栃木県の山奥を水源とする茨城県の平野部を流れる鬼怒川は暴れ川で有った様です。その流路は何度か人口的に手が加えられて、現在の様な姿になったのだろう。江戸時代になると坂東太郎と呼ばれる利根川とつながった事によって、江戸町民の台所の一端を担う役割を演じたのです。鬼怒川と利根川がつながったのは寛永年間(1624年頃)で、以後利根水系に組み込まれ重要な水上交通路になったのです。
湖沼や河川の傍に作られた「舟付き場」で、物資の積み下ろしや、人々の乗り降りが出来、経済的に発展した場所を「河岸」と呼んでいる。鬼怒川にはいくつかの河岸が有って、その河岸はやがて経済的な発展が見られ、富豪と言われる者達が育って来たのです。物が移動する場所には人が集まってくるらしく、河岸には抜け目なく近江商人もいたらしい。
いま茨城県内の利根水系に発展した商業都市の市史を読むと、水運を利用した廻船業者が居て、彼らは経済的な成功者としては勿論、文化の移入者としても活躍しているのです。一般的な傾向としては、河岸の有った場所には、経済的な発展と共に文化の発展が見られる様です。それらは江戸中期に始まったのですが、平成の現在では、一部の地域を除き「シャッター通り」等とも呼ばれ街角には人影も見られません。
さて人と物資の移動には必ず文化の交流が見られるのだが、この町に文化(文芸)が到来した最初は「漢詩」であった様です。それに続いたのが「俳句」で有り「狂歌」で有った。これらは有力者の旦那方の遊びで始まったとしても、必ず先生を必要とするから普通は江戸で学んだ者が、舟で当地にやって来て師匠となった様です。漢詩にしろ俳句や狂歌にしても、多くの庶民が参加し詠った様です。それらが纏められ刊行されているのですが、この様な事実は日本ばかりかも知れない。日本人の学問好きには驚かせれるのです。
中国清朝時代のある限られた地域(華南)の史書を読ん事が有るが、庶民生活に学問が入って来た事は無い様です。中国が日本に後れをとった大きな理由かも知れない。
天明期頃には寺子屋も出来、そこで教えたのは「苗字尽し」、「請取文」、「送り状」、「手紙文」、「商売往来」、「消息往来」、「庭訓往来」等の実用的な事がら、及び「童子教」、「三字教」等の字の練習等で有った。倫理道徳では四書五経の素読とか音読で習った様です。
いずれにしても、利根川水系とは物と文化を運んだ重要な交通路では有ったのです。もちろん舟は高瀬舟と言われる帆船で有ったのですが、これは「
風帆収尽日将暮」の漢詩の一節でも知れるだろう。

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