写真は昭和40年代のもので、かっては千石船の荷受け及び荷物の積み出し港で有ったと言われる。名称は「塚原港」と言われる。昭和40年頃には、写真の様に高浪等から海岸を守る為の高い堤防が完成し、白浜も僅かしか残っていない。要するに太平洋の荒波の為に船の陸揚げ等も出来ないし、且つ海水浴等は危険で有るから禁止されている。私が子供の頃は松原が見えて、砂浜も広く海水浴も出来たし、且つポンポン発動機の漁船が数多く見えた漁村であったのです。写真には浜辺に捨てられた?漁船が寂しげで有る。
遠くに見える緑の森の場所が河口(小高川)で有って、江戸時代には、この沖合に千石船が停泊し積荷の積み下ろしをしたと言う。もちろん千石船が近づく事は不可能だから、沖合の千石船には小舟で往復したので有る。
覚日記の安政4年5月17日条には、次の様な記事が見える。
塚原へ「永栄丸」、小浜へ「大神丸」、大礒へ「正栄丸」、蝦へ「小八幡丸」、原釜へ「相生丸」が入津の由。
これらの港(津)は相馬地方沿岸の地名で有るが、ここに塚原港が出てくるのです。但し、小高町史の「交通と運輸」の項には、千石船の寄港には一切触れていない。但し、相馬市史の「奥相志」には、「
郷中の年貢を大船に積み当海より東都に運送せり」と有って千石船が寄港した事が明らかなのです。
この塚原港には米蔵や荷物を保管する倉庫が有ったのですが(少なくても文政頃までは機能していた)、永い間の海波とか地震等によって、現在はその確かな傷跡を見る事が出来ないのです。ここは港としての機能が劣っていても、藩の思惑としては、ここから年貢米を江戸に廻船するのが目的で始まったのだろう。なにせ江戸は百万都市と言われ、その大半は非生産者で有って、米は膨大な量を消費したから、金を生む重要商品では有ったのです。商人達が活躍出来た理由で有ろう。
江戸時代に於ける相馬藩は、行政区分として五つの「郷」に分けたのですが、これらの郷中には、大型船が寄港停泊できる深くて静かな入江(避難停泊)も無く、何れも沖合に停泊した千石船には、小舟で漕ぎ寄せて積み下ろしをしたので有る。天候が悪ければ勿論緊急移動も有ったかと思われるのです。この様な港としては不適合な「塚原の港」で有っても、吉田屋覚日記に依れば、何度か塚原港には千石船の寄港が見られるのです。

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