2019/7/14

石川求『カントと無限判断の世界』(法政大学出版局、2018年)合評会  哲学
石川求『カントと無限判断の世界』(法政大学出版局、2018年)の合評会に往復4時間かけて行ってきた。若手の新進気鋭のカント研究者・ヘーゲル研究者に加えて野本御大がコメンテーターとして参加する話題の書の合評会とあっては行かない訳にはいかない。コーエンと石川文康による誤読・誤解を精査しながら、カントの無限判断論の真意を、物自体/現象概念と通底する(通常の肯定/否定の対には収まらない)根源的否定・区別の論理に読み取る議論はなかなかスリリングだし、それが光の形而上学に対するカントの歴史的立場やカントの倫理学ならびにコスモポリタニズムの意義の解明へと繋がる大きな見通しにまで広がる議論も興味深い。司会の植村恒一郎が最後に触れていたように、ここに示されたカント像は全体性と無限の分離を語るレヴィナスに瓜二つであることが浮かび上がってきたのは、今日の合評会の大きな収穫だった。スピノザの例の「規定は否定である」という(書簡にしか出てこない)一節の評価やスピノザの思索そのものの位置づけに関してはまだまだ理解出来ないところがあるし、ここで取り出された根源的否定の論理が、シェリングのメー・オンの議論を介してドゥルーズとどう交錯するかなど、疑問は尽きない。そして、とりわけてもまだ納得した仕方で理解出来ないのは、本書の解釈だと、カントの無限判断は、「主語そのものに伏在する未規定性」(福谷茂)のようなものではなく、それが象徴する否定性は「可能性のストックを提供するものでもない」ということになるが、その解釈上の根拠とその意義である。無限判断は、たとえば、死ぬものではない、と示すことによって、死ぬこと以外の無数の不定の述語の総体、つまりは未規定的な可能性の総体もしくは潜在性を不定の仕方で示すことに意義があると私は思っていたが、この解釈よりも強い主張を本書は示している。この主張は、例えば、弁証論における「汎通的規定の原則」をめぐる議論とどのように関わるのか――石川によればそれは「汎通的否定の原則」ということになるわけだが、–––あるいは、ベルクソンが『創造的進化』の無に関する議論で用いている無限判断論の援用とどのように関わるのか...それにしても、久保元彦以来の、いや高峯一愚以来のと言うべきか、ともあれ強靱なカント研究の伝統が都立大学に根づいているのは羨ましいと、昨今の若手による平板なカント研究に辟易することの多い身としては思わざるを得なかった。
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2019/7/13

最近の作物  仕事
[講演記録]「《きずな》について私が知っている二、三の事柄」『シンポジウム「宇佐美圭司《きずな》から出発して」全記録』国立大学法人東京大学、2019年、pp. 18-24.
[論文]「内在と内在的因果性――アンリのスピノザ主義に関する覚書―」『論集』34号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室、2016年、pp. 33-55.
[創作]「[創作]ジル・ドゥルーズとアラン・ロブ=グリエ、デヴィッド・ボウイを語る 翻訳・構成 鈴木泉」『Kawade 夢ムック 文藝別冊 総特集 デヴィッド・ボウイ』河出書房新社、2013年。
[学会報告]「はじめに:ガタリの新たな活用に向けて」『フランス哲学・思想研究』第17号、日仏哲学会、2012年、pp. 31-32.
[エッセイ]「飾りとしてのきれいなものから美しいものへ」『Dream navi』August 2012年、p. 73→野矢茂樹編著『子どもの難問』中央公論新社、2013年、pp. 124-126。
[論文]「大地の動揺可能性と身体の基礎的構造――問いの素描」『哲學』日本哲学会編、2012年、pp. 25-44。
[エッセイ]「哲学史の創出という夢と現実――一つの記録とともに」『本』講談社、2012年1月号、pp. 10-11。
[論考]「序論 再開の哲学」『西洋哲学史II 「知」の変貌・「信」の階梯』神崎繁・熊野純彦・鈴木泉責任編集、講談社、2011年、pp. 8-32。
[コラム]「バロックのサウダージ」『Ulysses emergency edition/Devendra Banhart special』2011年。
[コラム]「Jean Eustache『La maman et la putain』」『Ulysses emergency edition/Simon Finn special』「サイモン・フィンを介してサイモン・フィンを忘却するための空想科学」2011年。
[書評]「中田光雄『正義、法-権利、脱-構築――現代フランス実践思想研究――』(創文社、2008年)及び『現代を哲学する 時代と意味と真理――A・バディウ、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン ――』(理想社、2008年)」(松本潤一郎氏との共著)『フランス哲学・思想研究』第15号、2010年、pp. 190-194.
[論文]「哲学史という背後」『叢書 哲学への誘い――新しい形を求めて I巻 哲学の立ち位置』松永澄夫・鈴木泉編、東信堂、2010年、pp.250-281.
[鼎談/コラム/ディスク・ガイド]「スウィンギング・ロンドンからブリティッシュ・サイケデリアへ 新しさへの批判・伝統への批判」(河添剛、福島恵一両氏との鼎談)、「思想としてのサイケデリア、と言ってみる」、「Psychedelic Freak Out. The 102 trippiest British albums of all time」(分担執筆)、『ユリシーズ』No. 4, シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年、pp. 37-42, p. 40, p. 63, pp. 64-65, p. 67, p. 76.
[インタヴュー]「今の人たちに欠けているのは、信じる、ということ 関係性の思索者レックとの一夜」、『ユリシーズ』No. 3, シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年、pp. 56-62.
[インタヴュー/論考/アンケート/コラム]「インターナショナルな左翼と音楽の自由 パンタ・インタヴュー」、「パーカッションという自由 トシ・インタヴュー」、「頭脳警察とヒューマニズムの諸問題」、「ベスト・アルバム2009」、「音楽活動30周年を迎えたイクエ・モリ」、『ユリシーズ』No. 2,、シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年、pp. 44-58, p. 82, p. 151.
[小論]「坂部惠と交叉反転の論理の行方」『KAWADE道の手帖 メルロ=ポンティ』河出書房新社、2010年、pp. 174-178.
[論文]「ドゥルーズと発生の問題」『現代思想 総特集フッサール』十二月臨時増刊号、第37巻第16号、2009年、pp. 364-372.
[アンケート/鼎談]「50人が選ぶこの50年で最も影響力のあったポップ・ミュージックのアーティスト」および「軽率さの地質学 『ユリシーズ』の可能性」(河添剛、森田敏文両氏との鼎談)、『ユリシーズ』No. 1, シンコーミュージック・エンタテイメント、2010年、p. 36, pp. 173-173.
[書評]「小泉義之『デカルトの哲学』(人文書院、2009年)」『週刊読書人』2009年10月9日.
[書評]「哲学的「自己形成小説」の試み――アントニオ・ネグリ『野生のアノマリー』――」『思想』2009年第8号、岩波書店、pp. 71-85.
[辞典項目]「幸福」『VOL lexicon』責任編集 白石嘉治/矢部史郎、以文社、2009年、pp. 62-63.
[論文]「力能と人間――アントニオ・ネグリ『野生のアノマリー』をめぐって」『別冊情況』第三期第一〇巻第七号、情況出版株式会社、2009年、pp. 171-180.
[追悼文]「哀悼 坂部惠先生」『週刊読書人』2009年6月29日。
[ディスク・レヴュー/コラム]『アシッド・フォーク』河添剛監修、シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年。
[読書案内]『東大教師が新入生にすすめる本2』文春新書、2009年、pp. 201-204.(『UP』東京大学出版会、2007年4月号、所収稿の再録。但し、一部訂正。)
[書評]「隷属への抵抗を静かに促す」平井玄『千のムジカ』(青土社、2008年)『東京・中日新聞』2009.3.15.
[書評]「久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版局、2006年)」『フランス哲学・思想研究』第13号、2008年、pp. 146-152.
[小論]「合意とパッチワーク」(鶴見俊輔『アメリカ哲学』解題)『KAWADE 道の手帖 鶴見俊輔』河出書房新社、2008年、pp. 150-153.
[論文]「リトルネロ/リフの哲学 ドゥルーズ&ガタリの音楽論に寄せて」『現代思想』「ドゥルーズ」第36巻第15号、青土社、2008年、pp. 194-203.
[論文]「スティルとリトルネロ――メルロ=ポンティとドゥルーズ」『思想』2008年第11号、岩波書店、pp. 256-274.
[鼎談/アンケート]「哲学史研究の現在」(神埼繁・熊野純彦両氏との鼎談)および「非人間主義的な哲学の白眉」(アンケート)『哲学の歴史 別巻 哲学と哲学史』中央公論新社、2008年、pp. 54-84, 408. 
[エッセイ]「赤塚不二夫と動物化の諸問題」『KAWADE 夢ムック 文藝別冊[総特集]赤塚不二夫』河出書房新社、2008年、pp. 160-166.
[論文]「「形而上学」の死と再生――近代形而上学の成立とその遺産――」『岩波講座 哲学 02 形而上学の現在』岩波書店、2008年、pp. 49-73.
[書評]「中原昌也『ニートピア2010』(文藝春秋、2008年)」『論座』2008年6月号、朝日新聞社、pp. 324-325。
[紹介]「ドゥルーズ」『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者 【20世紀III】』責任編集 鷲田清一、中央公論新社、2008年、pp. 613-662.
[論文]「力能と「事象性の度合い」――スピノザ『デカルトの哲学原理』第一部定理7に関する覚書」『論集』26、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室、2008年、pp. 74-90。
[論文]「非人間主義の哲学――ピエール・モンテベロの仕事をめぐって」『死生学研究』第9号、東京大学大学院人文社会系研究科、2008年、pp. 82-96。
[翻訳]ピエール・モンテベロ「いかに自然を思考するか?――ドゥルーズの自然哲学」『死生学研究』第9号、東京大学大学院人文社会系研究科、2008年、pp. 60-81。
[紹介/後書き]「ドゥルーズ/ガタリ研究・活用の現在」・「後書きに代えて」『ドゥルーズ/ガタリの現在』小泉義之・鈴木泉・檜垣立哉編、平凡社、2008年、pp. 698-717。
[紹介]「マルブランシュ」『哲学の歴史 第5巻 デカルト革命 【17世紀】』責任編集 小林道夫、中央公論新社、2007年、pp. 459-505。
[ライナーノーツ]「リフの美学――『ZONE TRIPPER』に寄せて――」FRICTION『ZONE TRIPPER』(PASS RECORDS/P-VINE)ライナーノーツ、2007年12月5日発売。
[エッセイ]「「お前はお前の踊りを踊れ」という、真っ当で過酷な要求」『ROCKS OFF』Vol.03、シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年12月16日発行、p. 155。

 HPのURL:http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/profsuzuki.html
(これまで表示していたHPが変更不可能になったので、勤務先のHP内のそれに移行しました。)

 なお、このブログ、Windows での閲覧の場合、レイアウトが崩れてしまうことがあります。Mac OSユーザー=マイノリティへのご理解を。
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2019/5/1

追悼、遠藤ミチロウ  音楽
 ミチロウには遅れてきた人というイメージがある。享年68歳というからパンタやЯ eckとほぼ同世代、スターリンのデビュー時で30歳。(未だにその意味のよくわからない)ロックの初期衝動なるものに任せてライヴをやっていたわけではなく、スキャンダラスと言われるようなパフォーマンスもよく演出されたものだったろう。こう言ってしまえば元も子もないが、それほど音楽的才能があったわけでもなく、アコースティック・ソロやユニットのライヴを聞いても、やはり言葉の人だったと思う。アイロニカルで煽動的な曲のタイトルと詩にはいつも魅せられてきた。そして、その活動の根底にあるのは、日本の様々な意味での貧しさだと思う。「メシ喰うな!」に対抗して「メシ喰わせろ!」と歌うミチロウには、町田町蔵=康のその後の姿と対比するとき、この点が既に明らかだが、それをこの上なくよく表現しているのは、自伝映画のタイトルにもなっている「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」(『ベトナム伝説』。パンタがこれを歌い倒しているヴァージョン(in 『365:a tribute to THE STALIN』)が大好きだが、それはまた別の話し)。スターリンやミチロウの音楽が貧しいということではなく、音楽においても政治や社会においても貧しさが蔓延している場所で音楽を作り出し生きることの難しさをミチロウは体現しつつ抵抗していて、そのありよう自体が魅力だったように思う。「プロジェクトFUKUSHIMA!」はその延長線上の活動。とても誠実でかわいらしいチャーミングな方。ここ十年ほどは殆どライヴに行かなかった、いつでもその姿を見られると思っていた、のが悔やまれる。(最後に見たのは、ZKかパンタとのジョイントのその名もドアーズでのライヴだったか。)
(追記 ミチロウも影響を受けたであろう「自己否定の論理」という全共闘運動の醜く貧しい思考への対抗があるのではないかと推測・妄想するが、これについてはどなたかが既に論じているかも知れない。)
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2019/4/9

頭脳警察at花園神社水族館劇場  音楽
 満開の桜が見事な花園神社に設営された、劇団水族館劇場のテント小屋で開催された「頭脳警察 揺れる大地に」結成50周年1stライヴに行ってきた。
 昨年から、頭脳警察結成50周年をめぐる企画が進んでいることは様々なところから聞こえてきたが、ついにその企画が本格的に始まった。75年に解散した第一期頭脳警察は見ることが出来なかったものの、89年の再結成時から節目節目のライブは見てきたが、今回ほど心躍るライブを経験したことはなかった。以下、それについて記す。
 新旧の楽曲を交え、二回のアンコールを含めて全17曲。「銃をとれ!」や「世界夫人」といった代表曲から水族館劇場に提供された楽曲まで、頭脳警察の音楽的振幅を如実に示す選曲はまず満足の行くものであったが、それだけならこれまでのライブとそんなに変わりはない。 心躍り、考えさせられたのは差し当たり二点。
 1/再結成時の藤井一彦のギター、その後のJigenのベースと、頭脳警察はその度毎に活きのいいミュージシャンを活用して再武装してきた。昨日のライブの冒頭で、パンタはストーンズに次いで長寿バンドになってしまったと言っていたけれども、ストーンズの場合、ミック、キースに加えてチャーリ−・ワッツが今でもメンバーの中核を担っているし、メンバーの異動はあるにしても、五人プラスサポートミュージシャンという布陣であるのに対して、頭脳警察は、パンタとトシがいれば頭脳警察になる。その機動性が頭脳警察の魅力の一つでもあるわけだが、他方で、その時代毎の若いミュ−ジシャンを起用することによって、蘇ってきたことも事実で、今回はどのようになるのか楽しみだった。最近は騒音寺を従えての頭脳警察が多かったので、その延長線上かと思っていたら、やはり50年の節目とあって、再装備は予想以上の素晴らしい仕上がりだった。メンバーが登場したとき、思わず若い!と漏らしてしまった程若いメンツ。実は後でパンタが紹介していたように、パンタとトシ以外は90年生まれというから、それ程若いわけではなく、30ちょっと前ということのようだが、ドラムは元騒音寺、ギターとベースは黒猫チェルシー、ゲストと記されていたキーボードはアーバンギャルドと、若手精鋭部隊。この四人がパンタとトシを支えるというか、二人を好きにやらせる感じの音作りが素晴らしかった。まだこの六人になってから日が浅いだろうに、とてもいいアンサンブル。かつて、或る高名なミュージシャンに、「日本のバンドは、それぞれが一人でやる分には結構いいんだけれども、バンドになると、お互いの音を本当には聴いていないから何も生まれないんだよ」といったことを聞いて成程と思ったことがあるが、昨日の若い四人はそのあたりが素晴らしく、それぞれのパートの音が素晴らしく組み合わさって行って、独特のうねりを生み出していた。その上にトシのコンガとパンタのギターとボーカルが乗るのだから言うことなし。新曲を除くと何千回聞いたかわからない楽曲の数々が新たに蘇る。これまでのライブだと、ああまたこの曲かとときには飽きることもあったというのが正直なところだけれど、それが一切なかった。「銃をとれ!」のベースのリフは、それぞれのベーシストの魅力が示されるところで、これに関しては、Jigenのそれとも異なる魅力的なそれを堪能したが、驚いたのは「スホーイの後に」と「コミック雑誌」。長い前者はパンタのジャジーなボーカルを堪能して終わり、後者は大体アンコールでお祭り騒ぎ、という感じで、それ以上の魅力を感じたことは余りなかったのに対し、昨日は、こんなに魅力的な曲だったっけという嬉しい驚き。後者に関しては、まあ、ユーヤさんの死ということもあったし、それに合わせてパンタがユーヤさんの例の人工ステレオの指の真似をしたりといった楽しみもあったけれども、それだけではない。おそらく、ドラムの素之助がバンマス的にしっかりと音を聴いていて纏め上げるとともに、いつも歌を口ずさんでいたから、頭脳警察の楽曲がほんとうに好きなのが明らかで、そんなこともあって素晴らしいアンサンブル、思わず身体が揺れるロックン・ロールになっていたのだと思う。「銃をとれ!」冒頭のギターの汚しというかノイジーな絡みもよかったし、実は、頭脳警察はキーボードの入れ方が難しいと思っていたが、さすがアーバンギャルド、センスのいいキーボードもいい感じ。
 かつて私は、頭脳警察の美しさは、パンタとトシの二人が屹立する立ち姿にあると書いたことがあり、その思いが今でも変わらないのは事実で、屹立する二人の煽動がバックのメンバーに後押しされるときの魅力は今でも忘れられないが、煽動の力に圧倒されて頭脳警察の音楽としての力をどこまで感じていたかは心許ない。昨日の二人は椅子に座っていて、屹立しながら煽動する姿を見ることは出来なかったものの、昨日のような仕方で、音楽としての頭脳警察を堪能したのはもしかしたら初めてかも知れない。正直言えば、ここ暫くの頭脳警察は、これまでの頭脳警察を再確認して終わりという印象が強かったのだけれど、こんなに驚きに満ちたものとこの時期になって出会えるとは思ってもいなかった。やはりライブは毎回限りの驚きに満ちたものであって欲しいが、それが一気に実現された感じ。今後がとても楽しみ。
 2/もちろん、昨日のライヴの素晴らしさは、若いミュージシャンによる再装備だけではなく、花園神社のテント、それもアングラ演劇の小屋でのライヴであったという場所の力も大きい。最近は、演劇はすっかりご無沙汰なので、水族館劇場に関しては名前以外知らなかったのだが、かつての状況劇場や天井桟敷を彷彿させるアングラ的な雰囲気が頭脳警察を輝かせていたのだと思う。場を反映してセットリストは演劇関係が多かったように思うが(「仮面劇のヒーローを告訴しろ」、「落ち葉の囁き」ロングヴァージョン等々)、その中でも劇中歌なのだろう、叙情的かつ煽動的な「オリオン」や「飛翔」系列の「”揺れる大地”テーマ@」が始まった直後に、劇団員が観客席や脇の櫓に飛び出てきて歌い出したり、セリフを述べ立てたのには心が震えた。思えば、私のパンタとの出会いはPANTA&HALだったから、パンタや頭脳警察と演劇との関係を強く意識させられたのはかなり後になってからのこと、頭脳警察のアルバムを何度も繰り返し聞いたり、劇団不連続線関係の音源を聞くようになってからのことだ。しかし、考えてみるまでもなく、20代前半のまだまだ多感な頃にアングラ演劇の劇伴をやったりしたことがパンタに根底から影響を与えたことは当然のことだったろう。だから、あの当時のアングラ演劇と時代を超えてリンクするような場所での頭脳警察はそれこそ水を得た魚のように活動し得るわけだ。足立正夫監督の『幽閉者』で花開いて今やスコセッシにまで起用されるに至るパンタの役者・パフォーマーとしての魅力ということももちろんあるのだが、やはり場所の力は大きい。パンタが「裸にされた街」で唄い描いた新宿はこの熱気の祭りの後なのか、とも思った。観客には迷惑なことであったけれども、観客の中の酔っ払いの存在もそれに花を添えたかも知れない。
 結成50年というのは、ご本人たちにとってはどういう感慨を生むものなのだろうという感想をももつが、ともあれ、古希(!)を目前にしたパンタとトシは限りなく元気で、今年はこれから八面六臂の活躍が見られそう。どこまでもついて行くぞ、という思いを強くした一夜だった。[誤植を含めて若干加筆訂正、4月9日]
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2019/2/21

物象化論について  哲学
 講談社の選書メチエが創刊25周年を迎えたということで、同社のPR誌『本』3月号が小特集を組んでいる。そこで國分功一郎という方が「不可欠な思想としての疎外論」という題で文章を寄せ、今村仁司の『近代性の構造』――この叢書の第一弾ということだ――にこと寄せて、疎外論の意義を強調している。曰く、「疎外論は忘れられていった。というか、積極的に忌避されるようになっていった」が、「ポストモダニズム」が批判する「存在論的疎外論」――「起源と目的をもつ神学=形而上学的物語」から切り離せないそれ――と「批判的疎外論――本来性なき疎外論――」は区別されるべきであり、「人が疎外されているという事実が確かにある」から、それを変えようとする実践的関心にとって「疎外論は不可欠」であって、「神学=形而上学的な物語に至らない疎外論が構想されねばならない。つまり、本来性なき疎外論こそが構想されねばならない」云々。
 「本来性なき疎外論」とは疎外という概念からして語義矛盾ではないかとも思うが、物象化論に関する言及がないのはやや不思議であるとともに、時代は逆戻りしてしまったのかという感慨ももった。
 勤務先の大学において、たまにマルクスを卒論に扱う学生が出てくる。『資本論』の価値形態論を詳しく扱った一人の学生――彼は今では数少ないマルクス経済学を学ぶことの出来る他大学の大学院に進学した――を除くと、疎外論に関心をもつ学生が殆どであった。教師としては、まずは『経哲草稿』を読むことと幾つかの文献とを指示した上で、疎外論から物象化論へというテーゼを打ち出し、まさしく「神学=形而上学」に他ならない疎外論からの断絶を行った『ドイツ・イデオロギー』以降のマルクスを最大限に評価した廣松渉という人がいるから、その一連の著書も読んでみたら、と指導するのを常としてきた。変革への真摯な志はわかるけど、少なくとも若きマルクスをも含むヘーゲル左派の疎外論には限界があるんだよと一言言いたくなるし、学生たちは、そう、マルクスに関心をもつ学生たちですら、もはや廣松渉の名前を知らないからである。
 今村仁司の読者が廣松渉のことを知らないわけはないから、批判的疎外論の宣揚は、もしかしたら廣松渉物象化論を「積極的に忌避」する意図をも含むものであるのかも知れない。いずれにしろ、変革への真摯な志を感じさせる文章ではある。
 さて、ここで改めて強く意識させられたのは、本来性なき疎外論に対する評価などではなく、物象化論の意義の再検討の必要性である。少なくとも私たちの世代にとって、疎外論から物象化論へというテーゼは自明のものであった。しかし、疎外論批判は概ね正しいとして、物象化論にはどれだけの意味があったのか、廣松渉のテーゼを鵜呑みにしているだけでは済まない。このあたり、少なくとも次の三点が私にとっての宿題である。
 1/マルクスに関して言えば、『経哲草稿』をめぐる廣松渉の評価に対する山之内靖による批判が今なお気になる。最終的には『経哲草稿』における疎外論を批判的に評価する廣松に対して、山之内は『経哲草稿』の中にフォイエルバッハから継承された「受苦者のまなざし」を読み取り、その意義を再評価する(『受苦者のまなざし 初期マルクス再興』青土社、2004年)。これは、『経哲草稿』解釈としても、事柄としてもどれだけの意味があるのか。この課題は、批判的疎外論の意義を考える際にも重要かも知れない。
 2/物象化論そのものに関して言えば、人と人との関係が物象として凝固・沈殿して現れ、そのようにして現れた様々な制度が私たちのありよう総体を規制するのであり、それ以外に本来性を語るような場は存在しない、という基本的発想はいいとして、それでは、そのような物象化されたメカニズムにおいて変革ということをどのように位置づけるのか、という問題は以前から投げ掛けられてきた。物象化されたメカニズムの変動をどのように考えるのか、そして、そのような変動において変革の主体をどのように考えるのか。物象化論というよりは、廣松渉の四肢的構造論全体において構造変動をどのように考えるのか、そして、廣松晩年の役割理論をどう評価するか、さらには、そのような哲学者廣松と革命家廣松の関係をどのように考えるのかという問いでもある。変革の主体ですら物象化されたメカニズムの一コマでしかないとしたら、それはデクノボーのようなモノでしかなくなるのではないか、と言い換えてもいい。廣松においては、構造変動論をめぐる論考は思いのほか少なく、幾つかの未完のノートが残されているに過ぎない(たとえば、「構造の形成・維持・推転の機制」『廣松渉著作集 第十四巻 近代の超克』岩波書店、一九九七年。初出は「第一信 構造変動論の論域と射程」『第二次 エピステーメー 特集「構造変動論」』第一号、朝日出版社、一九八五年、「第二信 超個体の形成と組織分化」『第二次 エピステーメー 特集「自己組織化」』第二号、朝日出版社、一九八六年、にそれぞれ所収)し、おそらく、その本格的な検討は未完の『存在と意味』第三巻を待たねばならなかったであろう。このあたり、瞠目すべき廣松論(渡辺恭彦『廣松渉の思想』みすず書房、2018年)が示唆に富む。
 3/もう一つ気になるのは、物象化論総体に対する田島正樹の評価である。田島はその名も「疎外論と物象化論」と題された(私家版)事典項目において次のように述べる。長いが引用する。
「物象化論の眼目は、商品貨幣経済における価値形態の物神性の謎を解く点にあり、ただ共同主観的な現象であるというだけで、文化一般の超歴史的現象に拡大適用されてはならない。それは一見、物象化論の射程を拡大する理論的深化のように見えても、実際には物象化論の真価を台無しにしてしまうものでしかないのである。もし、言語すらも物象化のひとつであるとしたら、物象化の克服が歴史的・政治的課題となるはずはあるまい。物象化現象が、ひとつの社会的言語ないし社会的暗号として解読されねばならないとしても、言語が物象化現象として解明されるわけではないのだ。」(『読む哲学事典』講談社現代新書、2006年、152頁)。
 この方らしい鋭い指摘、廣松哲学に対する本質的な批判である。
 宿題ばかりで恥ずかしいが、思いつくままに記してみた。
 と書いていたら、江川隆男による待望の書『スピノザ『エチカ』講義 批判と創造の思考のために』(法政大学出版局)が送られて来た。全てを擲って読みたいところだが、大学から呼び出しがかかった。卒業判定の季節なのである。2月は大学教師には残酷な月...
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2019/2/3

追悼、橋本治  文化・芸術
 最近、距離の大小はあるにしても、近しい方々が相次いで亡くなり、坂部先生言うところの「生と死の<あわい>」が初めて身に沁みて分かるようになってきた。T・S・エリオットの『四つの四重奏』を援用して先生は、「我々が年をとると世界はますます疎いものになる。そして死んだ者達と生きた者達のパターンはより複雑になってくる。[…]あの友達も死んでしまった、あの人もいってしまった、現実に生きて会う人よりもいってしまった友達の方が多くなってくる」(『モデルニテ・バロック』哲学書房、2005年、175頁)と記しておられたが、これからそういう時期に入るかと思うと悲しい。
 そんな中、橋本治が亡くなった。享年70とのことだから、あまりに早い。もちろん、私は面識はないのだが、永年愛読してきた者として少しだけ久しぶりに書きたい。(ブログの記入の仕方すら忘れてしまっていた。)
 最初に橋本治の名前を知ったのがいつかは忘れてしまったが、高校生の頃、パンタの友人であるということから興味をもって、桃尻娘シリーズを読んだのが、実質的には最初の出会いだと思う。その後、何よりも感銘を受け、何度も何度も読み直したのはそのパンタ論「最も美しい“俺”―PANTAX’S WORLD論」(『秘本世界生玉子』河出文庫、1991年、所収)だった。この本に収められているどの文章も素晴らしいのだが、パンタの世界の広がりと豊かさをこれほどまでに見事に解き明かした文章を他に知らない。パンタの世界の核心にある俺=男の子の美しさを描いたこの文章はまるでラヴレターみたいだ。
 『源氏物語』や『平家物語』の現代語訳は手には入れたが棚晒しだし、最近の小説も読んでいないものが無数にある。だが、集英社新書やちくま新書を中心に次々と出された――と過去形で書かねばならないのが心から残念だ――一連の著作は、改めて橋本治の書くものを心待ちにさせるようなものだった。粗製濫造の気味がある新書の企画の中で、これらの橋本本は出色の出来だと思う。現代社会の問題に対して、訳知り顔で何かを垂れ流すのではなく、彼独特の視点から根本から考え直し、読者を思ってもみなかったところへと連れて行く、そのうねるような思索を共にすることが考えることになる、という稀有な著作群だったと思う。必ずしも独自の概念群を創出するわけではないので、ドゥルーズ流に言えば哲学者とは言えないのだが、このことに関してあの人はどう考えるだろうという熱い期待をもたせる方として、フランス語で言うと、maître à penserと呼ぶべき存在だった(日本語ではちょっと訳しようがない。思想家・師等々ではニュアンスが違う)。ここで引き合いに出していいかどうかわからないが、人によっては内田樹あたりを同様の存在と考えるかも知れないものの、こちらの方のものを読んで同様の感銘を受けたことはない。格が違うのだ、と言ってしまえばそれまでだが、橋本治の素晴らしさがどこにあったかは考えるに値すると思う。
 その中でも特に考えさせられたは、『日本の行く道』(集英社新書、2007年)の第四章「「家」を考える」。ご多分にもれず、左翼である私にとって、家、ないしは家制度は嫌悪の対象でしかなかったわけで、そこで思考停止していたのに対し、橋本治は「複数の人間が生活して行くためのシステム――その最小単位」としての「家」を明らかにした上で日本の会社の「家族的経営」や環境破壊の問題を解き明かしていく。その議論の全てに納得したわけではないけれども、「家」については考え直すきっかけになった。
 永年の読者であったと先に記したけれども、小説を始めとして未読の著作は多い。月並みだが、著作を通して鬼籍に入った橋本治と対話することが残されているのは救い。
 最後に一つ。確か休刊した漫画雑誌の『ヤングサンデー』だったと思うが、若者向けの人生相談を行っていた橋本治が、読者からのその性的嗜好を揶揄する投稿があったとして、突然、怒りをこめた一文を残して降板したことがあったと思う。(その号、間違って捨ててしまったのは痛恨の極み。)優しい方だった、と追悼文で記しておられる方が多いが、そして、それはその通りなのだろうが、繊細でかつ激しい方だったのではないかとも思う。
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2014/10/6

デカルト、スピノザ(/ライプニッツ問題)、マリオン新着図書  哲学
 冬眠中に刊行された新着図書について少し。
 カロー&オリヴォによるデカルト初期思想の校訂版に関しては既にここでも触れたが、ガリマール版のデカルト全集はゆっくりとしたペースで刊行が進められており、2009年に刊行された第三巻『方法叙説と三試論』に続いて、書簡を対象とする二分冊からなる第八巻(René Descartes. Œuvres complètes. sous la direction de Jean-Marie Beyssade et Denis Kambouchner, VIII, Correspondance. Volume 1, éditée et annotée par Jean-Robert Armogathe, Paris, Gallimard, 2013; VIII, Correspondance. Volume 2, éditée et annotée par Jean-Robert Armogathe, Paris, Gallimard, 2013)がジャン=ロベール・アルモガットの手によって刊行された。アルモガットが世界中の図書館などを駆け巡って資料収集をしていて、新書簡も改めて発見されるのではないか、という噂も聞いていたが、そのようなことはなかったようで、2010年に新発見が公表され、既に日本でも紹介されている1641年5月27付けのメルセンヌ宛書簡などが収められているのが、敢えて言えば新資料というところのよう。本書簡集の売りは、AT版のように年代順に書簡を並べたのではなく、メルセンヌ関係、ジェズイット関係、数学関係、ホッブズ関係(以上、第一分冊)、ホイヘンス関係、エリザベト関係、レギウス関係等々のその他の書簡(第二分冊)という仕方で書簡の送り手や主題によって書簡を纏めて提示しているところだろう。そのことによって、書簡の相手との関係によってデカルトがどのように思索を紡いでいったのか、という「書簡という実験室」の内情を読解することが易しくなった。但し、対話相手の書簡が全て収められているわけではなく、また原文がラテン語の場合でもフランス語の翻訳が収められているから、研究者向けの校訂全集として用いることは出来ない。そして、――ここでは複雑すぎて、刊行状況を詳細に示すことは出来ない――、ここ10年ほどの間に進められたイタリアとオランダで進められた書簡集の校訂版刊行状況を踏まえて、研究者は旧全集(=AT版)から最近の複数の校訂版までを参照しないといけなくなったが、第二分冊末尾に添えられている対応表の複雑さを見るとちょっと眩暈がする。今後、デカルトの書簡を引用するとき、研究者はどのような表記法を取ることになるのだろうか。
 さて、デカルト関係では、書簡の相手の中でもとりわけても重要な位置を占めるエリザベトに関するコロックの論文集(Elisabeth de Bohême face à Descartes : deux philosophes ?, sous la direction de Delphine Kolesnik-Antoine et Marie-Frédérique Pellegrin, Paris Vrin, 2014)がちょっと面白そう。Edouard Mehl や Denis Kambouchner といった代表的なデカルト研究者が寄稿しているだけでなく、デカルトの対話相手としてのみ基本的には遇されることの多いエリザベト自身を哲学者として評価しようとする意図もあるようで、正直言って、そんなことあり得るかよとも思うものの、女性哲学者の発掘というフェミニスト的作業の一環なのだろう。
 そして、何よりもこれから読むのが楽しみなのは、上記論文集にも寄稿しているDenis Kambouchner の小著二冊。一つは、Le style de Descartes, Paris, Editions Manucius, 2013。あの息の長いデカルトの文体を巡って、カンブシュネルらしい幅広い教養をもとに議論が展開されているよう。もう一つは、有名なシャニュ宛――所謂、愛の書簡――のテクストと註、解説を収めたもの(René Descartes et Pierre Chanut, Lettres sur l'amour, Avant-propos, édition du texte, notes et postface par Denis Kambouchner, Editions mille et une nuit, 2013)。「千夜一夜書房」という、フランスのスーパマーケットなどのスタンドなどでも売っている廉価な本を出している出版社からのもの。しかし、この著者のものだから、« La distance cartésienne »と題された後書きは充実した内容。そして、この後書きには« A Katsuzo Murakami et aux amis de Hakone » という献辞が付されている。言うまでもなく、まずは東洋大学の村上勝三さんへの献辞である。村上さんは、カンブシュネル氏とは永年の親交があり、その縁もあって、カンブシュネルさんを招いて2007年9月に箱根で研究合宿を行ったのだが、その折に氏が詳しく話されていたのがこの書簡。そして、確か、東京から箱根へのロマンス・カーの中であったように思うが、今後の著作計画についてお尋ねしたところ、当該書簡を巡っての小著を準備中だと漏らしておられたが、それが6年の年月を経て刊行されたということになる。村上さんだけでなく「箱根の友人たちに」という献辞をも付け加えることを忘れないあたりに、この方の温かい人間性がよく現れているように思う。永らくお会いしていないが、このFB上で、最近閉幕したデリダ・コロックのことを報告されていた西山雄二さんの挙げておられる写真の中にその変わらぬお顔――白髪のエリック・クラプトンを探せばすぐに見つかる――を見つけて、懐かしく思った。さて、その村上さんも今年度で東洋大学を退職。10月25日には白山哲学会の枠の中、最終講義・最終講演が行われる。
 スピノザに関しても、重要書が刊行。まずは、『エチカ』の仏訳でまずもって知られるベルナール・ポートラによる『政治論』の新訳(Traité politique, traduit du latin, présenté et annoté par Bernard Pautrat, Paris, Editions Allia, 2013)。私自身は、『政治論』についてはまだ本格的な研究を進めていないので、精確な評価は出来ないが、PUF版全集におけるシャルル・ラモンの翻訳の後で敢えて刊行されたものだから、そうするだけの相応の理由があるということだろう。事実、「何故、『政治論』を再び翻訳するのか」と題された序文において、« imperium »という語の訳を例にとることから始めて、新しい翻訳の必要性を論じており、必須の資料と言わねばならない。そして、今回紹介する文献の中で、個人的にとにかく待ち遠しかったのが、スピノザ/ライプニッツ問題を巡る二つのコロックをもとにした論文集(Spinoza/Leibniz. Rencontres, controverses, réceptions, sous la direction de Raphaël Andrault, Morgen Lærke & Pierre-François Moreau, Paris, Presses de l'Université Paris-Sorbonne, 2014)。全部で12本、それも、この問題に関する、まずは決定的な書を記したレルケだけでなく、Kulstad、Melamedら、これまでこの問題に関して重要な仕事を残してきた研究者、Paul Rateau, Manzini, Martine de Gaudemarらのスピノザやライプニッツ関係の若い研究者、といった面々が揃い踏みであって、同様の問題について仕事を纏めねばならない今の私にとって最重要の文献である。これについては、時間が出来たらより詳しい紹介とコメントをこの場で行いたい。
 そして最後はマリオン関係。ハイデガーのフランス的受容の新しい一頁を描く Jean Vioulac の Apocalypse de la vérité(Paris, Ad Solem, 2014)への序文も興味深いが、最近増えてきたマリオン研究の一環として、ブダベストで開催されたコロックの記録は学ぶところが多そう(Jean-Luc Marion, Cartésianisme, phénoménologie, théologie, sous la direction de Sylvain Camilleri et Adeam Tákeacs, Paris, Archivess Karéline, 2013)。さらに何よりも、マリオンのクールベ論(Courbet ou la peinture à l’œil, Paris, Flammarion, 2014)。かなり前から予告されていたもので、数年前にご本人にお会いしたときに刊行について尋ねたら、いずれね、ってな感じでいなされたが、アカデミー・フランセーズ会員になって、いよいよ闊達に自らの世界を展開というところだろうか。マリオンには、La croisée du visible (1991)を始めとして幾つか興味深い絵画論があるけれども、ここまで本格的なものはないし、昔からクールベには並々ならぬ情熱を抱いていて、それがここに結実したようで、これも必読文献。しかし、メルロ=ポンティとセザンヌ、アンリとカンディンスキー、ドゥルーズとフランシス・ベーコンといった対はすぐに納得出来るが、マリオンとクールベとは...阿部良雄の仕事など思い浮かべながら読むのが楽しみではある。
 それにしても、必読書ばかり。世の中は、人が眠っていても激しく回転している...
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2014/10/4

ドゥルーズとデヴィッド・ボウイ、補足  哲学
 少し前に、「逃走の線に魅せられた欲望の解放者 [創作]ジル・ドゥルーズとアラン・ロブ=グリエ、デヴィッド・ボウイを語る 翻訳・構成 鈴木泉」(『Kawade 夢ムック 文藝別冊 総特集 デヴィッド・ボウイ』河出書房新社、2013年)というのを書いたけれども、以下その補足。
 この捏造対談、ユリシーズ集団の河添剛さんの示唆もあって書いたもので、その一番のきっかけは、ドゥルーズその人が実際にデヴィッド・ボウイを聞いていたという証言をどこかで読んだはずという曖昧な記憶。しかし、その証言そのものをどこで読んだのか思い出せず、執筆の際に少しだけ調べてみたのだけれど見つからないままに放置していた。もしかして、既に始まっている老人ボケの進行の徴候かと危惧していたが、ようやく見つけることが出来た。証言者は Claude Mauriac。1973年1月にドゥルーズ宅での夕食の際――モーリアックの他、リオタールも同席――、アルバン・ベルクの『ルル』や『ヴォツェック』のレコードの後に、ドゥルーズはボウイのレコードをターン・テーブルに載せたという。1973年だから、アルバムだとしたら『アラジン・セイン』か。しかも、その記述の直後に、ジャン・ジュネについてドゥルーズが語っている言葉が記されているから、「ジーン・ジニー(The Jean Genie)」がドゥルーズ家の食卓には流れたように推測されはするが、さすがにそれだと出来すぎた話か。原著が見つからないので、出典の頁数を示すことは出来ないが、この逸話はモーリアックの日記に収められている(Et Comme L Esperance Est Violente. Le Temps Immobile 3, Paris,Grasset, 1976)。この夕べに関しては、丹生谷貴志が該当箇所を抜粋・翻訳しつつ紹介しており(「クロソフスキーの場所」『夜想22 クロソウスキー』ペヨトル工房、1987年、所収)、以上もそれを参考にしたもの。
 というわけで、捏造対談は全くの妄想ではなかった、のでした。(なお、『夜想』クロソウスキー特集のことを思い出させてくれた清水高志さんに感謝します。)
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2014/9/30

デカルト初期思想と哲学者の誕生  哲学
待望の書 Etudes du bon sens, La recherche de la vérité et autres écrits de jeunesse (1616-1631), Edition, traduction, présentation et notes de Vincent Carraud et Gilles Olivo, avec la collaboration de Corinna Vermeulen, Paris, PUF, 2013 がようやく届く。昨年、若い友人にその刊行を教えられてはいたのだが、品切れとかで手に入らなかったのだ。デカルトの法学学士号取得(1616年)の際の「献呈の辞」と遺言に関する「法学論文」――ヴァンサン・カローとアルモガットによって発見された経緯と前者の翻訳が塩川徹也の手によって『発見術としての学問』(岩波書店、2010年)に収められている――から所謂『思索私記』(1619年)、『良識の研究』(1619-1623年)を経て未完の対話篇『真理の探求』(1631年ー!ー)に至る若きデカルトの著述のうち、科学論文や既に校訂版ないしは注釈書の存在する『規則論』を除いた哲学的な遺稿を校訂・翻訳したもの。だが、それらの遺稿を寄せ集めたただの校訂本ではなく、数学者・科学者デカルトがいかにして「哲学者」となったかをクロノロジックに秩序づけられた十分な一貫性と共に示す大胆な冒険の書である。誤解を恐れずに言えば、科学革命の立役者の一人がいつ・いかにして近代哲学の創設者となったか、という問いに答えようとするのであるから、興味は尽きない。
本邦においても、この方面に関して、まずは所雄章の一連の仕事(『デカルトI』勁草書房、校訂新版、1976年; 『知られざるデカルト――デカルト研究拾遺』知泉書館、2008年)があるし、例えば『良識の研究』に関しては、石井忠厚(『哲学者の誕生――デカルト初期思想の研究』東海大学出版会、1992年)や山田弘明(『デカルト哲学の根本問題』知泉書館、2009年)らによる先駆的な仕事があるが――後者には翻訳と註釈が収められている――、カローらのそれは徹底的な再構成を行うことによって先の課題に答えているようであり、それを代表として、本書はデカルトの思索形成史や『方法叙説』の読解などに関して大きな変更を迫る超第一級の資料にして研究である。冬眠から覚めたばかりで慌ただしいため、暫くはとてもゆっくりと検討する時間は取れないけれど、いつか検討結果をこのブログで紹介したい。デカルト研究者の看板を降ろしてしまった私にはその余裕も資格もないから、若い優秀なデカルト研究者が全訳を試みてくれたらいいと思う。
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2014/9/28

大西克智著『意志と自由』合評会のお知らせ  哲学
 大西克智さんの瞠目すべき著書『意志と自由――一つの系譜学――』(知泉書館、2014年)の合評会を、10月31日(金)に東京大学本郷キャンパスで開催致しますので、ご関心のある向きは奮ってご参加下さい。
 本書は、デカルトの意志と自由を巡る思索の意義について、ジルソンを淵源とする研究史を塗り替えつつ、その解釈史的偏向の背景にある哲学史的系譜学を――アウグスティヌスからモリナとスアレスへと辿って――明らかにすることを通して、この上なく深い思索を展開するものです。私の知る限り、今年刊行された哲学書の中で、哲学史的にも哲学的にも最も密度が濃く、また、多くのことを考えさせる書物であると思います。
 スケールの大きな系譜学を描く著書でもありますので、その広がりを共有すべく、スコトゥス、スピノザ、ベルクソンをそれぞれに専門とされる三人の方々をコメンテーターにお招きします。参加者全員による討議にも時間を割くつもりですので、デカルトや近世哲学研究者以外の方々の参加も期待します。


 日時:10月31日(金)17時半から21時まで
 場所:東京大学本郷キャンパス(法文二号館二階教員談話室)
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_02_j.html
 司会:鈴木 泉(東京大学)
 コメンテーター:朝倉友海(北海道教育大学釧路校)、小川量子(立正大学)、村山達也(東北大学)
 タイムスケジュール:
  17時半:司会者による紹介、著者による簡単な自著紹介
  18時:コメントと質疑(それぞれ、コメント25分、応答15分)
    18時:朝倉友海
    18時40分:小川量子
    17時20分:村山達也
  20時:休憩
  20時10分:全体討議
 主催:フランス哲学セミナー
 連絡先:鈴木泉(email:izumisz@mac.com)
 (どなたでも参加出来ます。申込み等は必要ありません。また、終了後、ごく簡単な懇親会を予定しています。)

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 なお、続いて、11月1日(土)と2日(日)には、東京大学の哲学会の大会も開催されます。1日には、熊野純彦さんの著書『マルクス 資本論の思考』をめぐるワーク・ショップ(提題者は著者と小泉義之さん)なども企画されていますので、会員以外の方の場合には若干の参加費が必要になりますが、併せてご参加頂けると幸いです。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/tetsugakukai/
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