2015/9/5

竹田城  旅行・観光

築城時期は不明点が多く、室町時代1431年(永享3年)に丹波国、播磨竹田に山名持豊(宗全)が「安井ノ城」を築き、太田垣光景が初代城主に任じられたようです。
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但馬の山名氏と播磨の赤松氏の争いが度々おこり、1441年(嘉吉元年)6月、6代将軍足利義教が赤松満祐に暗殺され、幕府より宗全に赤松氏追討令が下り、宗全軍は播磨城山城にいる満祐を滅ぼします。

1467年(応仁元年)、細川勝元と山名宗全の争いから応仁の乱が起こり、但馬は細川氏と山名氏の争いの場となります。

応仁の乱後も宗全の孫山名政豊と赤松政則が播磨などを巡り抗争が続き、赤松氏は次第に勢力を盛り返して山名軍を追放することになります。

出雲の戦国大名・尼子氏と同盟していた山名祐豊(誠豊の甥)に対し、毛利元就は織田信長に但馬出兵を求め、これに応じた信長は木下秀吉軍2万を派兵、山名祐豊は堺に亡命するも一千貫を礼銭として信長に献納し但馬復帰を許されます。
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この時竹田城には山名祐豊の重臣太田垣輝延が城主として留まったようです。

1573年(天正元年)、毛利軍が出雲、伯耆、因幡に進軍し尼子軍を破り但馬に迫り、太田垣輝延は毛利軍に降伏、1575年(天正3年)山名祐豊は吉川元春に誓紙を送り芸但同盟が成立します。

しかしながら、丹波の赤鬼こと荻野直正が同年10月に竹田城を占拠すると、山名祐豊は信長に救援を求めます。 信長は明智光秀を送って丹波制圧を開始し、荻野直正は黒井城に撤退します。 やがて信長と毛利氏が対立すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣します。

1577年(天正5年)、羽柴軍は生野銀山確保を目指し、羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍、生野銀山を管轄する竹田城を攻城します。

羽柴秀吉は秀長の武将である桑山重晴を竹田城主に命じます。 桑山重晴は和歌山城に転封、秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が竹田城主となり、赤松広秀により竹田城が現在の形となります。
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赤松広秀は関ヶ原の戦いで西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めますが西軍は敗退。

東軍の亀井茲矩の誘いに応じ鳥取城を落城させるも、徳川家康に城下の大火の責められ鳥取真教寺にて切腹。 竹田城には、家康の命により山名豊国が受取り入城。 その後江戸幕府により竹田城は廃城となります。
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