自動車の無い時代にそんな馬鹿なと思われるでしょうが江戸の町にも有ったのです。この場合の車とは牛車や大八車で有ったし水路を利用した舟も対象とされた。江戸の町は家康が開府したので有り有る程度の計画に基づき町つくりをしたのだが消費都市として人口が膨張すると共にインフラが追いつかない。従って猥雑な都市になっていったのですが火事や水害等の災害が起きるたびに災害に強い町つくりをしたので有った。例証するなら関東大震災や東京大空襲の後には生まれ変わった事でも理解出来るだろう。
東京都が刊行した東京市史稿災害篇等も読めば、例えば明暦昔物語では
されば諸人あわて騒ぎ足を空にして逃げ惑う有様、道具を運び、財宝に心を惹かされ佇むまに、飛び火やって来て是に燃え付き、爰にて命を捨てるも有り、又は妻子の手を引き、更に老いたる親を背中におぶり逃れんとする道に、車、長持、畳を積み上げたれば、走るもならず大勢に押倒され、踏み殺される者有り、、つまり道路が狭く物が散乱してて逃げる事が出来なかったのが死者の多く出た原因らしい。後には財宝は穴に隠す知恵も出たらしくその様な記事も見られます。
これを教訓として道を拡幅したり延焼防止の空き地を作ったり屋根瓦にしたり火消し組を作ったり色々と対策をとっている。火事の原因としてはナラズ者の火付け放火等が多かった様です。大岡越前守が江戸町奉行(東京都知事及び検察庁長官)となった時にはこの事態を憂慮し色々な対策を立てている。
さて駐車違反の方で有るが江戸の町には水路が有って運搬路として計画されていたが将軍吉宗の頃には大八車の数が2000台以上になったと言われる。狭い道路に人力車や牛車や騎馬等が往来していたのでは子供や老人には安全では無い。特にこれらを道路に放置したのでは往来には邪魔で有る。宝永5年(1708年)には町触れを出してこれを禁止する旨を出している。しかしこんなお触れではいっこうに効き目が無いのは今と同じで次はこれらの持ち主(雇い主)まで拡げて罰則を強化している。恐らく問屋とか大きな商家等の丁稚小僧さんでは責任能力は不足だと思ったのだろう。これは全く現在と同じでは無いのか。
さらに驚くべきは交通事故は偶発的(故意では無いから)で有って死亡事故などで有っても刑罰が無かったので有るが享保元年(1716年)になると交通事故が起きた時は本人と雇い主に対して重罪をもって臨んでいる。死亡事故は子供の飛び出し等で車同士に挟まれたり車に轢かれたりする場合が多かった様で有る。大八車に荷物を積んだ時は一人では引けず複数の人がいたらしく事故の判決文を見ると子供が大怪我した場合に車引き6名は遠島で雇い主は罰金刑を受けている。
道路は広ければ良いと言うものでは無い。その例を現在中国で見てみれば古い町並を片っ端から取り壊し新しい町つくりを行っていて道路も片側3車線にしたのは良いが車は信号無視でビュンビュン飛ばして来る。子供や老人の足では横断途中で信号が変わってしまうから怖くて向こう側に渡れない。こんな事も有る。私は日本人だから信号が緑になるまで待っているが中国人は車が来なければ赤でも渡ってしまう。緑に変わっても信号無視した車が来るから私は渡れない。このような具合で有るから私は永久に横断は出来ないのである。翌日怒って中国人に言ったら皆と一緒に渡れば事故は無いよと一蹴された。死なずに帰国出来たのは幸運で有った。

0