中国に永い間滞在していると、思想の展開は「実在として見える物」又は「実在に即している物」が好まれる様です。
即ち中国思想の特質は実在尊重になるのです。この実在尊重とは朴実勤勉では有るのですが、空想に乏しく宗教をたてる事が出来ないと言われます。
ここに儒教の発展した理由が有って、儒教は施政者には都合が良く出来ていて、経世学とか政治道徳を尊んだのです。一方中国には、道教とか外来宗教の仏教を取り入れたのです。これらは確かに民間宗教として多くの人々に信仰されたのですが、これらとて皇帝に従属して発展し許容されたものだったのです。皇帝が存在しない現在の中華人民共和国(中国)では、
実在として見えないものや、実在に即しない物等は霧散するに決まっているのです。
現在の中国に残っている信仰は道教と言う事になるだろうが、それは家庭、商店、工場等に見れる「関羽将軍」を祀る赤い祠からの連想で有るだろう。(但し、慈母観音と呼ばれる観音菩薩像の時も有るが、これは道教側が仏教からの取り込みだと言う)関羽将軍は三国志演技(正史の三国史とは異なる)で大衆に人気が有り、その理由とは
「力が強い者の力を借りてお金を儲ける事」に有るのです。又、関羽将軍の得意技は槍刀以外に「算盤」だと言われます。算盤は金勘定には無くてはならないから、中国人にはピッタリと合って(算盤の神様)いるのです。
さて中国の儒教及び道教には三世思想(過去、現在、未来)等は無く、従って未来を考える教理も有りません。これはインドで始まった仏教思想の「現世は幻で有って来世を考える」等の輪廻教理は生まれなかったのです。あくまでも現世を功利的に生きるかを問題にした訳です。
ここでインド仏教の中心を成す「幻」とは、実在しないものが、恰も実在するかの様に見えるのでは無く、無限定とか空想的と言う意味(中国では神通力)になるようです。その「幻」が原動力となって色々な経典(空想的な思想や表現)を生みだしているのです。仏教を真に考えるなら、インドの風土的な環境に生きる必要が有るとは中国人の言葉です。この幻が多くの経典を生みだしたと言う。

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