↑は、茨城県南西部に流れる「鬼怒川」に架橋された「豊水橋」と呼ばれ、常総市(旧水海道町)と坂東市(旧岩井町)を結ぶ鉄橋です。鬼怒川の水源は栃木県の山中に有って、現在は上流にダムが出来て豊水とは言えません。然しながら、かっての鬼怒川には豊かな水が流れ、河岸が有り高瀬舟が輻輳したのです。時期は大正時代迄で、江戸への交通路として物資や人の移動に活躍したのです。河岸は、写真の右方の方に有って、
今は「水海道河岸跡」の標識でのみ知る事が出来るようです。水海道河岸の後背地は広く、かっては筑波山の麓辺まで有ったらしい。商家が立ち並び、運搬には馬方さんや高瀬舟の船頭さん達で賑わったに違えない。やがては鉄道の開通(常総線)と共に、河岸が廃れて行ったのは時代の変遷だろう。
↑は、この水海道橋本町の中心部に建つ「八幡宮」です。坂上田村麻呂を祖とする田村弾正(戦国期)の守護神だったと言う。江戸期(延宝)に成って、この町を隆盛に導いた村民達が再建したらしい。神前は、いつも綺麗に清掃され清冽です。
↑は、この八幡宮本殿の奥方に、4個の力石を見る事が出来ます。
さて常総市(旧水海道)だが、この地域には路傍の石ころ一つ産し無いのです。全ての石は、何処からかこの地に運んで来たものです。多くの墓石しかり、石仏しかりです。お屋敷に見える、立派な石垣の石も又しかりです。勿論だが、この力石に「お生まれはどこですか?」と聞いても答えてはくれません。
注
茨城.栃木の力石、高島慎助著、岩田書院刊、2008年
私は地質学者では無く、石材の名や性質を知りません。力石として利用するためには、それに適した石が有るに違えない。もしも、この力石の故郷が分かれば、力石を神社に奉納した理由、目的、時期等が分かるに違えないのです。力石への刻銘は「奉納 五十メ 中妻 音吉」と見えます。メは貫の意味です。ここで中妻とは、現常総市内の地域名で、音吉と言うのはお名前なのだろう。他の力石には、やはり亀興、治助等のお名前が確認できます。奉納者は現常総市の者で、恐らく水海道河岸に関係した船問屋、高瀬舟の船頭さん、馬方さんなのだろうか。又、この石たちの故郷は、江戸の町からでは無く、高瀬舟に乗って鬼怒川の奥地から運ばれて来たのだろう。鬼怒川には「筏流し」が有って、筏には石を積んだと言のを聞いた事が有ります。それにしても、令和の現在では、夥しい石がみられるのです。貴方達は、何処から来たのですか?
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