福島県の江戸時代史料に残っている「信達一統志」の渡利邨(村)の地誌には「妙音廟碑」と言うものが載っていて、これを読めば阿武隈川水運の歴史的事情が理解出来る様です。この妙音廟碑は、現在では行方不明で現物は見られない様ですが、幸いにして信達一統志で残っていて存在の確認が出来るのです。碑文を書いた者は江戸の学者「萩生徂徠」で有り例によって、全漢文で句点(。)が無いから読み難いのですが、大意は次の様で有る。
渡辺(名を友意と呼び米沢藩の御用商人)と言う者が、伊奈半左衛門(陸奥代官で忠勝)が陸奥代官の時に、阿武隈川の開鑿(カイサク)を願い出て聞き入れられ、川浚い普請を行った。途中には「猿跳サルハネ」等の難所も有ったが完成した。云々
これを読むと阿武隈川水路の中流は、かなりの難所が多く有り、恐らく岩石も多く、急流も有った様に思われます。これ等の難工事には陸奥代官伊奈氏の助言が有ったかも知れない。いずれにしても渡辺友意の資金と開鑿に対する情熱、及び伊奈氏の援助が有ったのだろう。この様にして、とに角も阿武隈川の中流から河口の仙台市「荒浜」までは船によって繋がったわけです。寛文四年頃(1664年)の話であるが、上中流に使用した舟は「小鵜舟」を使用し、下流では小鵜舟より大きい「平田舟」を使用したと言う。
さて、此処までは阿武隈川の水運なのですが、やがては荒浜から大型船(千石船)に積み込まなければならないが、ここで登場するのが有名な「河村瑞賢」である。河村瑞賢は明暦に起きた江戸の大火災の時に、我家の火の手をかえりみず木曾山に出向き、立木を全て買い取ったと言う機敏な商略の持ち主で、大財産を築いたと言う。江戸幕府は寛文十年(1670年)にこの河村瑞賢に信達地方の城米を江戸に運ぶ事を命じたので有る。
瑞賢は部下と共に奥州に出向き、荒浜の「武者家」に滞在し阿武隈川を検分すると共に、太平洋各地の湊(港)も調査している。すなわち、後に「東廻り海運」と呼ばれた航路の整備と安全輸送の調査で有る。この調査結果は幕府の承認が得られ、これを運用する事に依って、東北地方各地(奥州米)のコメは江戸庶民の口に入り腹を満たしたので有る。
なお瑞賢の開発した航路は、太平洋沿岸に沿って進み、九十九里浜から鹿島などの難所を直接横切り、一旦は神奈川県下田港に入津して、ここから東京湾の品川に着岸した様です。品川からは小舟(艀)で浅草の米蔵に運んだのです。但し、この航路で有ると千葉県銚子市から利根川筋には出ない様に思えるが、以前の様に利根川筋水運は繁盛していたのです。
注
河村瑞賢は「山師」と呼ばれたが、これは木曾の木を買い占めた事に由来するのです。又、瑞賢の大きな事績として、新井白石著の「奥羽海運記」及び「畿内治河記」が有ります。新井白石が未だ駆け出しの頃に、白石の才能を見込んだ瑞賢が自分の娘に大金を添えて婿に望んだと言う。結果は婿にならずに終わったが、これに恩義を感じた白石が、瑞賢の業績を讃える目的で著したと言う。互いに見る目が有った様です。なお新井白石著の「おりたく柴の記」には瑞賢について色々書かれて居るようです。

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