忘れられた文化財として「力石(チカライシ)」が有って、その力石とは「労働を人力に頼る時代に、労働者の間に発生した力比べや体力の鍛錬を目的とした石」と言う事になるだろう。従って、日本の歴史上には早くから力石の存在が知られ、既に鎌倉時代末期(16世紀)には見られると言う。
戦前の農村地帯の若者達の話題と言うなら、我家の「馬自慢」か「村娘の品評」だったと言う。村娘の歓心をいる為には「米俵(16貫、60kg)を軽々と持ち上げる必要が有る」のです。この程度の重量を担ぎ挙げないと、村一番の美人は手に入ら無いのです。ここに日々の鍛錬が必要なわけで、力石の存在が有ったわけです。
↑は、茨城県常総市森下町内に有る「森下観音堂」で、写真の右下には2個の力石が見られます。更には、門前だと思われる個所にも1個放置されています。
↑は、観音堂ですが、往古は由緒有る真言宗智山派の古刹だったらしい。
↑は、この森下観音堂敷地内に有る「石仏や石碑」群です。これらの石仏や石碑は、町内の主要な場所に有ったのを一か所に集中させたのです。
↑は、銘が見られる力石です。安政年間と見られ「四拾弐貫〆余」で当所等と読めます。尚、石が緑色してますが、私が表面を清掃した為です。
力石の寸法は、長さ60Cm、縦40Cm,高さ約40Cm
↑は、往古は門前だと思われる場所に見られる力石ですが、銘は有りません。立派な力石では御座います。
力石の寸法は、長さ65Cm、縦65Cm、高さ約30Cm
↑は、上記の「森下観音堂再建、墓地改修記念碑」の直ぐ近くの力石です。
力石の寸法は、長さ50Cm,縦50Cm、高さ30Cm
↑は、板状の「馬頭観音像」の説明文(創建)だったのかもしれません。上下が欠けるので、詳細は知りません。恐らく「馬方さん達の組合(中)」が有ったのだろう。
ここ茨城県常総市(旧水海道町)は、鬼怒川の水運で繁栄した町だった。水海道河岸までには、後背地の物資輸送の為には多勢の「馬方さん達」が居たに違え無いのです。馬の背に載せるとか降ろすには、力の必要な作業だったに違えない。力石が見られる所以だろう。
尚、力石の競技場は、この森下観音堂の広場を利用したものと思われます。ナゼ力石が放置されたのか、理由は知りません
尚、上記は「茨城.栃木の力石 著者:高島慎助」を参考にした。
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