代官と言うなら、テレビ放映の「水戸黄門」には、弱い者苛めの悪役として登場しますから、イメージとしては良く有りません。テレビの影響は恐ろしいものです。悪代官として何度もくり返し放映されれば、代官とは全て悪代官として焼き付くのです。
然しながら、代官は悪人ばかりと言うわけでも無く、支配地の農民達から、死後には神様に祀られた名代官も居たのです。江戸時代後期になると税の過酷な収奪、疫病(疱瘡)、天災(冷夏、洪水、浅間山噴火等々)等によって農村は死の一歩手前まで追い込まれ、人口は、ほぼ半数まで減少したのです。農村からの逃亡や離脱は、厳しく取り締まったのですが、農村人口は減る一方です。人口の激減は即、税の減少になるのは当たり前です。従って、税を増やす為には、先ず人口増加が急務であったのです。
松平定信は寛政の改革者として有名ですが、この松平定信の信任を得て、疲弊した北関東地方の復興に注力した
名代官(竹垣三右衛門)が居たのです。この竹垣三右衛門は上方方面で代官として実績を残した人で儒者だったようです。松平定信に請われ、上方から関東の代官に赴任したのは、寛政5年(1793年)で53歳だった言う。
支配地(幕領)は常陸国の筑波郡上郷村(現つくば市)の上郷陣屋及び下野国芳賀郡真岡(現真岡市)の真岡陣屋の二ヶ所だった。半月交代で廻り民政を徹底したのです。竹垣代官は、その他に
安房、上総、下総、の幕領にも目配りしたのです。
農村復興の一番に行った事は、「
産児奨励金制度」だったと言う。なにやり平成の現在でも見られる政策ですが、なにしろ人口の増加が無ければ税収は望めませんから、当然では有るのです。平成の現在の一番の問題点は、少子老齢化社会の現出ですが、江戸後期にも起きていたのです。
イ、懐妊と死産
懐妊が分かったら、戸主、親類、組合(五人組)、村役人の連印で役所に届け出る事、又、流産とか死産したときは役人が出張検分し、万一の間引き(赤子の圧殺)等無かったかを確認する。
ロ、養育料の支給
無事出産すれば、生まれた月には一分を支給する。それより毎月ニ朱を5歳まで支給する。
ハ、成人祝い
15歳になったら男子には、鍬、万能(農具)を贈る。女子には「枠シワ」を一挺を贈る。これは農事に励む様にとの指導らしい。
これらの支給には、役人自ら田畑に出向いて直接手渡したと言う。これには、理由が有って直接出向いた時に、風俗の取締りや、田畑の作物の出来具合を検分したり、精励者を賞し、怠ける者は戒める為だと言う。
更には、村の巡回時には弁当を持参して、日帰りとして、村に宿泊する事は無かったと言う。役所で必要な物品は、価格を決めて役所が購入し村人に迷惑を掛らない様に注意したと言われます。
なにやら、現在のお役所とは大いに違う様です。見習って欲しいものですが、現在の民主党政権では恐らく無理でしょう。円高が進んでいると言うのに、総理は夏休み中で別荘で涼んでいると言う。悪代官では無く悪総理ですね。

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