私など奥州相馬地方(福島県の太平洋沿岸部)に生まれた者は、二宮尊徳を呼ぶ時は「
尊徳先生」と敬称を付けて呼ぶのが普通です。つまり呼び捨てにはしないのです。先生と言うのは「先に生まれた者」を言うらしいが、先に生まれれば、それだけ知恵が有ると認められ、生きて行く為のお手本になれるわけです。
注
中国に行って、目上の人かと思われる時の「呼びかけ」には「先生」と呼ぶのが良いのです。
二宮尊徳(タカノリ)とは、彼が江戸幕府(天保末の水野忠邦)に幕吏(御普請役格)として採用された時からのお名前で、彼自身の署名等を拝見すると、殆どの場合は幼名である「金次郎」を使用していたのです。恐らく、親から貰ったお名前を大切にしていたかも知れません。ここにも儒教の影響が有るのだろう。
二宮尊徳の活躍した場所は、神奈川県小田原は勿論ですが、近世末期の幕藩崩壊期の「北関東地方」であった。現在の栃木県(下野)を中心にし、二宮仕法と呼ばれる農政改革は、更に茨城県西部地方から南西地方に及んでいるのです。
17世紀末〜18世紀初頭にかけての北関東地方の農村荒廃は著しく、
江戸幕府に於ける寛政改革を行っていたのです。この寛政改革とは封建領主的改革で有って、倹約と勧農が主なるもので有った。倹約を強調しますとナニカと不自由ですから、不人気でも有るし景気対策としての効果は疑問の様です。お上から言われないまでも、庶民は常に行っているものです。
さて寛政改革を、具体的に言うなら
「間引きの禁止」、「育児金支給による産児奨励」、「移民政策」、「殖産」、「農民風俗の矯正」、「幕府領への強力なテコ入れ」等々になるだろう。要は、現代に似てなくも無く、人口減少に歯止めをかける事に有ったのです。
人がいなければ「人で無しの国」ですから、政治も必要が無くなるわけです。施しをしないで、取る事を先にした政治は必ず破綻するものです。
二宮尊徳仕法の特徴的な事は、領主的な改革との共通性は有るのですが、農民教化の方法には、
徹底して現地に深く入り込み、具体的で現実性を持った指導をしたのです。先程の寛政改革時の北関東地方の幕藩領には、必ず陣屋を設けて代官を置くことに決めたのです。確かに名代官も多かったのですが、現実的で具体性に欠けるきらいが有ったのです。

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