日本歴史と雑事記録

外来文化の伝播に主導的役割をしたのは、日本人で有って、それは単なる借用文化では有りません。必要とするものを取捨選択して受け入れ、消化摂取して、日本化させ日本文化を発展したのです。つまり、日本文化と言うものは日本独自で有るのです。
                

 

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投稿者:半杭正幸
ゆもぶー様
早速に「古代の河川跡」の著書を紹介頂き有難うございました。早速に購入し読んでみたいと思っています。あの辺の将門時代は「乱流地帯」で、さらに湖沼等も多かったのですね。将門の岩井等も俯瞰すれば河川や湖沼に囲まれていて、恐らく守りに易い場所だった様です。
投稿者:ゆもぷー
 堀 淳一氏が八千代町川西地区の旧鬼怒川河川跡を地図と写真、現地踏破で紹介していた記事はJTBから出版されておりました
http://item.rakuten.co.jp/book/1399764/
 八町観音−袋−八千代東中の北側−野爪が載っております。
投稿者:半杭正幸
ゆも様へ
月刊「旅」に載っていたのでしょうか。私は永らく日本を離れていましたので、ここ16年間位の日本事情には疎いのです。貴重な情報を頂き誠に有難うございました。鬼怒川は暴れ川だったのですね。千代川村(現在下妻市)の役所裏手に将門の鎌庭跡碑や宗道河岸跡等が見られますが、鬼怒川の河道は変化しているのですね。今後とも宜しくお願い致します。
投稿者:ゆも
現在の鬼怒川は奈良時代開削されており、将門時代にはの川西地区−常陸国旧真壁郡川西村−の国境沿いに大きく曲がっていた河道は、現在と同じコースになっていました。
 「鬼怒川」河道跡は北大理学部名誉教授 堀淳一氏が 月刊「旅」に「古代の河川跡」と題した紀行・写真を1998年ごろ掲載されたことがあります。
投稿者:半杭正幸
ご丁寧なご指摘ご指導を頂き誠に有難う御座いました。香取は鹿島の間違えでした。あの辺の地域に行きますと一面は田園地帯で有って鬼怒川に近く、鎌輪にも近いし又、筑波山も見えて将門時代を彷彿させる様です。しかしながら現在の鬼怒川の流路と将門時代の流路はかなり異なるのですね。よそ者には、あの辺の歴史的地理を理解するには難しい様です。なお野爪説を主張した者には幸田露伴、吉川英治、海音寺潮五郎等の様です。
投稿者:下妻温泉
 管理人様。実は「バンソウコウ大臣」のリベラル祖父の赤城宗徳氏と、私の祖父は旧制下妻中学の同級生でした。
 さて「野本」考ですが、・・
 誤)旧結城郡千代川村では「野爪」説→正)結城郡八千代町野爪、 もしくは合併前なら 真壁郡川西村野爪が 正しい名称です。
 ムラの鎮守の鹿島神社鳥居前には 親戚の湯本直 八千代町町会議員寄贈の「古戦場碑文」ありますが、この土地に生まれ育ったものとしては、明野の赤浜の方が「古戦場」にふさわしい、と考えます。
 まず、すでに奈良時代に「川曲郷」を迂回していた鬼怒川は大土木工事にて、現在の河道に開削変更になっており、野戦をするような場所が見あたらないこと。

南北朝時代の「常陸合戦」で 八千代町沼森の鷺神社に砦、八町にも砦が築かれ、対岸の「駒城」−下妻市−攻略戦で当地が戦場になり、神社が炎上した記録はありますが、これは「外堀」ともなっている鬼怒川に西側から陣立てのもと攻撃し、長期戦になったことはありますが・・。
 また隣接する坪井部落〜駒城橋の鬼怒川に浅瀬はなく、有名な「つり場」になっていること・・

現地にすめば、野本は野爪ではないことは理解できます。鹿島神社にどちらかが陣をしき、夜襲に近い形で渡河を船等ですれば、戦になるかもしれませんがね・・
 現在 神社北側に道路より低い田圃が広がっておりますが、明治期に鬼怒川の堤防を堅固にするために土が足らず、採取した跡・・と祖父は申しておりました。その土を軽便鉄道が堤防沿いに敷設され建設が進んだらしいです。
 もし、本当に野爪で「合戦」が行われたとするなら、鹿島神社〜坪井の間でしか想定できません。これはなんとも考えにくいです
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