9番だが、これは当時では原典版と言われているバージョンで演奏をされている。面倒なのは、この作曲家は改正癖があり、多数の稿が現存しており、弟子たちの手が加わったものもある。その中ではレーヴェやシャルク版が知れているが、更に指揮者によっては更に改正をしているので、結局は、つい最近まで「何が何だか解らない」てな感じだった。だがレオポルド・ノヴァークが、ロベルト・ハースの後任として、オーストリア国立図書館の音楽関係資料の収集の責任者になってから引き継いだ、ブルックナーの研究により、客観的な各稿の整理がついたのは最大の功績としても良いだろう。ちなみにハース氏は、そのブルックナーの資料整理に関し、戦後は氏が戦前戦中とドイツ国家社会主義労働党の党員だった事から、その責任者の任を解かれた。そんな背景から、このレコードを聴くと「なるほど」と思ってしまう。そこでこのレコードだが、その楽曲は、ブルックナーの交響曲第9番ニ短調である。収録年は、1944年10月7日で、ベルリン・ベートーヴェンザールでの収録とある。原版は、ドイツAGE開発のマグネトフォンである。状態は当時のものとしては最上だが、性能の限界もあり、トゥッティ(全奏)では音も濁るが仕方ない。それとこれは実況録音との記述も多々あるが、ラジオでの放送を目的としたもので聴衆はいない。そこは随分と誤解が多い。それをいい加減な批評家連中は、確かめもしないで実況と書いた。これでは物書きとしても語学力の点で失格だろう。批評は元来、客観的なものである。なので主観的な場合は敢えて「私見だが」と断り位は入れてほしい。


それでは第1楽章だが、Feierlich, misterioso(荘重に、神秘的に)とある。その冒頭の空虚5度の開始は如何にも深刻で、当時のドイツの空気と言おうか緊張感が伝わる。それで”これこそが時代の証言なのかな?”なんて思うが、その雰囲気に引き込まれてしまう。とても暗く重苦しいが、第1主題は瞑想的で8つの動機によって形成されている。それで、第63小節からの第7動機で圧倒的な頂点を作るのだが解放された音楽にはならない。然も物凄く乱暴なアッチェレランドが掛かる。それから引き延ばすようなリタルダンドが入るので、歌舞伎の見栄のようだ。巨匠は戦前、(野村胡堂等に)吉右衛門に例えられたが、計算づくでしているので、正に播磨屋のそれを感じる。(良い例えだ。)まるで音符の裏にあるものでも探るような趣もある演奏だが、巨匠のブルックナーの演奏には、後年もそんな処がある。そこに好き嫌いが出るのだろう。小生もこの作曲家は、そんな深刻なものではないと思っている。第2主題の人間的で慈愛に満ちた響きは巨匠に向いているのか暖かく分厚い響きは、そこに平和を感じるが、浪漫的でもあり、無味乾燥な演奏よりは遥かに良い。何よりも旋律が歌っている。聴いていると曲想の感情に沿ったテンポの動きがあるが、自然なので気が付かない程だ。ホルンも効いており、なんとなく牧歌的な響きがする。弦楽器のセクションも繊細で、この頃のベルリンフィルの特色が現れている。第3主題に入った後の頂点は熱い感情が交差するが、人間の感情に即した表情的な演奏も悪くはないと思わせるものがあり、これはこれで良いのではないか?それにしてもこの頃のベルリンフィルの低弦の魅力は素晴らしい。行進曲風の主題もポリフォニックであり、管楽器のセクションも充実している。これがブルックナーか?と思う人も居るかも知れないが、聴いているうちに疑問も解けた。終始部は、この演奏スタイルでは壮大な印象がある。そんな第1楽章だった。繰り返し迫る主題がなんと雄弁な事か?続く第2楽章だが、Scherzo. Bewegt, lebhaft - Trio. Schnell(スケルツォ。軽く、快活に - トリオ、急速に)とされている。それに対し、巨匠は、どう挑むのかが最初に聴いた時は興味深かったが、この楽章は流石に賛否両論だろう。巨匠は最初から乗った演奏だが、戦闘行為そのものの荒れ方だ。それでなんか聴いたような旋律が聴こえると思ったら、スケルツォの開始和音はトリスタン和音を移調したものだった。絶えず何かに焦ったような演奏だが、トリオの部分には哀愁を感じる。だが暴力的な主題は、その通りに演奏で答えているので、些かやり過ぎだと拒絶反応を示す人も居るだろう。この辺が、「フルトヴェングラーとブルックナーは合わない」とされる由縁だろうか?第3楽章は、Adagio. Langsam, feierlich(アダージョ。遅く、荘重に)である。冒頭から厚いハーモニーだが、この楽章がとても深く、第9小節から第16小節に掛けての高揚は、ダイレクトに聴き手に迫るものがある。此処でもホルンが効いていて、その楽器が好きな人には最高だろう。(私見で申し訳ないが)ブルックナー自身、「生との訣別」と明言しただけの事はある。センチメンタルな弦の調べも素晴らしいが、展開部での解放感は爽快だ。渾然一体と言う言葉は、この演奏にこそ相応しい。久々に聴いたら、すっかりと感動してしまった。



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2016/4/12

チェリビダッケのブルックナー  指揮者


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a Universal Music UCCG-1033 CD 2001


欧州楽壇では所謂、頑固爺さんみたいな人が現在は居ないせいか、この世界に有り勝ちな厳格さや荘厳な感じが薄れてきたように感じる。そんな思いからか、巨匠逝去後にヴァントが注目を浴びたのも理解出来るが、経験がものを言うような職人タイプの指揮者も居なくなった。更に残念なのは存在で圧倒するような人物も居ない事だ。正に「巨匠の時代」の終焉だが、日本でも朝比奈隆のような人も居ない。それにこの手の音楽家は作る音楽も大きかったと思う。だからそれらの巨匠達が存命だった時代は可也夢中になってクラシック音楽を聴いていた人も現在では「なんか寂しい」と思ってる事だろう。現にレコード業界も振るわない。小生もそうだが結局、音楽鑑賞で利用する媒体は未だにアナログが中心なのだ。だからこのblogとてレコードの視聴記ばかりである。なんだか愚痴みたいな前振りだが、本当にそう思う。カラヤン、ベームの時代が懐かしい。此処ではチェリビダッケのブルックナーを取り上げるが、真のブルックナー・ファンとされる人からは意外と敬遠されている。それは聴けば一目瞭然だが、オーストリアの田舎者で素朴な作曲家の作品を「あまりにも磨きすぎないか?」と。そのチェリビダッケと言えば、生前は随分とカラヤンに対し、何処のドイツの新聞社の記事かは忘れたが、「彼が大衆を興奮させることは知っている。コカ・コーラのように」と評したのは有名だ。確かにあれ程にオーケストラの威力を示した指揮者は居ない。これは私見だが、カラヤンの音楽性は演奏効果に対して敏感な音楽家だったと思う。極度に磨かれた音楽が何よりもそれを証明しているではないか。カラヤンと言えばレガートレガートの連発で分厚い音の層で音楽を作った達人だ。それと似た指揮者にはカルロ・マリア・ジュリーニが居るが、この人のレガートは気持ちが悪かった。それこそカラヤンの二番煎じだが、名盤との評価の高い、シューベルトのグレイト交響曲なんぞは楽曲の美しさが過度なレガートで台無しになっている。だが名盤だ。そこに疑問がある。「作曲家はそこまで求めたか?」と。しかしながら此処まで話を伸ばして何だが、チェリビダッケのレガートもその対極にある。それこそ「西の横綱がカラヤンならば、南に居るチェリビダッケは大関か?」と言う事になる。なのでこの二人の巨匠の共通点は凝り性なのかなとも思う程だ。そこでチェリビダッケだが、レガートのデリカシーと言う点では恐らくカラヤンに勝ると小生は思っている。神経が透けて見える程のレガートはチェリビダッケならではだ。だからこのシュトゥトガルトで行われた放送楽団の演奏とて変わりない。曲はブルックナーの交響曲第3番ニ短調である。この演奏は嘗てNHK−FMでも聴いた。然もエアーチェックもしている。それがCD化されたので懐かしい演奏だ。1980年11月24日にリーダハレで行われたものだ。これはラジオ放送が目的のものなので当然、元マスターからでは音響バランスも違う。つまりプリレファンスをされていないバランスだ。だがそこにとやかく文句をつける批評家も居る。さて演奏だが、透けるようなレガートは満開だ。そこに好き嫌いが出るのも当然だが、その放送当時に聴いていた小生は、連続するレガートに「此処まで」と感心をしたものだ。それはあまりにも理屈っぽい巨匠の音楽性に感心をしたからだが、そこから録音が極端に少ない事を残念に思った。話は戻るが、このブルックナーは最終稿とされるものだ。処々に巨匠の掛け声が入る。それが巨匠のファンには堪らないと思う。だからスケルツォはそれで気合を入れている。その上、巨大な造型で質実剛健なのだ。結構肌合いの変わったブルックナーだが、嫌いではない。こんな文章でCDの紹介になっただろうか?

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