2013/4/27

稲庭城  旅行・観光

稲庭城は、百足退治伝説で知られる藤原秀郷を祖と仰ぐ下野国都賀郡小野寺郷出自の小野寺氏の居城で、中世の秋田南部を支配しました。
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1190(建久元)年、小野寺2代道綱が源頼朝より雄勝郡の地頭職に任じられ、道綱の四男重道を雄勝郡に派遣させ統治させました。 重道の孫経道は建久年間に雄勝郡に入り稲庭城を築いたとされています。

経道の嫡子忠道に稲庭城を継がせ、次子道直を西馬音内城、三子道定を湯沢城に配置して支配を強化。 忠道の子道有の代には「雄勝・平鹿・仙北三郡の庄主」と称されるようになります。 小野寺氏の勢力が拡大するに従い、次第に支配拠点を平鹿地方へ移す必要があり、そのため1300(正安2)年、道有は平鹿の沼館城に重臣落合氏を配置、その後16世紀前半頃12代稙道が居城を沼館城に移し、稲庭城は稙道の弟である晴道が城主となります。
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その後、小野寺氏は居城を横手城に移しますが、稲庭城は小野寺氏の有力な城として存在します。 1590(天正18)年、豊臣秀吉によって奥羽仕置による検地が行われた折、小野寺14代義道の上洛中に仙北地方で一揆が起こり、その処分として小野寺氏は所領を3分の2に減封、召し上げられた領地の代官に最上義光が任じられた。 それに乗じ1595(文禄4)年、最上義光は雄勝郡を領有すべく小野寺領に進攻、湯沢城・岩崎城を侵略。
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翌年、ついに稲庭城も最上氏の侵攻を受け、包囲されるに至ります。 城主小野寺道勝は必死に防戦するも、稲庭城は落城、道勝は辛くも落ち延びますが、稲庭城は廃城となります。
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