2020/12/1

ZK『7』コンプリートライブ at Shibuya  音楽
 昨日はZK『7』コンプリートライブということで渋谷に行って来た。BRAINPOLICE Unionという後ろを固める若者たちのそれぞれに特色あるユニット三つの演奏のあとで、90年のアルバムの楽曲を収録順に演奏。纏めて聞くのは久しぶりだが、緊張感溢れる「腐った卵」――しかし、このトシのドラムとの掛け合いを人は何と呼ぶのだろうか――に始まり、若者たちが登場して「Blood Blood Blood」以下、煽動的な、そして、昭和天皇の病気・死・自粛をも引きずるような激しい曲の後、瑞々しい「Quiet Riot」を挟んで、アルバムラストの「万物流転」へ向けて流れ込んでいく。今回気付いたのは、前半の怒りに満ちた激しい楽曲と後半の楽曲の不均衡で、前半の何と言うのだろう、日本の元祖パンクと言われることになる第一期ZKをヴァージョンアップしたような、しかし、ハードコアパンクとも異なる独特な激しさと、後半のティラノザウルス・レックスやT.REXを思わせる可憐で華麗な色っぽさの不均衡。『7』は第一期ZKをパンタの趣味をもとにもう一度再武装したものであるかのようだ。「万物流転」が(ときにメドレーで歌われるように)「ユニコーン」の本歌取りの側面を持つことは明らかだが、聞いているうちに、年老いたマーク・ボランとミッキー・フィンの側に20代のマーク・ボランがエレキ・ギターを抱えて降臨してきたような幻想を見た。(本当は、隣にいたのは「6000光年の誘惑」からゲスト参加した秋間経夫だったが。)アンコールでは、最近、全国で順次公開中の映画のエンド・ロールとして流れた「絶景かな」。CDや今までのライブで聞いたときにはそれほど心打たれなかったが、「万物流転」と(インターヴァルを挟み、自らの出自たる日本の影のものの世界を歌った「乱破者」と)続けて聞くと、悠久な時間の流れの中、日本神話を貴種流離譚の英雄よろしく彷徨ったパンタが、今回は飛翔し、天翔る先において未来まで見通して世界を肯定する地点にまで至ったのか、という感慨をもった(もともと、歴史から飛び出せ、と歌って来たのではあるが)。こういった企画のときには本気になるパンタらしく、MCも殆どなく圧倒的な密度の一時間。クリックすると元のサイズで表示します
0

2020/11/12

譲り渡すことが出来ないこと  哲学
東京大学文学部
第3回「文学部ラボ:学問と社会の現在とこれからを考える」07/11/20
前半の報告原稿

 二回の文学部ラボを受けて、まずは、学術会議問題に関して私の基本的な考えを、これまでの話題と若干関係づける仕方で述べておきたいと思います。院生・学生の皆さんから頂いた質問や感想の中で、とくに印象に残った点が二点あります。一つは、人文系の学問が役に立つのかという問題に対する強迫症とでもいうべき反応です。もう一つは、早くもネガティヴな効果が現れているというべきでしょうか、この事態を受けて不安を感じ始めている院生・学生の皆さんが少なからずいるという事実です。後者に関しては、そのような不安を払拭する、あるいはそのような不安をもたらす政府の振る舞いに抗することこそが本文学部ラボの目的の一つであるのですから、これに対して直接に応答する必要はないでしょう。考察すべきは一つ目の役に立つか問題です。私は、この件に関してこれまで直接的に意見を言うことを控えてきましたので、ここで簡単に態度表明をしておきたいと思います。
 この点に関しては、根本に立ち戻って、譲ることの出来ない幾つかの論点を確認する必要があります。まずこのような強迫的な問いないしは問いが強迫的に回帰してくることの理由を現実に即して確認しておく必要があります。このような問い、但し、人文系の学問というよりは文学に関するものですが、その問いは、かつては異なった文脈の中で立てられてきました。今や懐かしいと言っていいと思いますが、文学と政治をめぐる議論、それも主に左翼の側において立てられた問いでした。その象徴となるのはサルトルが或るインタヴューにおいて提起した「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」(1964年)という問いです。これに対して、サルトルは自らの著作「『嘔吐』は無力である」と答えるのですが、若き大江健三郎をも巻き込んだこの議論の詳細をここで辿る必要はないでしょう。しかしながら、このような問いが或る種の文学者たちにとって切迫した問いであったことは事実です。これに対して、若い学生の皆さんが強迫的と言っていい仕方で抱かざるを得ない問いは、全く異なる文脈の中で提起されました。その象徴となるのは、2015年6月に文部科学省から通知された文書にある「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については[…]組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」(「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」)という文言に集約されている文学部不要論です。――これに関しては、次にお話しされる大宮さんが独文学会会長であったときに他の外国文学系の三学会と共に声明を出されていますが――後に、文科省はこの通知に一定の修正、すなわち、教員養成系の学部・大学院のうち、特に「新課程」と呼ばれる教育学部の課程を廃止することに限定するという修正を加えたようですから(「新時代を見据えた国立大学改革」2015年9月)、文科省が文学部不要論を唱えたということは必ずしもいうことは出来ませんが、その背景に、或る経営コンサルタントによる、グローバルに通用する高度なプロフェッショナル人材を養成する「G(グローバル)型大学」と、生産性向上に向けた働き手を育てる「L(ローカル)型大学」への大学の二分化の提案があり、また、この提案が突きつける問い、「シェークスピアより、観光業で必要となる英語を」という言葉に象徴される問いが絶えず回帰しているわけです。英語を学ぶことが観光業に役に立つのに対して、シェークスピアを学ぶことが一体役に立つのか、という問い、――この問いの固有名詞は入れ替え可能――こういった強迫的な問いに巻き込まれて反応せざるを得ない状況に置かれてしまっている。この無学なとも呼びたくなる経営コンサルタントの提案の是非――そもそも、これは大学の二分化ではなく、日本の大学の殆どを専門学校化せよという提案ですからカテゴリー・ミステイクに満ちているわけですが――に関しては、ここでは論じませんが、次の二点に留意することが重要です。
 まず、この問いは、かつての政治と文学をめぐる論争とは異なって、当事者の側から発せられたものではなく、外部から発せられたものであるということに注意しなければなりません。問いは外側から発せられ、私たちはあたかもその問いに応答しなければならないかのように振る舞ってしまう。あたかも問いの主導権が向こう側にあるかのように、その問いに規定され、その問いのフレームの中で答えざるを得ない。もちろん、大学が文科省という行政組織の管轄下にある以上はこういった問いが私たちにとって無縁であるわけではありませんが、問いの主導権を外部の経営コンサルタントに委ねる必要はありません。たとえ問いが向こう側から投げ掛けられたとしても、その問いそのものを吟味し、問いそのものを捉え返す必要があります。このような問いの土俵に乗ってしまった途端、私たちは役に立つこと/役に立たないことといった二分法に絡め取られ、その枠の中でしか思考せざるを得なくなります。そうすると、この問いに対する応答自体が限られたものとなってしまいます。応答は、人文系の学問は、すぐには役に立たないが長い目で見ると役に立つとするか、役に立たないことにも意味はある、といったいずれかのものに帰着するでしょう。私たちは問いの主導権を当事者として取り戻さねばなりません。役に立つとはそもそもどういうことか、まさにこのことを問うことこそが人文系の学問の役割なのですから。(この点、行為の目的連関という主題に関してではあるが、基本文献はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』であり、また、同書をもとにした透徹した分析として例えば、次がある。加藤信朗「何かのために」と「誰かのために」――目的の構造」『哲学の道 初期哲学論集』創文社1997年、所収。)この論文において、「〜のため」にという行為の連関について、「何かのために」という技術的連関と「誰かのために」という価値を生み出す連関とを峻別すること、そして、学問の研究の目的が、有用性(=「役に立つこと」)とは異なる「楽しさ」・「快さ」と「立派さ」・「すばらしさ」・「美しさ」という動機があげられていることは示唆的でしょう*。広く言って大学の学問の意義をこのような考察のもとで考えた場合、大学の学問の教育・研究双方における「何のために」は、「何かのために」とともに「誰かのために」という二つの異なる視点のもとに考察されねばなりませんし、また、有用性(=「役に立つこと」)とは異なる「楽しさ」・「快さ」と「立派さ」・「すばらしさ」・「美しさ」とを学問研究の目的・動機として捉えるなら、役に立つ/役に立たないという二分法が事の本質を考えるに際してあまりに狭隘なものであることは明らかではないでしょうか。とりわけても人文系の学問は、そのような学問の楽しさと立派さ・すばらしさ・美しさをまずもって教授し体現するものなのです。この点を揺るがせにしてはなりません。そしてまた、蛸壺化したと言われることの多い個々の学問の意義を学問全体や生との連関において考えるということも、役に立つ/役に立たないという矮小化された問いの土俵の上で考察されるべきものではなく、「何かのため」と「誰かのため」という行為の目的連関という枠組みの中で捉え返されるべきものです。もちろん、このことは有用性ないしは狭い意味で役に立つことを過小評価するものではありません。全回のラボで藤原さんが述べておられたことを私なりに引き取るなら、両者がともに重要であるということに他なりません。以上の点は、工学系の学問ですら有する特質ですし、また、数学や芸術の存在意義を考えただけで了解可能な事柄でしょう。
*「選択の対象には三つある。[…]それらは美しいものと役に立つものと快いものである。」(『ニコマコス倫理学』第二巻第三章、1104b30-32、加藤信朗訳)
 次いで、このような問いが出されるに至った社会経済的な背景と大学の置かれた現状をも念頭に置かねばなりません。大学史の専門家でない私がこのことについて何を語ることには躊躇いも覚えますが、要点は二つであると思われます。月並みな言い方になりますが、グローバル経済の進展の中、人的かつ経済的資源をそれこそ有効活用することが大学に対しても求められ、また、これは特に同僚の小松美彦教授が強調しておられることですが、「経済発展のために、科学技術を国家の統制下に置くことが図られ」――それが実現したのが本年6月17日に密かに可決成立した「科学技術・イノベーション基本法」――、そこにおいては「人文科学」をもその統制下に置こうとする、ということは、科学技術やイノベーション創出には役立たないものを切り捨てていこうとする、つまりは人文科学をも含めた「学術の総動員体制」が現実化しつつあります。他方、大学に関しては、これと連動するようにして先の文科大臣による通達があったわけですが、大学の役割の歴史的変遷ということをより長いタイムスパンにおいて考えた場合には、ことはそう単純ではありません。中世以来の伝統的な大学(=第一世代の大学)、フンボルトの理念によるベルリン大学をモデルとする国民国家の時代における近代的な大学(=第二世代の大学)の設立とその後の学問研究の制度化を受けて、現在の(日本の)大学が有している過渡的な性格を考えた場合、現在の大学に対する圧力をどのように評価するかは難しいところです。「廃墟のなかの大学」(ビル・レディングス)へのグローバリゼーションの只中における国民国家による復古的な統制を意味するものとして一応は評価することが出来るでしょうが、それに対して「第三世代の大学」(蓮實重彦)をどのように構想するかすらまだ定まってはいないのです。私自身は、長い目で見るなら、Jリーグのようなサポーター制を導入するしかない、とこれは真面目に考えますが、素人の夢物語のようなものに過ぎないのかも知れません。
 いずれにせよ、役に立つ/役に立たないという二分法、そして、グローバリゼーションの只中における国民国家による復古的な統制という現状において、学問の存立基盤が崩されるという危機の時代に位置しているということだけは確かであると考えます。そして、そのような状況を示す先鋭的な出来事として今回の学術会議問題もまた位置づけることが出来るわけです。このような事態を前にして、人文系の学問が役に立つのかという問題に対する強迫症とでもいうべき反応が生じ不安を感じ始めるということはむしろ自然なことであるかも知れません。しかしながら、そのような問いを捉え返し、学問の営為そのものが有する「楽しさ」・「快さ」と「立派さ」・「すばらしさ」・「美しさ」の価値を決して譲らないことこそがまずは求められるのです。このことは芸術に関しても言えることでしょう。それも、先週阿部さんが話されたハヴェルが聞いていたカオスと暴力に満ちたVelvet UndergroundやMothers of Invention――そう、後年のフランク・ザッパは音楽に対する検閲に抗して立ち上がり(Frank Zappa Meets the Mothers of Prevention)、当時のアメリカ合州国大統領レーガンに続く共和党大統領の誕生を阻止すべく大統領選への立候補すら真剣に考えていました――、さらにはPlastic Peopleのような対抗文化におけるそれに対しても当てはまるものです。
8

2020/8/10

コロナ禍に関する雑感  哲学
三月後半から、コロナ禍とつきあうだけでなく、色々と考えて来たが、ようやっと考えが纏まったので少しだけ記してみたい。オレはこういう点に関する初動の瞬発力が低いこともあって、もしかしたらコロナ禍は思考する上で途轍もなく重要な事件なのではないかと思ったりもしたし、学生の前では今こそ哲学の出番などと手前味噌的なリップサーヴィスもしたが、善くも悪しくも私たちの思考を真に動かすだけの力をもつような出来事ではないというのが結論。(賢明な方は既に同様の結論にいち早く達していただろうから、何を今さらということになるだろう。)もちろん、生活の様式には変化があり、職場を始めとするそれぞれの生活の場において様々な対応を迫られてきたし、収束が今なお見えない現在においてどのように対応するか模索することが必要だから、その限りでは色々と考えねばならないことがあるのは事実だ。しかし、そこで考えねばならないというのは、思考というよりは広い意味における計算、つまりはどのようにしたら感染を抑えつつ人々の生活を守っていくかということに関する計算でしかない。未知の事柄や考慮しなければならないパラメーターを見積もるのが難しいから、計算には幅があるし固有の困難はあるだろう。とは言え、そういった幅や困難の存在を前提にした上での話しだけれども、概ね最良の解は定まるのであって、誰が考えても大きな違いはない。オレも自分の職場でその計算に若干携わったけれども、計算の出来不出来はあるにせよ、まあ、誰が計算しても同じような結論に達するわけでそう大したことではない。
生活様式の変化はいつの時代にもあったし、疫病が繰り返し発生してきたこともまた歴史書の告げる通り。その限りで、今回のコロナ禍が特別な訳ではない。特別ではないにしても,時代の刻印を有しているから特殊性は有しているが、それが証すのはコロナ禍の問題というよりは、グローバリゼーションだったりインターネットメディアだったりといった時代に固有の事柄に過ぎない。言わば、コロナ禍はもろもろの事象を炙り出す機会原因といったものでしかなく、そのことが何を思考させるわけではなくて、計算と現状の再確認でしかないわけだ。(その意味では、並んで論評されることの多い、東日本大震災と福島原発事故の方が、技術と自然等をめぐって思考を駆動するずっと重要な事件であったと思う。)
というわけで、「日の下には新しいものなし」(「伝道の書」)ということになってしまうが、コロナ禍が機会原因として様々な事柄を炙り出したのも事実。我が政権の無能さ――10年後には「悪夢の安倍政権」と語られることになるだろう――から、社会的活動の<コロナ的還元>によって息を吸うことを始めとする生の基礎的活動の重要性が剥き出しとなって示されたといったことに至るまで、そこには多様な事象が含まれるだろう。あるいは、これを機会にモンテーニュを読み直してみるとかといった効果は有するだろう。
実際、この間、特に欧米の思想家たちがこの件について論じているものを少しは読んできたが、大したものはなかった。これを機会にここぞとばかり「知識人」として思いつきを垂れ流す――ドゥルーズとフーコーの対談「知識人と権力」を読み直してから出直して来いと言いたくなる――ものが多くなかっただろうか。このことは、思想家たちの咎といううだけではなくコロナ禍が思考を駆動するだけの事件ではないことを結果として証しているように思う。
そうでありながら、次のことだけは強く注意しておきたいと思う。コロナ禍を戦争のメタファーで語るな、というそのことである。多くの者がコロナ禍との闘いを語り――これはいい、確かに私たちは闘病とも言う――コロナとの闘いを戦争と名指す。だが、この形容や名指しは二重の意味で問題である。一つは、戦争そのものをどう考えるかということで、D&Gの徒であるオレとしては、国家装置と本性上異なる限りでの戦争(機械)をコロナとの闘いを名指す言葉として用いることは出来ないと考えるが、これには戦争機械という特異な概念について説明しなければならないからここでは措くことにしよう。もう一つは、戦争というメタファーを使用することの効果の問題である。それがメタファーである限り、コロナとの闘いと戦争とは異なる。その意味が異なるからこそメタファーは機能する。新型コロナウイルスは宣戦布告をしたわけではないのだ。だが、メタファーが一旦機能し始めることによって、コロナとの闘いはまさしく戦争として語られ、そのようなものとして現実に機能し始めてしまう。その先に、総力戦体制が待っていることは容易に想像できるし、緊急事態宣言をめぐる議論はそのことをよく示している。コロナとの闘いは戦争ではない、ということをはっきりと認識することが重要である。
コロナ禍に必要以上に怯える必要はないし、また、コロナ禍はそれ自体で思考に値するような出来事ではない。右往左往することなく淡々と日常を過ごし、他の真に考えるべきことを思考するだけ、という平凡な事実に立ち戻るまで数ヶ月を費やしてしまったのは我ながら情けないが、こんなところだと思う。もちろん、複雑な計算が今後もなお待っているのが辛いところではあるが。
6

2020/2/2

キャロー教授京都講演会、ならびに小泉義之におけるデカルト・スピノザ問題  哲学
キャロー教授との怒濤の二週間が終わった。以下、まだ報告していなかった先月25日に同志社大学で開催された講演会についてごく簡単に。題目は「パスカル: 『私たちは真理でさえ偶像にしてしまう』」 « Pascal : « On se fait une idole de la vérité même »»。
 『パンセ』の有名な断片(L926)を標題にしたこの講演も密度が濃く、デカルトの確実性としての真理という真理概念に対するパスカルの議論の意義を、慈愛ないしは「三つの秩序」との関わりで論じるものだが、image=表徴・写しをめぐるパスカル独特の議論に焦点ををあてて解き明かされていく。結局は、慈愛によってこそ真理としての神が偶像ではなくなるということだが、『ローマの信徒への手紙』(1.20)の仏訳の考証を始めとしてまたしてもこの方らしい緻密な議論が繰り広げられて学ぶところが多かった。なかでも、その前の週のパルカルセミナーでも強調されていたが、マルティノー版『パンセ』(Discours sur la religion et sur quelques autres sujets qui ont été trouvés après sa mort parmi ses papiers, restitués et publiés par Emmanuel Martineau, Paris, Fayard / Armand Colin, 1992)の重要性の指摘で、ジャン・メナールによる数少ない言及を除くと、文学関係のパスカル研究者からは無視ないしは拒否されているというこの版で『パンセ』を読むことの意義を、その後の私的な会話でも何度も繰り返しておられた。残念ながら、聴衆には本学的なパスカル研究者が少なかったので、この点を始めとする議論は取り交わされなかったが、アウグスティヌス研究者のヴァンサン・ジロー同志社大学准教授による充実した特定質問のお陰で充実した討論が出来たのはとてもよかったと思う。個人的には、まあクリシェかも知れないが、マリオンの偶像とイコンという対概念をパスカルの議論に重ねることの理論的正当性について一応肯定的な回答を引き出せたことで満足、というところか。そうそう、ハイデガーの『黒ノート』にパスカルに関する本格的な言及があるということは迂闊にも見過ごしていた。パスカル・ハイデガー問題というのも興味深いと思う。
 関西での日々はほぼお付き合いし、毎晩遅くまで呑んでいたので、ここには記すことが難しい多くの事柄を教えて頂けたのも喜びだった。東京に戻る前日には、教授のマリオンとの関係を含む知的来歴に関しては簡単なインタヴューも行ったので、いずれ何らかの形で公表したいと思う。分析哲学の興隆の中、哲学史研究の意義を改めてどのように活性化させていくかという点においては、フランスも日本も殆ど変わらない状況であるということが一番印象に残った。
 一日だけアテンドをサボって出席した小泉義之さんの『ドゥルーズの霊性』の合評会(於京都大学、1月26日)も興味深いもので、千葉雅也・廣瀬純・市田良彦という今をときめくコメンテーターらによる議論には啓発されるところ多かったが、無神論者は現世しか認めるはずがないのに、汚辱に塗れたこの世を一旦拒否するために超越・あの世の力を現出させて現世の秩序を拒否するという小泉さんの一貫した立場――それを支えるのは、『兵士デカルト』いやそれ以前の院生時代の論文以来、もちろんデカルト哲学――と優れた論文が今回の論文集に収められている内在の哲学者スピノザが、小泉さんの中でどのように両立しているのかということ――言わば、小泉義之におけるデカルト・スピノザ問題――が一番気になった。思えば、『兵士デカルト』刊行時の合評会を企画したのは私だったので、小泉さんの長く豊穣な哲学的生の発端と中間地点に居合わせることが出来たことを嬉しく思うとともに感慨もひとしおだった。
 最後になりましたが、キャロー教授招聘に関してお世話になった皆さん、とりわけ、キャロー教授のもとで博士号を取得され、今回は教授との仲介の労を取った上で、アテンドの殆どを担当して下さった現日本学術振興会特別研究員(PD、東京大学)の佐藤真人さんと今回の講演会の会場等のお世話をして下さった開催校の同志社大学には深く感謝します。クリックすると元のサイズで表示します
0

2020/1/23

キャロー教授の二つのセミナー  哲学
一昨日と昨日は、キャロー教授のセミナ−=演習が行われた。今、同教授のアテンドで新幹線の中、少し時間があるので、その報告をしたい。
 「『事象的存在者』。デカルトからビュルマンへの二つの答弁について」« Ens reale. Sur deux réponses de Descartes à Burman »と題された火曜のセミナーは、『ビュルマンとの対話』に関するもの。若干二十歳のビュルマンが1648年にデカルトを訪ねて、それまで刊行された著作をもとに直接質問したのに対する応答=答弁を記したこの記録は哲学史の上でも極めて貴重なものであるとともに謎めいてもいて、その扱いは難しい。例えば、三巻本のデカルト哲学著作集を編纂したフェルディナン・アルキエは、その正統性を疑い、同著作集には収めていない。AT版のやや甘い校訂を補う仕方で、1981年にはジャン=マリ・ベサードが校訂版を刊行し、私たちはこれが決定版であると信じていた。(白水社の『デカルト著作集』所収の邦訳は、その出来映えは別にして、これに基づく。なお、1982年には、Hans Werner Arndtの手によってPhBからこちらも優れた羅独対訳の校訂版が刊行されている。)
 さて、キャロー教授は『ビュルマンとの対話』の新しい校訂版を準備中だという。火曜日のセミナーは、新しい校訂版の必要性を十分によく示す、言わば同教授のアトリエでの作業を示すもので圧倒的な迫力であった。具体的に扱われたテクストは、ベサード版のテクスト26。「第五省察」の永遠にして不変の本性についての議論に対してビュルマンがキマイラを例に出しながら質問したのに対し、デカルトが« ens reale »といった近世スコラに典型的な術語を用いて回答=答弁しているものである。「第一答弁」を始めとする他のデカルトのテクストを援用しながらこのテクストの哲学的な意味が説き明かされて行くとともに、近世スコラの術語を敢えて用いる――実際、この連辞のデカルトのコーパス全体における使用例は少ない――という教育的な配慮の意義が強調される。だが、最も驚かされたのは、そのテクストの一つ一つの解釈であり、関係代名詞の先行詞や代名詞が何を受けているかということから始まって、草稿に加えられた訂正など、ベサードによるテクストの扱いがかなり問題的であることが明らかになる。これだけなら、一つの解釈の可能性ということに留まるかも知れないが、キャロー教授による校訂、そして、ベサード版への批判的提案がもう一つ別の作業によって支えられているところが肝心。クラウベルクのテクストの徹底的な読解である。歴史上のビュルマンとの対話において、おそらく筆記者がおり、あるいは、草稿作成の途上で様々なミスが混入した可能性が高い。だから、自筆の原稿ほどにはその正統性を認めることが出来ず、草稿そのままだとデカルトの他のテクストとの矛盾が眼について困惑することになる。だから、草稿をそのまま忠実に再現しても、筆記者等の過ちを鵜呑みにすることになりかねない。だからと言って、他のデカルトのテクストと矛盾しているからといって恣意的に訂正することは許されないだろう。ところが、そういった訂正のための傍証が存在する。クラウベルク。クラウベルクは、その草稿をよく読んでいて、著作の中で何度も引用しており、しかもその引用においては、概ねデカルトの他のテクストと矛盾がないように訂正が施されている。この訂正がクラウベルクによるものなのか、クラウベルクが見た草稿にはそう記されていたということなのかはわからないが、いずれにしろ、文献学・解釈上の一つの大きな助けにはなろう。
 じつは、クラウベルクの著作の中に『ビュルマンとの対話』からの引用があることは、Wolfgang Hübenerが1973年のドイツ語の論文で既に指摘しており、それを先に挙げた羅独対訳では拡大する形でさらに多くの引用箇所が指摘されていたが、ベサード版にはその指摘は一切ない。キャロー教授はその作業をさらに網羅的に――つまりは、よく知られているDefensio cartesianaやOnotosophia以外のマイナーな著作まで含めて――行ったということになる。当然と言えば当然の作業だが、クラウベルクのOpera omniaの走破と『ビュルマンとの対話』のテクストの一々が頭に入っていないと遂行できない作業ではある。キャロー教授による新しい版をもとにした新たな邦訳が求められる次第である。(既にその作業の一歩を始めた若い研究者がいるとも聞く。)
 かなり長くなったので、昨日のパスカルをめぐるセミナー「『われわれは決して現在の時にとどまっていない』。切迫性と現在性に関するパスカルの考察」については、ごく簡単に。但し、こちらの重要性が劣るというわけでは全くない。『パンセ』断章(L47)を主たる対象としながら、パスカルにおける人間的時間の構造を解明するもの。アリストテレスはもちろん、アウグスティヌスのよく知られた時間性の構造、さらにはフッサールの内的時間意識における脱自的なそれとも異なるパスカルに固有の時間性のありようが解明される。「現在性présenteté」と名づけられた――» Anwesenheit «と訳してもいいらしいが――その特質は、現象学的な時間性の抽象的かつ普遍的な性格に対して実存論的な具体性を有することと、持続する現在が特権的でありまたそれが対象に対して居合わせるという性格をもつということに求められる。そして、その具体的なありようが、ennui(倦怠)、意志の合一、そして(人生における)出来事への従属等々の対象において解明される。永年の親友であり、かつ、パスカルにおける時間と永遠性について見事な論文を公刊されている塩川徹也さんも列席、鋭い質問を投げ掛けられ、この仏日を代表するパスカル研究者の討論に居合わせることが出来ただけでも興奮を覚えるのを禁じ得なかった。
 土曜は同志社大学でパスカルにおける偶像と真理をめぐる講演会。スピノザ/ドゥルーズラインで動いていた頭が、少しだけ25年前に戻りつつある。
1

2020/1/20

キャロー教授講演会「「私」とは誰か?現存在から自我へ」  哲学
昨日はキャロー教授の講演会だった。センター試験当日であったにもかかわらず、40名弱の方々が集まって下さり、かなり充実した時間がもてた。お集まり下さった皆さんと会場を提供して下さった開催校の筑波大学には深く感謝したい。
 「「私」とは誰か?現存在から自我へ」と題された――実は、 « Qui est le moi ? Du Dasein à l’ego »をどう訳すか自体が問題――この講演、単なる« moi »ではなく、定冠詞付きの« le moi »という語――パスカルの「<私>とは憎むべきものだ」(L698)におけるそれ――において提示される自我の概念の発生とその受容を辿りながら、その実質的な創設者であるデカルトにおけるその特質をモンテーニュや『パンセ』の諸版のみならず古代からの様々なテクストの詳細な分析によって示すものであった。デカルトによって実質的に――というのは、デカルトのテクストには« le moi »という表現自体は見出されないからだが――提示された自我概念は、ピエール・コストによるジョン・ロックの『人間知性論』の仏訳を介して« soi »や主体、反省性を核心とするそれへと変質されて受け継がれていくが、デカルトその人の自我概念のポイントは、抽象的な自我、そう、フッサールの言葉を借りるなら「純粋自我」の発見にこそある。そして、デカルトの自我論に対するハイデガーの批判――存在の意味の探求の不在――に対しては、現存在が「各自性Jemeinigkeit = mienneté」として捉えられるからには、確かに、自我は現存在ではないが、現存在は自我に他ならない――これは師マリオンの解釈――というだけでなく、とりわけ『現象学の根本諸問題』において説かれている「誰の問いWerfrage」を「第二省察」のデカルトは掘り下げている、と応答する。そして、実存論的分析の方はどうかと言えば、本来性と非本来性の分析が『情念論』の高邁(générosité)と「臆病lâcheté」(152項)に対応し、« lâcheté »は「頽落Verfallen 」と訳すべきであり、こうして、デカルトがハイデガーの先駆者とは言えないにしても、ハイデガーの「誰の問い」を導きの糸としてデカルトの思索の可能性が示される。
 『情念論』の分析などはまだ手探りの状態のようで、まあ、ホントかよと思わせるものだったし、« le moi »と« soi »との区別という重要な論点――そう、« le soi est haïssable »とは言えないわけだ――が講演全体においてどのように維持されているかよくわからないところもあったが、学ぶところは多かった。とりわけ、この方らしいと思わされたのは、「第二省察」の次の有名な箇所に関する眼の覚めるような分析。
« Nondum vero satis intelligo, quisnam sim ego ille, qui jam necessario sum [……] Novi me existere ; quaero quis sim ego ille quem novi »(AT VII, 25, 14-15 puis 27, 28-29)
リュイヌ公爵による仏訳は次の通り。
« Mais je ne connais pas encore assez clairement ce que je suis, moi qui suis certain que je suis »
ミシェル・ベサードによる現代語訳は次の通り。
« Mais je ne connais pas encore d’une intellection suffisante ce qu’est ce moi, ce que je suis, moi qui à présent de toute nécessité suis »
因みに、所雄章訳は次の通り。
「まだ[実は]しかし十分に私は、今や必然的にある[と論定された]私、その私がいったい何者であるかを、知解していないのであって、[……]私は私が存在することを識っており、 私は私が識っている私、その私が何者であるか問うているのである」
 問題は二つあって、一つは« quisnam »ないしは« quis »をどう訳すか、もう一つは« ego ille » の訳である。後者に関して、まずリュイヌ候は指示代名詞« ille »を訳していないし、また、この« ego ille »、男性単数の変化形との連辞による表現は中世のラテン語には見つからない。これは、« le moi »という表現がデカルト=パスカルによる発明されたということとと関わるだろう。それ以上に重要なのは前者である。リュイヌ候もベサードも「私とは何か」、つまり« quid »として、つまりは本質=quiditasの問いとして訳している。しかし、このテクストは、「私とは誰か」と問うているのだ!これが、ハイデガーの「誰の問い」へと繋がっていくことは明らかだろう。もちろん、講演後の質疑応答で、或る若いデカルト研究者が質問したように、それほど大きな違いがあるだろうか、引用の中間部分で、« quid » の問いを立てているし云々と尋ねたくもなるが、その応答は、「何か」という問いには答えていても、「誰か」という問いには答えていない、というものであった。確かに...引用の最後の次に蜜蝋の分析が来て、「私」を巡る問いは宙づりにされるのである。(こういった問題まで自覚していたとは思えないが、さすが所先生は正しく訳しておられる...)
 デカルトのテクストを一つの方向へと向けて解釈するよりも、そこに含まれた様々な層を浮かび上がらせるというマリオン譲りのこういった読解が、発見的な効果をもつことは疑いもない。
 他にも、« le moi »と« soi »の区別を巡って、例えばリクールの仕事に対する厳しい評価を引き出せたとか、もろもろ興味深い点もあったが、備忘録代わりの報告はこのあたりにしよう。
 明後日は『ビュルマンとの対話』関するセミナー、明明後日は塩川さんへのオマージュをも意味するパスカルに関するセミナー。皆さまに公開しますので、演習だからといって尻込みされずにご来場下さい。
1

2020/1/10

ヴァンサン・キャロー教授 (パリ・ソルボンヌ大学) 講演会とセミナーのお知らせ  哲学
ヴァンサン・キャロー教授 (パリ・ソルボンヌ大学) 講演会とセミナーのお知らせ
日本学術振興会外国人招へい研究者の事業の一環として、ソルボンヌ大学のヴァンサン・キャロー(Vincent Carraud)教授を招聘し、講演会とセミナーを開催します。
 キャロー教授は、ジャン=リュック・マリオンの高弟で、デカルトとパスカルを主たる専門としながら、近世スコラからライプニッツに至る哲学史を素材に問題史的な大きな仕事(Pascal et la philosophie , PUF, 1992; Causa sive ratio. La raison de la cause, de Suarez à Leibniz, PUF, 2002; L’invention du moi, PUF, 2010)を残されつつあるほか、デカルトの初期思想に関する校訂本(Descartes. Etudes du bon sens. La recherche de la vérité. Et autres écrits de jeunes (1616-1631), PUF, 2013)を刊行され、また、現在、デカルト研究センター所長を務めるなど、この方面を代表する文字通り世界的な研究者です。
 今回は、キャロー教授の多方面にわたるお仕事の基軸となる二つの主題に関してご講演頂くと共に、現在校訂版を準備中というデカルトの『ビュルマンとの対話』とパスカルをめぐるセミナーを一回ずつ開いて頂くことになりました。
 詳細は以下のとおりです。みなさまのご来場をお待ちしております。

ヴァンサン・キャロー教授 (パリ・ソルボンヌ大学) 講演会とセミナー
講演会:「『私』とは誰か現存在から自我へ」 « Qui est le moi ? Du Dasein à l’ego »
日時:2020年1月18日(土)15時〜18時
場所:筑波大学 東京キャンパス文京校舎 118講義室
https://www.tsukuba.ac.jp/access/bunkyo_access.html
セミナー 1) :「『事象的存在者』。デカルトからビュルマンへの二つの答弁について」« Ens reale. Sur deux réponses de Descartes à Burman »
日時:2020年1月21日(火)15時〜17時
セミナー 2) :「『われわれは決して現在の時にとどまっていない』。切迫性と現在性に関するパスカルの考察」 « Nous ne nous tenons jamais au temps présent ».Remarques pascaliennes sur l'imminence et la présenteté.
日時:2020年1月22日(水)15時〜17時
共に東京大学 本郷キャンパス 法文2号館 哲学研究室
https://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_02_j.html
講演会:「パスカル: 『私たちは真理でさえ偶像にしてしまう』」 « Pascal : « On se fait une idole de la vérité même »»
日時:2020年1月25日(土)15時〜18時
場所: 同志社大学 今出川校地 良心館409教室
https://www.doshisha.ac.jp/…/camp…/imadegawa/imadegawa.html…
*使用言語は基本的にフランス語ですが、必要に応じて、適宜通訳を行います。入場無料、予約不要です。
共催:東京大学文学部哲学研究室/筑波大学大学院人文社会科学研究科 哲学・思想専攻/哲学会(東京大学)
連絡先:鈴木泉(izumisz@mac.com)
0

2019/12/10

マルブランシュとシェリング  哲学

久しぶりに少しだけ研究に関すること。昨日と一昨日は、スピノザ協会との共催で開催された科研費のワークショップ――上野さんを親分とする19世紀フランスにおけるスピノザの不在と現存とを検討するという興味深いもの――に出席してとても勉強になった。何よりもフローベールにおけるスピノザの現前が興味深く、帰宅後『ブヴァールとペキッシュ』の岩波文庫の翻訳を眺めていると、いやいやこれは真剣に読まないといけないと思わされるのだった。ただ、もう一つ、ワークショップの全体的な主題からは大きく外れるのだが、マルブランシュの19世紀フランスにおける評価の変遷というかその導入が気になった。クーザンの高等・公教育における政治的な側面の強い哲学史の編成において、デカルト・スピノザ・ライプニッツの位置づけが決定していくということは前から理解したつもりだが、さて、そうすると17世紀のデカルト以降の哲学の展開の中で<おらが国>の哲学者であるマルブンシュはどうして前面に出てこなかったのか、そして、スピノザ絡みでいえば、晩年のマルブランシュがスピノザ主義の嫌疑を晴らすために書簡や著作を残していることを知っているものとしては、そのあたりは19世紀にどうなったのか、ということを知りたいと思ったわけだ。
この点で参考になるのは、まずは、学問的なマルブランシュ研究の発端をなすオレ・ラプリュヌ(Léon Ollé-Laprune, 1839-1898)による浩瀚な二巻本の研究書(La philosophie de Malebranche, 1870)の存在である。道徳政治科学アカデミーの懸賞論文として、やや複雑な経緯を辿って提出された本書だから、その背後にはクーザンがいる。そして、10年ほど前にこの稀覯本を再刊し、序文を寄せているマルブランシュ研究者のAlexandra Rouxには、L'ontologie de Malebranche(Herman, 2015)とLe Cercle de l'Idée Malebranche Devant Schelling(Champion, 2017)という驚くべき本があって、マルブランシュと後期というか晩年のシェリング――1847年から1852年の講義、『神話の哲学入門』第二部に収められているらしい――との連関、存在概念を巡って前者から後者への深い影響関係を解明している。まだその全貌を把握するには至っていないのだが、クーザンとシェリングとの関係などを考えても興味深い。誰かこのあたり咀嚼して検討してくれるといいのだが、本邦にはマルブランシュ研究者は数えるほどしいないから、まあ自分でやるしかないか、と思った次第。Weltalterまでは多少勉強したけれど、その後はとても手が出ないのでつらいな。あ、いや、マルブランシュ/シェリングといえばメルロ=ポンティだから、最適任の方がおられるではないか...クリックすると元のサイズで表示しますクリックすると元のサイズで表示します
0

2019/11/26

ZK結成50周年第三弾ライブ  音楽
昨日の頭脳警察のライヴ、これまでの数知れない経験の中でも、指折りのものだった。京大西部講堂ライラ・ハリド来日時のそれに続くか。FZというかThe Mothers of Inventionの例の曲――大体、この曲がかかって始まるときは気合いが入っている証拠なのだ――に続いて、革命三部作。「世界革命戦争宣言」をライブで聞くのは三度目か。この曲というかラップもしくはアジテーションについては後で触れるが、十年以上前、初台ドアーズのライブで「これが頭脳警察」だというパンタのMCと共に聞いたときは、客の数が少ない――100人もいなかったと思う――こともあって、複雑な気持ちになったものだが、戸川純ファン――一目で大体わかるのだ――も交えたそれなりの数の観客の前でのパフォーマンスは、今なおこの曲が生きていることを感じさせる。若いミュージシャンが加わっての「銃をとれ!」と「赤軍兵士の詩」は、リズム隊がしっかりしているせいか素晴らしい。続いて、4月の花園神社の水族館劇場でのライブを引き継ぐ形で劇団員も交えての新譜からの数曲。アングラ演劇と頭脳警察の相性の良さをよく示す刺激的な時間だった。これまでのライブでは演奏されなかった(?)、メロトロン風の音から始まる、というよりか、 "Strawberry Fields Forever" へのオマージュのような冒頭から始まる「揺れる大地 2」などとてもよかった。若手大活躍のロックンロールメドレー、そして、締めは「世界夫人」。何度聴いた曲かわからないが、こうやって聴くと感慨深い。その後のアンコール、まさかの戸川純登場で、彼女の一曲目だった「蛹化の女」を頭脳警察パンクヴァージョン、最後は「コミック雑誌」。アンコール含めて10数曲、1時半弱のライブだっただろうか、MCも少なく、緊張感溢れるあっという間の時間だった。
長い間ライブに通っているし、まあ、もうパンタが何をやろうとやるまいと全面肯定という気持ちになっているから、今日もまたこんな感じかと思うことも多いのだが、そして、前回の渋谷の第二弾などは、ファン投票ベストテン形式で、リラックスした雰囲気といえば聞こえはいいが、そこまでファンサービスしなくてもいいのに――パンタもトシもとても優しいのだ、アンコール終了直後、足許の覚束ない戸川純のことを察して、帰りかけたパンタは戻ってきてトシと共に彼女を率いていった――と思うことなどもあったが、50年記念の終盤でしかも「革命三部作」解禁となると気合いが違う。以前あるところで、パンタとトシが二人すっくと立ち並んでギターとコンガをかき鳴らすだけで怪しい雰囲気が漂い「頭脳警察」になる――その勇姿は昭和天皇が亡くなったときの同志社大学で開かれた非国民集会でのライブとしてYoutubeで見ることが出来る――と記したことがあるが、昨日は二人とも着席の姿だったから、もうあの勇姿は見られないかと一瞬残念に思ったものの、そんなことはない、冒頭に映写された三里塚でのライブシーンの着席姿を反復しているに過ぎないかのようだった。
しかし、今の時代において「世界革命戦争宣言」を歌う・叫ぶとはどういうことか。革命という言葉が真面目に語られなくなったこの時代のこの国において、革命やましてや「世界革命戦争宣言」なる暴力革命を語ることにどんな意味があるのか。かつて、新宿のロフトプラスワンで、下獄直後の塩見孝也とパンタのトークライブを見に行ったことがあり、1stの「宣言」を流してこの赤軍派元議長が聴くという稀有な場に立ち会ったことがあるけれども――パンタがとても神妙にしていたのがとても印象的で、この世代の方々にとっての「日本のレーニン」の存在の重さに驚いたものだ――、内ゲバのことは措くとしても、「前段階武装蜂起論」が今から考えれば、その志はよしとするにしても現実にはおよそマンガでしかないことも事実だろう――「俺のまわりは漫画だから」という一節はそこまで示しているのだ―–。しかしながら、戦術上の茶番は別にして、この宣言の価値がなくなったわけではない。抜粋する。「我々は君達を世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告するものである。/ブルジョアジー諸君!/[…]/君達の歴史的罪状は、もうわかりすぎているのだ。君達の歴史は血塗られた歴史である。第一次大戦、第二次大戦、君達同士の間での世界的強盗戦争のために、我々の仲間をだまして動員し、互いに殺し合わせ、あげくの果ては、がっぽりともうけているのだ。/[…]/君達に、沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら、我々にも君達を銃剣で突き刺す権利がある。 君達は植民地を略奪するために我々の仲間を殺した。仲間をそそのかし、植民地を略奪したらそのわけまえをやると言って、後進国の仲間を、君達がそそのかした仲間をつかって殺させたのだ。それだけではない。そうやって略奪した植民地を君達同士で奪い合う強盗戦争にも、同じように仲間をそそのかし殺し合わせたのだ。/[…]/いつまでも君達の思い通りになると思っていたら大まちがいだ。我々は過去、封建領主のもとでは家畜のように領土のおりの中に縛りつけられた農奴だった。君達は、この身分の枠を破り、我々を君達の自由にするために、「自由、平等、博愛」のスローガンの下、領主たちと闘った。だが今や、我々は君達の好き勝手にされることを公然ときっぱりと拒否することを宣言する。君達の時代は終りなのだ。我々は地球上から階級戦争をなくすための最後の戦争のために、即ち世界革命戦争の勝利のために、君達をこの世から抹殺するために、最後まで闘い抜く。/[…]/我々は、自衛隊、機動隊、米軍諸君に、公然と銃をむける。君達は殺されるのがいやなら、その銃を後ろに向けたまえ! 君達をそそのかし、後ろであやつっているブルジョアジーに向けて。/[…]/我々、世界プロレタリアートの解放の事業を邪魔するやつは、だれでも、 ようしゃなく革命戦争の真ただ中で抹殺するだろう。」思わず長くなってしまった。色々と記さねばならないこと―–「国家装置」に対する「戦争機械」と記せばお里が知れるか――はあるが、これのどこが間違っているだろう。これらの言葉が、昨晩の渋谷においてどのような意味をもっていたかを判断することは難しいけれども、これらの言葉、やや幼く稚拙な表現も混じっているけれども、10代のパンタの心を震わせた言葉の強度は増幅されて50年の時を経て渋谷に響いたのだ。

長くなったついでに追記
「世界夫人」、インタビューなどによると、パンタはヘルマン・ヘッセのこの詩について、第二次世界大戦の廃墟においても大地にしがみついても生きる気持ちがそこに込められていると解釈しているようだが、私は、むしろ世界への信を失い幻想をもつことなく生きていくことを述べている詩だとずっと考えてきた。大学入学時のオリエンテーションの合宿の際に一人一芸をしなければならないとき、この歌を弾き語りしたのもそんな気持ちからだった。昨日聴きながら、どうもパンタの解釈、それは晩年のドゥルーズの議論と共鳴するが、に分がありそうな気もしてきた。
それと、戸川純。そのお姿には最初びっくりし、一曲目が「蛹化の女」だから、途中で蛹から脱皮するのかとも思っていたが、そんなこともなく、そのありようそのものがパンクとしか言いようがないことがわかり、心が締め付けられた。歌だけ聞くと、一人カラオケで寂しく歌われたもののようにも聞こえる「愛の賛歌」の与える情動の力。最近、耳を離れない「鬼退治」が蘇り、「つらい」路をこの方も中古の車で歩んでいるのだ、と。
0

2019/11/24

最近の作物  仕事
[論文]「経験の構造を論じることについて――松永哲学をめぐるシンポジウムの余白に――」『経験の構造』哲学雑誌第133巻第806号、哲学会編、2019年、pp. 67-84.
[エッセイ]「祈りについて」『ひとおもい』創刊号、東信堂、2019年、pp. 214-219.
[講演記録]「《きずな》について私が知っている二、三の事柄」『シンポジウム「宇佐美圭司《きずな》から出発して」全記録』国立大学法人東京大学、2019年、pp. 18-24.
[論文]「内在と内在的因果性――アンリのスピノザ主義に関する覚書―」『論集』34号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室、2016年、pp. 33-55.
[創作]「[創作]ジル・ドゥルーズとアラン・ロブ=グリエ、デヴィッド・ボウイを語る 翻訳・構成 鈴木泉」『Kawade 夢ムック 文藝別冊 総特集 デヴィッド・ボウイ』河出書房新社、2013年。
[学会報告]「はじめに:ガタリの新たな活用に向けて」『フランス哲学・思想研究』第17号、日仏哲学会、2012年、pp. 31-32.
[エッセイ]「飾りとしてのきれいなものから美しいものへ」『Dream navi』August 2012年、p. 73→野矢茂樹編著『子どもの難問』中央公論新社、2013年、pp. 124-126。
[論文]「大地の動揺可能性と身体の基礎的構造――問いの素描」『哲學』日本哲学会編、2012年、pp. 25-44。
[エッセイ]「哲学史の創出という夢と現実――一つの記録とともに」『本』講談社、2012年1月号、pp. 10-11。
[論考]「序論 再開の哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』神崎繁・熊野純彦・鈴木泉責任編集、講談社、2011年、pp. 8-32。
[コラム]「バロックのサウダージ」『Ulysses emergency edition/Devendra Banhart special』2011年。
[コラム]「Jean Eustache『La maman et la putain』」『Ulysses emergency edition/Simon Finn special』「サイモン・フィンを介してサイモン・フィンを忘却するための空想科学」2011年。
[書評]「中田光雄『正義、法-権利、脱-構築――現代フランス実践思想研究――』(創文社、2008年)及び『現代を哲学する 時代と意味と真理――A・バディウ、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン ――』(理想社、2008年)」(松本潤一郎氏との共著)『フランス哲学・思想研究』第15号、2010年、pp. 190-194.
[論文]「哲学史という背後」『叢書 哲学への誘い――新しい形を求めて I巻 哲学の立ち位置』松永澄夫・鈴木泉編、東信堂、2010年、pp.250-281.
[鼎談/コラム/ディスク・ガイド]「スウィンギング・ロンドンからブリティッシュ・サイケデリアへ 新しさへの批判・伝統への批判」(河添剛、福島恵一両氏との鼎談)、「思想としてのサイケデリア、と言ってみる」、「Psychedelic Freak Out. The 102 trippiest British albums of all time」(分担執筆)、『ユリシーズ』No. 4, シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年、pp. 37-42, p. 40, p. 63, pp. 64-65, p. 67, p. 76.
[インタヴュー]「今の人たちに欠けているのは、信じる、ということ 関係性の思索者レックとの一夜」、『ユリシーズ』No. 3, シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年、pp. 56-62.
[インタヴュー/論考/アンケート/コラム]「インターナショナルな左翼と音楽の自由 パンタ・インタヴュー」、「パーカッションという自由 トシ・インタヴュー」、「頭脳警察とヒューマニズムの諸問題」、「ベスト・アルバム2009」、「音楽活動30周年を迎えたイクエ・モリ」、『ユリシーズ』No. 2,、シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年、pp. 44-58, p. 82, p. 151.
[小論]「坂部惠と交叉反転の論理の行方」『KAWADE道の手帖 メルロ=ポンティ』河出書房新社、2010年、pp. 174-178.
[論文]「ドゥルーズと発生の問題」『現代思想 総特集フッサール』十二月臨時増刊号、第37巻第16号、2009年、pp. 364-372.
[アンケート/鼎談]「50人が選ぶこの50年で最も影響力のあったポップ・ミュージックのアーティスト」および「軽率さの地質学 『ユリシーズ』の可能性」(河添剛、森田敏文両氏との鼎談)、『ユリシーズ』No. 1, シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年、p. 36, pp. 173-173.
[書評]「小泉義之『デカルトの哲学』(人文書院、2009年)」『週刊読書人』2009年10月9日.
[書評]「哲学的「自己形成小説」の試み――アントニオ・ネグリ『野生のアノマリー』――」『思想』2009年第8号、岩波書店、pp. 71-85.
[辞典項目]「幸福」『VOL lexicon』責任編集 白石嘉治/矢部史郎、以文社、2009年、pp. 62-63.
[論文]「力能と人間――アントニオ・ネグリ『野生のアノマリー』をめぐって」『別冊情況』第三期第一〇巻第七号、情況出版株式会社、2009年、pp. 171-180.
[追悼文]「哀悼 坂部惠先生」『週刊読書人』2009年6月29日。
[ディスク・レヴュー/コラム]『アシッド・フォーク』河添剛監修、シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年。
[読書案内]『東大教師が新入生にすすめる本2』文春新書、2009年、pp. 201-204.(『UP』東京大学出版会、2007年4月号、所収稿の再録。但し、一部訂正。)
[書評]「隷属への抵抗を静かに促す」平井玄『千のムジカ』(青土社、2008年)『東京・中日新聞』2009.3.15.
[書評]「久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版局、2006年)」『フランス哲学・思想研究』第13号、2008年、pp. 146-152.
[小論]「合意とパッチワーク」(鶴見俊輔『アメリカ哲学』解題)『KAWADE 道の手帖 鶴見俊輔』河出書房新社、2008年、pp. 150-153.
[論文]「リトルネロ/リフの哲学 ドゥルーズ&ガタリの音楽論に寄せて」『現代思想』「ドゥルーズ」第36巻第15号、青土社、2008年、pp. 194-203.
[論文]「スティルとリトルネロ――メルロ=ポンティとドゥルーズ」『思想』2008年第11号、岩波書店、pp. 256-274.
[鼎談/アンケート]「哲学史研究の現在」(神埼繁・熊野純彦両氏との鼎談)および「非人間主義的な哲学の白眉」(アンケート)『哲学の歴史 別巻 哲学と哲学史』中央公論新社、2008年、pp. 54-84, 408. 
[エッセイ]「赤塚不二夫と動物化の諸問題」『KAWADE 夢ムック 文藝別冊[総特集]赤塚不二夫』河出書房新社、2008年、pp. 160-166.
[論文]「「形而上学」の死と再生――近代形而上学の成立とその遺産――」『岩波講座 哲学 02 形而上学の現在』岩波書店、2008年、pp. 49-73.
[書評]「中原昌也『ニートピア2010』(文藝春秋、2008年)」『論座』2008年6月号、朝日新聞社、pp. 324-325。
[紹介]「ドゥルーズ」『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者 【20世紀III】』責任編集 鷲田清一、中央公論新社、2008年、pp. 613-662.
[論文]「力能と「事象性の度合い」――スピノザ『デカルトの哲学原理』第一部定理7に関する覚書」『論集』26、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室、2008年、pp. 74-90。
[論文]「非人間主義の哲学――ピエール・モンテベロの仕事をめぐって」『死生学研究』第9号、東京大学大学院人文社会系研究科、2008年、pp. 82-96。
[翻訳]ピエール・モンテベロ「いかに自然を思考するか?――ドゥルーズの自然哲学」『死生学研究』第9号、東京大学大学院人文社会系研究科、2008年、pp. 60-81。
[紹介/後書き]「ドゥルーズ/ガタリ研究・活用の現在」・「後書きに代えて」『ドゥルーズ/ガタリの現在』小泉義之・鈴木泉・檜垣立哉編、平凡社、2008年、pp. 698-717。
[紹介]「マルブランシュ」『哲学の歴史 第5巻 デカルト革命 【17世紀】』責任編集 小林道夫、中央公論新社、2007年、pp. 459-505。
[ライナーノーツ]「リフの美学――『ZONE TRIPPER』に寄せて――」FRICTION『ZONE TRIPPER』(PASS RECORDS/P-VINE)ライナーノーツ、2007年12月5日発売。
[エッセイ]「「お前はお前の踊りを踊れ」という、真っ当で過酷な要求」『ROCKS OFF』Vol.03、シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年12月16日発行、p. 155。

 HPのURL:http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/profsuzuki.html
(これまで表示していたHPが変更不可能になったので、勤務先のHP内のそれに移行しました。)

 なお、このブログ、Windows での閲覧の場合、レイアウトが崩れてしまうことがあります。Mac OSユーザー=マイノリティへのご理解を。
6


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ