ショスタコーヴィチの歌劇《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は、ショスタコ全作品の中でもとりわけ問題作とされているが、何と言いますか、見てみれば納得のクライム・オブ・ビジュアルショック!

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魅惑の男セルゲイ
▼主な登場人物
・カテリーナ…大富豪イズマイロフ家のとこに嫁いだ若妻。
・セルゲイ…イズマイロフ家の若い使用人。好色一代男。
・ジノーヴィ…イズマイロフ家の当主でカテリーナの夫。
・ボリス…ジノーヴィの父で、イズマイロフ家の先代当主。セクハラ担当。
▼あらすじ
カテリーナは地方の富豪イズマイロフ家に嫁いできたけど、仕事で忙しい夫ジノーヴィは単身赴任だし、先代当主の舅ボリスはとんでもないセクハラ親父だった。
うんざりしていたカテリーナのもとへ現れたのは、ワイルドな魅力全開の若い使用人セルゲイ。女中たちの間でもウワサの男。前の奉公先では奥様と不倫したのがバレてクビになったとか、危険な香りがぷんぷんする。
イズマイロフ家で働き始めたセルゲイは、さっそく女中をレイープしてお楽しみなご様子。
やがて、カテリーナのところへも夜這いにやってくる。
一応抵抗するものの、「だめよだめよも好きのうち」なのか2人は結ばれてしまうわけです。
情事の後の帰り道、セルゲイは運悪くボリスと遭遇して不倫がバレてしまう。そこでカテリーナは「毒入りきのこ料理」でボリスをサツガイ!
続いて、突然帰宅してきた夫ジノーヴィもサツガイ!酒蔵に死体を隠します。「最近彼から連絡ないね〜」ということで、夫は失踪したことに。
しかしイズマイロフ家に酒を盗みに入った男が、酒樽からごろんと死体を発見。
あえなく、カテリーナとセルゲイは逮捕されてシベリアに送られることに。
それでもカテリーナのロマンの中ではまあ、禁断の愛を貫いて愛する人と流刑されるならそれもまたよしということなんだが、シベリアへ向かう途中でふと気づいたらセルゲイはもう若い女囚ソニェートカとねんごろになっとる。さすがである。
このソニェートカという女がまた恐ろしいのだが、セルゲイに「あの人の靴下、あたしにちょうだい」と、愛の証としてカテリーナの靴下を要求する。「その靴下を俺にくれ!」と靴下フェチな展開の後、カテリーナはソニェートカを凍える河に突き落としてサツガイ!
自らも入水自殺をして果てます。セルゲイポカーン。
で、他の囚人たちが「俺たちに明日はあるんかのう」とぼやきながら終幕。
▼駄文
なんてひどい話だ。
善人が一人も出てこないどろどろソープオペラ。
いやしかしね、あらすじだけ書くと「こんなの何が面白いんだ、俗物がっ!」なんだが、オペラを見ると非常に面白いわけです。セルゲイへの勘違い愛のためにどこまでも堕ちていくカテリーナの描写が興味深いが、それは決して近年よく言われるような「真実の愛」とか「純愛」とか美化されたものではない。不倫こそロマンス、みたいなものは一切ないし、かといって人間の根源的な愛憎含む情欲についてのオペラかというと、そこまで大そうなものでもない。ようは、カテリーナの死に様のあたりにこの物語の真髄があると思うんだが、カテリーナが殺すのはソニェートカであってセルゲイではない。セルゲイには向かえない。そこに悪女カテリーナの弱さがあるわけです。つまり、どうしようもない矛盾を抱えて、一時のロマンスに身を投じるもその全てを否定されて死んでいく女という。ソニェートカの恐ろしさも、カテリーナと同様のサディスティック・デザイアー。一方で、セルゲイは2人も殺してカテリーナを手に入れたのに、すぐにソニェートカに気持ちが移って、さらにソニェートカが殺されても「ふうん」という感じ。混沌としか言いようがない。これを当時の混乱しきったソビエト社会の風刺だということもできるだろうが、あまり深読みしすぎると、ショスタコを楽しむ妨げともなる。この物語を丸ごと受け取って通して聴いてみると、音楽としての面白さを差し引いて物語だけを追ってみてもなかなか面白い。硬派な俗物とでも言おうか。うむ、それがいい。
このオペラが作られたのは1932年。ショスタコーヴィチ26歳である(うおー)。
枠組みとしては、交響曲第5番以前のもので、前衛的な影響を強く受けた初期作品群の最後のものである。交響曲で言えば2、3番あたりの実験的で挑戦的、野心的な作品を書いていて、壮大で技術的でパワー全開の4番を書いていた頃である。まだスターリンがどうこういう前の作品である。想像にすぎないが、才能豊かでそれゆえにちょっと生意気な若者だったのだろう。
で、この《マクベス夫人》が批判にさらされたことでこの後がらりと制作姿勢を変えていく。大作4番は一時封印、体制を意識した5番にて名誉挽回。もちろん、5番は体制迎合の曲ではないし、最新の研究ではそれこそショスタコーヴィチ自身の不倫をテーマにした部分が含まれていることが指摘されている。ようは、「体制に受け入れられるであろう曲」を書き分けるようになったという意味で、制作姿勢を変化させていったということだ。そう考えると、ショスタコ氏が結婚記念に『マクベス夫人』を妻ニーナに献呈したのは彼の「若さゆえの過ち」による自信の表れなのだろうかと勘ぐってしまう。
音楽的にはこの時期の作品だから、例えばこうイメージすると分かりやいかもしれない。交響曲第4番が2時間続いて、しかも劇と歌がついてくる興奮!ほう、それはすごいじゃないか!という感じ。
深読みをしすぎるよりは、それでいいような気がする。深読みすべきは《カテリーナ・イズマイロヴァ》のほうにあるかもしれない。オーケストレーションの変化は、「ちょっと刺激的すぎたかな」という反省や、R-18指定を回避したいあまりつまんない映画になっちゃったホラー映画みたな感じなのか、それは何とも分からないが、交響曲で言えば第4番のようなストーリー性を持たない巨大な音響音楽が、もう交響曲としては現れなくなってしまったのと関係しているのかもしれない。同時に、刺激的な部分が検閲を恐れて書き換えられたという憶測とはまったく別のところで新しい音楽が加えられていたりと、音楽的にも構成上も更なる進化を遂げているのは事実である。なお、《カテリーナ・イズマイロヴァ》としての復活は交響曲第13番《バビ・ヤール》の次に位置し、弦楽四重奏曲第8番とも作曲年が近い。
ていうか、何で急に《マクベス夫人》かというと、超刺激的な映画版(上の写真はその一部)を最近観たのが原因。次回は映画版について少し書こうと思う。

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