2014/4/16

フルトヴェングラーの「フィデリオ」  指揮者


クリックすると元のサイズで表示します
Toshiba EMI WF-60069/71 3LP 1984


フルトヴェングラーの「フィデリオ」である。正規な録音と言えば、このEMI盤だけなのだが、1950年代にはよく在った、台詞抜きのレコードである。だがそれには理由もある。これは歌劇の形式が、番号歌劇と言うもので、「歌曲作品」の集合体を称して「歌劇」としていたものだからである。つまり歌曲を台詞で繋いだものなので、レコードとして販売をする事を考慮すれば、大事なのは楽曲そのものであり、台詞は不要だとの判断だと思う。これは78回転盤の頃の歌劇録音にもよく在ったものである。しかしながら現在は、そのような歌劇の録音でも台詞も含めて全曲盤としているので、初めて聴く人には、何か物足りなさを覚えるだろう。私も最初はそんな感じだった。だから頭の中での起承転結が旨く行かずに楽曲が分離して聴こえたものだ。即ち「静」と「動」の繋がりが悪く、劇的な緊張が持続していないように感じたのが、その要因である。それも在って、私が同曲で初めて納得したのは、カール・ベームが古巣のドレスデンで録音した独.DGG盤を聴いてからだ。それでも台詞の下手なものとか、台詞だけを役者にやらせているものに不自然さを感じるようになると、返ってその台詞も邪魔に感じるものである。だからこのレコードの良さが解るようになったのは、遂最近の事だ。確かに変な煩わしさは感じない。発想の転換とは、得てして、そう言うものなのだろう。此処から演奏について述べよう。収録年は、1953年の10月13〜17日で、楽友協会の大ホールが会場として使用された。原盤は、英.HMVだ。これは見た通りの国内盤だが、巨匠の没後30周年の記念盤として再発されたものだ。音質は素晴らしい程良好で、たまに楽音以外の音まで聞こえる。楽団は勿論、ウィーン・フィルで合唱は、ウィーン国立歌劇場合唱団である。配役は、(レオノーレ)マルタ・メードル、(フロレスタン)ヴォルフガング・ヴィントガッセン、(ロッコ)ゴットロープ・フリック、(ドン・ピツァロ)オットー・エーデルマン、(ドン・フェルナンド)アルフレート・ペル、(マルツェリーネ)セーナ・ユリナッチ、(ヤキーノ)ルドルフ・ショック、と中々の豪華版だ。序曲は実演のようにはいかないが、とても活力に満ちた演奏で、アコーギクも自然に息づいている。他の作曲家の楽曲だと、あれ程、強引に聴こえるのに不思議なものだ。さりとて終尾句のアレグロ主題のプレストも最初に聴いた時は驚いた。幕が開くとルドルフ・ショックのヤキーノとセーナ・ユリナッチのマルツェリーネの掛け合いが始まるが、ショックの歌唱は少し弱い、此処ではユリナッチの方が安定性の高い名唱を聴かせる。だから次の独唱は聴きものである。四重唱では、フリックのロッコとメードルのレオノーレが加わる。流石にメードルの存在感が凄い。これぞレオノーレである。それに対し、フリックは、奥の控えでもないが、手堅く支える役を得ている。巨匠らしいのは、エーデルマンの歌う詠唱の伴奏の緊迫感だろうか?ドン・ピツァロの燃える復讐心を駆り立てる心の炎を感じる事が出来る。処々で感じるウィーン・フィルの美音も素晴らしい。絶えず伴奏もものを言う。そして第1幕のフィナーレだが、如何にもベートーヴェンらしいと思うか、くどいと感じるかは聴く人次第である。囚人達の道徳心に満ちた合唱も人によっては馬鹿馬鹿しいだろう。だがこんな曲なのだ。国立歌劇場合唱団の男性合唱は美声揃いだ。第2幕は、ヴィントガッセンのフロレスタンの独唱から始まるが、前奏曲の暗い絶望感は、巨匠らしい深い表現だ。だが以前からヴィントガッセンのフロレスタンには異論の声もあるようだ。それは恐らくバイロイトでのヘンデン・テノールの印象が、フロレスタンに結びつかなかったのが原因だろう。しかしながらレオノーレが、マルタ・メードルなれば、釣り合いも取れまい。そうでなければ第13曲の三重唱のバランスが妙なものになっただろう。だからこそエーデルマンのピツァロが加わった次の四重唱での劇的緊張が強い場面でも腰砕けする事なく聴く事が出来る。そこからレオノーレ第3番序曲を経てフィナーレに雪崩込む凄まじさも、この組み合わせならではだろう。終幕の開放感が素晴らしい。久々に聴いたら感動してしまった。斜め見線で聴いていた筈なのに.....

人気ブログランキングへ 

0



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ