2010/9/29

岩崎城  旅行・観光

岩崎城の正確な築城年代は不明ですが、織田信秀(信長の父)の支城であったと伝えられています。
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1529年(享禄2年)三河国岡崎城主の松平清康(家康の祖父)が、尾張国攻略の足がかに荒川頼宗が守る岩崎城を兵七千を率いて攻め落とします。
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しかし1535年(天文4年)清康が家臣の阿部正豊に暗殺されると松平勢は岩崎城から後退、案内役であった本郷城の丹羽氏清が移り住みました。
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1551年(天文20年)、丹羽氏清・氏識親子に対し、一族の藤島城主丹羽氏秀が「横山の戦い」を仕掛けます。
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氏秀は織田信長に援軍を求めますが、信長軍の進軍を待ち伏せしていた岩崎丹羽軍が急襲して信長軍は敗退、氏秀親子は三河へ逃げ延びたと言われていますが、この戦いの真偽のほどは定かではありません。
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1584年(天正12年)、信長亡き後を仕切る羽柴秀吉と、それを面白く思わない信長の次男織田信雄と徳川家康による「小牧・長久手の戦い」が起き、緒戦では膠着状態が続きます。
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秀吉は両軍の膠着状態を打ち破るため、家康の本拠三河岡崎城を攻める「中入(なかいり)」作戦を実行します。 これについては2010年9月22日の記事「長久手古戦場公園」を参照下さい。
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岩崎城の当主丹羽氏次は家康軍に参戦していて、岩崎城は当時十六歳の痘瘡(天然痘)を患う弟氏重が守備していました。 氏重は、秀吉軍池田恒興の三河奇襲部隊が城前を通過すると「見過ごすは末代までの恥」と二百兵で出撃、池田軍の攻城隊を三度に渡り撃退します。
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第二軍の森長可隊の銃撃に怯んだ隙に討ち取られます。 丹羽氏次は弟を失いますが家康からの信頼を得て、その後の戦いにも多くの功績を挙げ、三河国伊保(現愛知県豊田市)一万石の大名となり、岩崎城は廃城となります。

岩崎城は戦国中期なので空堀跡は本物の様ですが、現在建っている模擬城のような立派な城は存在せず、勝手に造ったなんちゃって城なのです。
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発掘調査時に本丸の一部で円墳が見つかっています。
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