2015/9/5

福知山城  旅行・観光

福知山城は源頼朝挙兵の際、功績のあった小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、室町期に八幡山の脇に掻上(かきあげ)城を築城したのが始まりとされています。
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頼勝は後に姓を横山と改め、嫡男信房の代に横山城となります。
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織田信長の命をうけて西進していた明智光秀は丹波国征討戦を開始、これに敵対した赤井直正・波多野秀治連合軍に塩見信房は加担。
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赤井・波多野連合軍は一時明智軍を撃退しますが、赤井直正が1578年(天正6年)3月に病死、波多野秀治の八上城が翌年6月に落城、赤井直正の黒井城も同年8月に落城します。
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光秀が丹波国征討戦に際して気づいた金山城の矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らに加え、四王天政春、林半四郎らが加わって横山城を攻め、塩見信房と弟塩見信勝は共に防戦しますが自刃します。
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この後、猪ノ崎城の城主塩見利勝は城に火を放ち、落ち延びている途中、林半四郎らにより討ち取られます。 これにより福山地方の国人衆は明智光秀に降伏し福知山平定と成りました。
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明智光秀は丹波国を平定し、横山城を福智山城と改名、近世城郭へ大修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置きます。
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1582年(天正10年)6月、本能寺の変で明智秀満は本能寺を襲撃の先鋒となり武功を立てますが、秀満は山崎の戦いで敗北し安土城にて自害。
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福智山城の留守居役となっていた秀満の父光安が豊臣秀吉軍により捕えられ京において処刑されます。
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福知山城は丹波亀山城の豊臣秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったが病没、小野木重勝が城主となった。豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍の細川幽斎、細川忠興親子の守る田辺城を攻めます。
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この時細川忠興は関東に出陣中であり、留守居役の細川幽斎が和議をとりつけます。 関ヶ原の戦いの後、細川忠興は徳川家康の許しを得て福知山城を攻め、小野木重勝は切腹します。
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関ヶ原の戦いの論功により福知山城には有馬豊氏が入城。 山陰道を押える要衝地にあるこの城を豊氏は近世城郭として大改修を行い、現在の城郭や城下町はこの時代に完成します。
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1620年(元和6年)、豊氏は久留米藩に加増転封。 翌年、亀山城から移封となった岡部長盛が3年で大垣藩に転封する以降は、短期で城主が転々とします。
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1669年(寛文9年)土浦城の朽木稙昌が入城し、幕末に至るまで朽木氏が13代世襲しました。
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