お前は逝ってしまった、あの日・・・
恨んだ、一人で逝ってしまったお前を
憎んだ、一人で逝かせてしまった自分を
怨んだ、お前がいない、この空っぽな世界を
けど、そんな俺を、バカすぎるオレを好いてくれた奴が現れたんだ
お前とは違った、けど、根っこは同じの美しい心の持ち主だった
自分の心から湧き上がってくる、「好き」を惜しみもせずに、
乾ききり、罅割れ、痛んだ俺の心に注ぎ、思い出させてくれたんだ
俺がお前を本気で好きだった事
お前が俺を真剣に愛してくれた事
俺のお前への「好き」が偽りなきものだった事
あの日から、ずっと見る俺の夢の中に縛り付けられたお前は、
いつも泣いていた、しゃがみ、俯き、小さくなって
足元に落とす涙は、俺を責めているものだ、と思ってた
辛かった、涙が零れ落ちる音が
お前の足元でなく、俺の心に染みこんでいく涙の熱さが
けど、違ったんだな
お前が責めていたのは自分だったんだ
俺に自由になって欲しい、明日を見て欲しい
けど、己を呪い、自分一人だけに縛られていても欲しい
そんな、全身全霊で愛するが故の自己中心的な考えを責めて、
いつも、声を必死に殺して泣いていたんだ
永遠に一緒にいたかったのに、いてあげる事が出来なかった、
体も心も弱かった自分を、必要もないのに痛めつけていたんだ
俺は、ホントにバカだ
好きだった女を生きている時も、死んでからも、泣かしてしまうなんて
お前が泣く必要なんかないのに
お前が傷つけるべきは、自分じゃなく、俺なのに
今日、アイツが俺を「好き」と言ってくれた
だから、決着をつけよう、と思った
夢の中のお前と、すぐに逃げずに、向き合おう
実らずに終わってしまった、若さゆえに終わらせてしまった恋に
全力で終止符を打とう
俺の中のお前には、いつでも笑っていてほしい
俺が好きだった笑顔だけを、いつまでも残したい
泣くお前に、俺は謝ったりしない、
詫びの言葉を口に出す資格は、俺なんかにない
その代わりに、「ありがとう」を言い続ける
俺を好きになってくれて、ありがとう
お前を好きにならせてくれて、ありがとう
「好き」を思い出させてくれて、ありがとう
俺は明日から、新しい恋をする
お前を泣かさない為、笑っていてもらう為に、
アイツを俺が出来る全力で、いつまでも愛す
守れない約束を交わすつもりはない
だから、これは誓いであり、祈りだ
俺はお前を忘れない為に、思い出したりはしない
好き“だった”お前と、俺と、好きなアイツと一緒に
あの日から続く、明日へ、しっかり歩みだしていこう
ありがとう、ありがとう・・・微笑ってくれて、ありがとう
「凄ぇ御馳走アル!!」
客間に運ばれてきた料理に神楽の口から一気に唾液が溢れ出る。
「−―−・・・ほ、ほぉ、こら凄ぇ」
片眉を上げて呆れた顔で彼女の唾液をハンカチで拭ってやる沖田も、いつになく素直に感嘆の声を上げてしまう。
普段から、屯所では真撰組に属する大勢の男ども、非番の日は自分の倍は軽く平らげる神楽の為に包丁を光らせ、フライパンを振っているだけに、目の前に出されていく料理に使われている素材を見抜けた沖田も口の中がイッパイになった涎が筋になって流れ出そうになり、慌てて口を固く一文字に結ぶ。チラリと隣を見れば、唖然としている近藤の半開きになった唇からは唾液が垂れ落ちていた。
「さ、食べなされ」と敏木斎が促す。そんな彼の前には、一杯のお茶漬けだけが置かれている。
「・・・・・・・・・」
多少の後ろめたさは感じたものの、三人は招待された以上は全力で楽しむべきだと考えていたため、黙って頭を下げる。
(こら、角の先に火が灯り、己の黄金色に輝く巨躯を照らしている、マルスタウルスのステーキじゃないですかぃ。ソースに使われてる醤油は真珠大豆から作った物か? 五年に三瓶しか作れないって代物らしいが・・・・・・
こっちの壷の中身は・・・時速200kmで、深海を遊泳する黒鮪豚の蒸し物かぃ。
スピードと気性の荒さで捕獲も難しい。しかも、捌くのが銀座の料理人でも手こずる上に火が通り過ぎれば、鋸ですら切れなくなると言われてるコイツを焼かずに蒸し、ここまで柔らかくしてくるとは。
一見、普通の煮物に見えるコレに使われてるのも、翡翠隠元豆に、金剛人参、紅玉里芋、瑪瑙茸、黄水晶牛蒡、この小鉢だけで一万は軽く超えてるぞ、おい。
刺身は、どれもこれも銀座のくそVIPしか行けねえ超一流寿司店で、確実に時価って書かれる物・・・・・・特に、この百足海老と白雪栄螺は俺も見るのは初めてですねぃ。
茶碗蒸しに使わていれる卵は、僅かにする蓮華の蜂蜜に似ている香りからして、虹之尾鶏か、しかも、初産み。
この米にしたって、茶碗一杯分が金1kgと同価値と言っても過言じゃない、『天女の雫(ディオサ・ラクリマ)』かぃ。神楽のは丼だから軽く見積もっても・・・俺の月給の半分)
どれも一般の公務員が一ヶ月、不眠不休で働いても拝む事すら叶わない高級食材だ。しかも、地球産ではない代物まで混じっている。さすが、柳生家と沖田は改めて、この家の人間が持っている権力に舌を巻かされる。裏柳生が謀反を企んだ気持ちも判った。決して、九兵衛が当主の器に相応しくないとは思っていない沖田だが、彼女を当主として認めたくない人間にとってはこの力を失うのは、かなり恐ろしいのだろう。
食材の高価さ、貴重さ、調理のレベルは微塵も理解できていなくとも、その美味さを見た目や香りから見抜いている神楽はさすがだと思う。日頃から、美味い料理を食わせてきた甲斐があるものだ、と沖田は内心でほくそ笑むも、一方では、こんなレベルの高い料理を食わせて舌が肥えすぎ、銀時の作る男飯を彼女が食わなくなってしまったら、やはり自分は半殺しにされてしまうだろうか。
自分の作る料理が素材では圧倒的に負けていても、味では決して劣っていないと本気で思っているのが、沖田の凄さである。
沖田が食材の価値を見抜いているのを、ポーカーフェイスが常の彼が完全には隠し切れていない動揺から見抜いた輿矩は満足気に頷く。
「近藤殿は元より、沖田殿もかなり活ける口と聞きましたが」
そう言って、輿矩が手を叩いたのと同時に、女中が運んできた酒に沖田は目を剥く。
「そ、双頭黒龍の大吟醸?!」
「ほっ、さすがですな」
「い、いや、輿矩さん。昼食のお誘いはお受けしましたが、我々はまだ仕事の途中ですので、酒はさすがに」
「いやいや、近藤殿、そんな硬い事は言わず」
いくらか押し問答を繰り返していた近藤と輿矩だったが、ついには近藤が押し負けてしまい、コップ一杯だけ飲む話になる。
「う、旨いっっっ」
渋々と言った風だったのに、口に含んだ瞬間、近藤は口いっぱいに広がった旨みに叫んでしまい、罰が悪そうに顔を伏せつつ大事そうに飲んでいく。珠にして転がすようにして舌の上でじっくりと味わう沖田も鼻から静かに抜けていく、仄かな酸味が発すふくよかな香りと、喉を通る透明さに目を細める。
「むぅ、私も飲みたいネ」
「こら、正真正銘、舌が肥えてる大人だけに許された味なんでね。
大体、アンタが飲んでる燦々オレンジのジュースも結構な値段がする筈ですぜ。でしょう?」
沖田に聞かれた女中は頬を赤らめながら頷く。
「さぁ、どうぞ」
「では、いただきます」
行儀良く手を合わせて感謝の意を示した三人は箸を手に取った。
「!!」
「!!」
「!!」
どれもこれも「美味い」の一言すら出すのも惜しくなる味だった。感想を言おうと口を開くと、勝手に箸が次の料理を口の中に入れてしまうのだ。
近藤も神楽もこんな料理、めったに食えるものではないと解っているからだろう、普段のように乱雑な食べ方などしないで、落ち着いて黙々と手だけを動かしている。
三人の中でまともに料理をする沖田は、柳生家に仕えている料理人の『技』を盗んでやろうと思いながら、味覚だけを尖らせて食事中とは思えない、若干、殺気だった表情をしていた。とは言え、根幹にあるのは「腕と舌を磨いて、神楽にもっと美味い物を食わせてやりたい」なのだから微笑ましい。
普段は緊急時に備えて早飯をモットーとしているにも関わらず、沖田も近藤も一時間近くかけてしまい、やや反省しつつ、食後の玉露をすする。女子らしく甘い物は別腹な神楽はデザートの一本五千円の芋羊羹を、妙の家でやっているように丸々一本食いなどせずに、楊枝で薄くしながらゆっくりと食べては笑顔になっている。
隣でそんな至福せそうな食べ方をされたら、気になってしまうのが人間と言うもので、神楽に手を合わせて一切れ分けて貰い、口の中に含んだ瞬間、沖田は銀時に殺される覚悟を決めた。
(こいつぁ、何だかんだで優しい奴だから、出されたら食うだろうが、もう安売りされてる羊羹を美味しいとは思えなくなっちまったな)
自分ですら、他の羊羹を食べた時、甘さに物足りなさを感じてしまうだろうと思うだけに、食べる一点に関しては他に追随を許さない神楽の中では、この羊羹は最高位になってしまっただろう。
(甘味は俺自身が得意な方じゃねぇから、滅多には作らないにしろ、コイツを超える羊羹を作れる自信はねぇな・・・
そもそも、使ってる芋が地表の九割が溶岩に覆われてる火山ばかりの星、ヨンイアン星のラーヴァポテトだろうから、一本でも手に入れるのは骨が折れる・・・いや、大火傷しちまうかねぇ)
甘露の刻を過ごさせて貰い、頭を下げようとした三人を手で制したのは、それまで黙りこくっていた敏木斎であった。
「―――・・・沖田殿、神楽殿、そして、近藤殿、この度は誠、お世話になった」
姿勢を正した父親が三人に真摯な表情で感謝の意を示すと、輿矩も三人に畳へ額を擦り付けるようにして頭を下げる。
「本当に、秘密裏に、娘の命を救っていただき、言葉もありません」
「いや、そんな・・・・・・」
こんな年上の人間に、こうも深々と頭を下げられる経験が今まで一度としてなかった神楽は慌ててしまう。近藤と沖田は仕事柄、年配の人間に頭を下げられる事は少なくないので取り乱したりはしなかったが、さすがに自分達へ頭を下げているのが柳生家のトップとなると、少しは戸惑いが顔に出てしまうのは、人生経験の差だろう。
「我々は柳生家の跡取りである柳生九兵衛を助けたのではなく、ただ大事な友人の一人の笑顔を守っただけなので。
ただ、不躾ながら、私から一つお願いが」
両の拳を畳に沈むように落とし、体重をかけた近藤は頭を下げ、怪訝な表情を浮かべて貌を上げた敏木斎と輿矩を半ば脅しを効かすように睨みあげる。
「何ですかな、近藤殿?」
若かりし頃は戦場で命のやり取りを繰り返し、高下駄で敵兵の頭を踏んで長槍を華麗に避けながら、小太刀一振りだけを背負って大将へ攻め込んでいく姿から『鴉天狗』と謳われた敏木斎は近藤の放つ気迫を平然と受け流して問い返した。
(こら、驚いた)
沖田は心中で舌を巻いた、敏木斎の技とも言えぬ技に。普通の相手なら、近藤レベルの人間が放つ気迫を同等の気迫で耐えるか、押し返そうとする。現に、沖田も稽古中はそうするし、あの瓜生も彼の気が生み出す幻像に己の幻像をぶつけていた。
しかし、どうだ、柳生家先代・柳生敏木斎は幻像の一端を出すどころか、近藤が放っている、一般人なら息苦しさを覚えても何ら不思議ではない密度の気迫を、どんな暴風雨での中でも折れもせず千切れもしない柳のように飄々と流しているではないか。沖田が土方の殺気交じりの怒気を話術や態度で受け流すのとは、まるで比べ物にならない。
(気当たりを自分の気で防ごうとするのは、剣・拳関わらず、戦闘に関わる人間にとっては脊髄反射って言っても良い・・・・・・
だけど、この爺さんは、近藤さんの気になんて、まるで気付いてないみてぇだ。
アレで素人と見縊って、下手に間合いに近づいた賊はバッサリって訳か。
これが本物の『達人』か・・・・・・本当に世の中は広ぇなぁ)
以前の騒動で、敏木斎を負かせたのは、本当に運が良かった。こちらに面白い事が大好きな偶然を司る女神が、息吹をかけてくれただけに過ぎなかったようだ。
気味の悪さを覚えるほど、銀時の策がカチリと嵌ったからこそ、彼に一撃を入れられたのだ。考えたくもないが、彼が最初から本気だったのなら、自分達は十分と経たない内に彼一人に皿を割られていただろう。下手をすれば、死人だって出ていた可能性もあった。生きて、しかも、自分の足で柳生の邸を出られたのは奇跡に近しい現実だったのだ、と改めて思い知らされる総悟。
沖田総悟は嬉しくて笑顔になってしまいそうになるのを必死に、頬の筋肉に力を入れて耐えていたが、あまりにも湧き上がってくる感情が強すぎるのか、口の端が不自然に引き攣ってしまっている。
敏木斎に頭を下げていた近藤は沖田以上の驚きを覚えていたが、固まっていても話は進まないと緊張を解く。
「今回の一件に関わった、裏柳生の人間に一切の責を負わせないで頂きたい」
言い終わったと同時に切り伏せられる事も覚悟した上で、一気に言い放った近藤の申し出に輿矩は「何を」と唖然としたが、敏木斎は「ふむ・・・」と小難しい面持ちで鼻の下に生やした白いヒゲを幾度か撫でる。
「だが、近藤殿・・・・・・」
一瞬、室内の空気が隅々まで、「ピシリッ」と、確かに耳が痛くなるほどの割れた音を発して冷たくなった。
しかし、その瞬き一回にも満たなかった刹那、沖田も近藤も神楽も自分の首が落とされたような錯覚を覚えた。さすがに、その手の経験は何度も味わっているので意識が混濁して決定的な隙を晒すような真似はしなかったものの、咄嗟に冷たい汗が筋となって流れていった首を撫でて、しっかりと胴から生えている事を確認し、無様にも安堵の息を長く吐き出してしまう。
輿矩が腿の上に拳を置いて背筋を伸ばしたままでいるので、「見かけによらず大したものだ」と感心した沖田だったが、あれ程の鋭利さだったにも関わらず身動ぎしないのは妙だなと思い、よくよく注視すれば正座したままで気を失ってしまっているようだ。
九兵衛の父親で、敏木斎の息子である輿矩だが、若い頃はともかく、今では剣の腕の方はかなり錆び付いてしまっているようで、今でこそ過酷な自己鍛錬を課して地力を上げたものの、かつては仲間内だけでなく、門下生にも「顔面男性器」やら「目が合った女を妊娠させる」とまで言われて四天王最弱であった頃の南戸にも勝てないらしい。
(息子の実力を解ってる上で、あんな気を至近距離で・・・容赦ねぇなぁ)
神楽は、今の、鳳染にも劣らない殺気を孕んだ気迫を放ったのが、いつもゴミ紛いの物を拾ってきては隣の息子に怒鳴られていたり、九兵衛と気持ち良い汗を流した自分に和菓子を出してくれたりする好々爺だとは信じられなかった。だが、びっしりと肩まで粟立った腕がそれが事実である事を示している。
敏木斎はコリコリと鼻の下を掻いてから、近藤の額に貼られている絆創膏や隊服の隙間から見え隠れしている包帯を指す。
「自分の大事な友人と部下の命を狙った上に、近藤殿にもかなりの傷を負わせた人間達に何の罰も与るな、と?
見た目からは判らんじゃろうが、腸がマグマよろしく煮えくり返っているこのワシに、大事な孫娘をつまらん名誉心から害そうとした人間を許せ、と?」
敏木斎が崩した足をピシャンと叩いた瞬間、今一度、室内の空気が凍りついた。しかも、先程より鋭さが増している。
今度は、三人とも臍の下にグッと力を入れなければ、気圧に耐えられなかった。今しがた、食い終えた高級食材が逆流しそうになる。
だが、近藤は拳を畳に更に押し付けると、表情を何ら変えないで佇んでいる敏木斎を真っ直ぐに見つめ、直訴する。
「はい、そうです。あと、トシは部下でなく弟のような存在です、俺にとっては。
それに、瓜生殿はつまらない自尊心や名誉心に振り回されてはいませんでした。
ハッキリ言って、方法こそ間違えてはしまいましたがっっ、心の底から柳生家の繁栄と安定、そして、九兵衛ちゃんの未来を考えて身を投げ出せる、立派な方でした」
この状況で、敏木斎相手に口答えをするなんて、このゴリラは命が惜しくないのか、と神楽は肝が冷える。近藤の定石無視の無茶な行動に慣れている沖田も、さすがに途中で止めようかと迷ったほどだ。
「ふむ」と呟いた敏木斎はまた膝を打ったが、今度は室内の空気は冷たくならなかった。
思わず、ホッと安堵の息を大きく漏らし、防衛本能で止められる前に動くのを止めようとしていた心臓を内側に収めた胸を撫でてしまった沖田と神楽だったが、次の瞬間、今しがた吐いた息を呑んでしまう。
自分達の目の前に胡坐をしていた敏木斎の姿が揺らいで虚空に溶けてしまったのと同時に、近藤の左側へと迫っていた彼が懐から目や肌で察知が出来る予備動作無しで抜いた扇子が近藤の無防備な首筋に押し付けられていた。一見すれば安物の扇子だが、敏木斎ほどの『達人』が、穏やかとは言えない質の気を込めて振り下ろせば、近藤の太い首ですら割り箸を両断するよりも簡単に落として見せるだろう。
実際、今でも近藤は扇子が押し付けられている箇所に、焼けた鉄箸を当てられているような痛みを伴った熱を感じているはずだ。
座敷に通される前に刀も鉄傘も預かられてしまっていたが、そんな瑣末な事など頭から追い出し、咄嗟に、手近にある物の中で最も人を傷つけるのに適した箸を掴んだ二人とも反射的に近藤を守ろうと跳び出そうとした。
「動くなっっっ」
しかし、自分達の方を見ぬまま敏木斎が放った『一喝』に全身を打たれてしまい、指の一本すら自分の意思では動かせなくなってしまう。強引に動こうとすれば、後遺症が残りかねない、そんな強烈な呪縛だった。
(り、臨兵闘者皆陣烈在前!!)
沖田は素早く心中で九字を唱えて、肉体の硬直を解こうとしたが彼の鍛えられた胆力を以てしても敏木斎の術は退けられなかった。
敏木斎への怒りよりも、沖田は自分の鍛錬不足が恥ずかしくなり、腹の中が艶黒の感情が烈しく渦巻く。
獣の姿をしているのか、人の姿をしているのか、もしくは、ごちゃ混ぜな姿なのか、自分と神楽の背中には敏木斎の幻像―ちなみに、敏木斎の闘気の形は、直視した者の両目を潰すだけは飽き足らず、仮にその者の心が不浄ならば、容赦なく一握の灰燼に変える眩い、魔を滅し、邪を祓い、鬼を伏せさせる閃光を、翼を広げれば10mに及ぶであろう巨体から放つ隼であったーが足を乗せて押さえつけているのだろうが、その姿がまるで視えない。これは、自分と敏木斎が身に付けている戦闘力に月単位では埋められない、絶望的とも言える、二次創作の世界ならば断崖絶壁で表現されるような『実力差』がある事を意味していた。
そんな喉を掻き毟られるような悔しさに悶えているのは神楽もだった。ジッとしているのが決して得意ではない彼女は、沖田のように座禅を組んで心を鍛えている訳ではない。
それを神楽は悔いていた。肉体的な強さを追い求めていけば、心なんて勝手に強くなっていくと高を括っていた自分が恥ずかしかった。
(俺は―――どうして、こんな、弱ぇんでぃ・・・・・・)
(―――・・・私は・・・・・・何て、弱いアルか)
(肝心な時に、大事な人を守れないで、這い蹲ってるなんて)
(夜兎の本能に勝つには、揺るがない『心』が必要だって、何度も思い知らされてきてたのにっっ)
そんな若い二人の葛藤に気付いているのかいないのか、沖田と神楽をチラリと横目で見た敏木斎は扇子を軽く押し付けた。
「今一度、聞こうかの・・・近藤殿、わしに何を望む? 金かの、地位かの、柳生でどうにかなるもんなら、何でも用意するぞ・・・・・・好みの女を連れてきてもいい、どこかからな」
肩に圧し掛かる重圧が増したのか、近藤は低い呻き声を上げた。
「ぐぅ、では解らんな、近藤殿。
ジジィの遠くなった耳でも聴こえるよう、ハッキリと言って貰わんと」
既に、近藤を見下ろす敏木斎の、高貴さと残忍さが両立し、奥底からギラつく目は好々爺のそれから、捕食者のモノに変わっていた。
「私は・・・・・・」
本能的な恐怖に耐えるべく噛み締めすぎて、縦に割れてしまった奥歯を吐き出すように、乾いた叫びを腹から絞り出した近藤。
「敏木斎様を初めとした皆様に、表の柳生と裏柳生に馬鹿馬鹿しい、無駄な争いを止めて頂きたい」
言ってしまった、体を動かせていたら天を仰いでいたであろう、沖田と神楽の胸中に絶望感が広がった。命乞いをして欲しかった訳ではなかったが、少なくとも、相手の怒りに火を注ぐような言動は止めて欲しかった。
「も、勿論、何百年と続いてきた軋轢です、簡単には行かないでしょう。
ですが、九兵衛さんなら、裏柳生と無用に争わないで済む、これまでとは違った関係を築けるかも知れません。
なのに、今、私的な憎しみに駆られて、正当な物だとしても罰を課せば、不要な禍根を間に残すだけです」
近藤は半ばヤケになっていた。沖田が動けないのだ、自分が敏木斎に勝てる道理は無い。ならば、自分の中に溜まっていた表裏関係なく『柳生家』に対して感じていた鬱憤を吐き出しておかなければ、幸か不幸か生きながらえても、後悔だけが残るだろう。今のご時勢、武士道は廃れたと陰口を叩かれていても、一人の武士として、そんな終わり方は御免蒙った。
「私は不肖な身ながら、真撰組を率いています。
だから、この首は差し上げられません。
ですが、敏木斎様の怒りも尤もでしょう。
私の腕一本で、その怒りがわずかにでも薄まるのなら、どうぞ落として下さい」
砕けかけていた心を奮い立たせ、近藤は右腕―利き腕だったーを上げ、肩口から斬りやすいように畳と平行になるようにする。
「―――・・・天晴れな覚悟じゃな」
敏木斎は扇子を首から、近藤の右肩にゆっくりと移していく。そうして、扇子を押し当てる。木と紙だけで作られている扇子は、まるで石斧のような重さを含んでいた。
「じゃが、一組織を率いる将としては不合格」
「やれやれ」と肩を竦めた敏木斎がピシャンと近藤の頭を扇子で打った瞬間、室内の隅々にまで蔓延っていた殺気が霧散した。
「え」
近藤は叩かれた頭を押さえ、呆然とした面持ちで敏木斎を見やる。
「ええじゃろ、近藤殿の腕を賭けた懇願、受けよう・・・と言いたい所じゃが」
「じゃが?」
「馬鹿息子はともかく、わしゃ、最初から裏柳生の奴らをどうこうするつもりは毛頭、ないわぃ」
「ぅえ!?」
「へ?!」
「はぁ!?」
飄々とした顔で、これまでの恐喝&脅迫めいた質問は何だったの?! とツッコミたくなるような台詞を何の躊躇いもなし、悪びれもせず、言い放った敏木斎。
「悪さばかりする子ほど可愛い、と言うじゃないか」
「それに」と敏木斎は寂しそうな表情で、扇子を懐へと収める。
「今回の一件、既に瓜生がその命で償っとる。
勝手に、てめぇ一人で何もかも背負って逝っちまったアイツの為にも、過激派の一波も含めて、裏柳生に与する人間には責任を負わせられんし、罰も与える気は全く無い。
輿矩がギャアギャア言ったら、わしが黙らせる」
小さな手で拳骨を作った敏木斎の、普段はトボけた色が浮かんでいる緩い顔には、断固とした決意が漲っていた。瓜生をその手で斬った近藤は軽く目を伏せた。そんな彼の肩を敏木斎は優しく叩き、「アンタは間違った事をしておらんよ」と穏やかに慈愛に満ちた声色で諭した。
「ありがとうございます」
「さて、と」
腰を叩くと、彼は床に伏したままの沖田と神楽に緩慢な足取りで歩み寄ると、二人の強張りだしてしまってた背中に掌を当て、剋目と同時に気合を叩き込んだ。
「憤っっっっ」
背中から服を突き破るような勢いで体の前面まで一直線に抜けた敏木斎の気合は、沖田と神楽の肉体を縛り上げていた、不可視の鎖を千切り飛ばした。
「やれやれ、年は取りたくないもんじゃな。
昔なら、声を使わんでも眼光一つで、大概の相手を動けなく出来たんじゃが。
とは言え、わしが老いたと言うよりも、二人の地力が高いのもあるんじゃろうな。
これからも、驕らず、地道な研鑽を積んでいくとえぇ」
神楽は敏木斎の決して「上から目線」ではない励ましに、目を嬉しそうに輝かせて「はいっ」と大きく頷いた。しかし、隣の沖田は身動ぎ一つしない。術を解かれている筈なのに、体を起こさずに額を畳に当てたままでいる。
「おや、沖田殿? どうした・・・無理が祟って、動けなくなったか?」
「だ、大丈夫か、総悟」
やや険しい表情を浮かべた敏木斎が近づこうとした刹那、沖田が上半身を起こす。そして、両手の親指と人差し指で三角を作るように手をしっかりと畳に付けると、真剣な表情を敏木斎へと向ける。
「―――――――・・・・・・敏木斎先生、俺に稽古をつけてくだせぇ、お願いしやす」
背筋を真っ直ぐに伸ばし、沖田は手で作った三角に額を当てるようにして、敏木斎へと頭を垂れた。
(総悟・・・・・・お前)
近藤は顔色と言葉を失う。
沖田が強さに対して、付き合いの浅い者が辟易するほどに貪欲で、どんな、オリンピック強化選手ですら心が擦り減って壊れてしまうほどの、「辛い」や「厳しい」では表現が追い付かない稽古も苦にしない、と自分は知っている。自分より年下でも、見た事のない技を使うのなら、何ら躊躇わずに教えを請う素直さも有している事も知っていた。
だが、沖田総悟と言う、少年の頃から知っている青年が、誰かに対して本気の土下座をするのを見たのは、かなりの長い付き合いの中でも初めてだった。誰かに教えを請う時も、頭を下げるのだが何処となく高圧的な、「教えなきゃ殺す」と背中で脅すような下げ方なのだ。
当然、秘伝だからと断られた時もある。そうしたら、さすがに相手を痛めつけて強引に聞き出すような真似はせず、目で所作の隅々まで見尽くし、自分の体で威力を味わい、その技を盗み出してしまう。その上、独自の改良を重ねて、オリジナルに変えてしまう、それが沖田総悟だ。
なのに、今の彼は、相手に心底からの、野球少年がプロ野球選手に抱くものに近い、純粋な敬意を表し、心を込めて頭を下げて懇願をしていた。
彼が幼少の頃からの付き合いで、兄と言うよりは父親に近い感情を沖田に対して抱いていた近藤は、彼の『心の成長』が嬉しく、優しい光が宿った双眸からは涙がボロボロと零れ落ちる。頬を球となって転がっていく、それを拭わずに見守っている姿は、実に男らしかった。
近藤と同じように、正座で頭を下げる沖田に呆然としていた神楽も、キュッと唇を噛むとそれに倣った。
「お願いしますっっ」
二人の声が重なり、敏木斎は困惑の色が濃い面持ちで右耳を指で掻く。
そうして、頭を下げ続けている二人に背を向けて、淡々とした調子で一言。
「・・・・・・土曜日、午後の二時頃なら空いとるよぉ」
「!! ありがとうございますっっっ」
パァと表情を輝かせた沖田と神楽は小さくガッツポーズを決めてハイタッチを決める。そうして、姿勢を正して表情を引き締めなおし、「やれやれ、若さってのは財産じゃな」と、気を失ったままの息子を引き摺りながら部屋から出て行った敏木斎の背中に頭を下げた。
後日
沖田と土方はいつも通り、ペアを組んで街を馬鹿話に花を咲かせながら巡回していた。
空になった煙草の箱を潰した土方がふと、右に目をやると九兵衛と東城がこちらに歩いてくるのが見えた。少し遅れて、二人も土方達に気付いたようで、九兵衛はほんの少しだけ頬を赤らめてはにかみ、東城は苦々しい色を瞳に翳らせたものの、土方を認める、そう自分で決めた以上は何も言うまい、と奥歯をグッと噛み締めた。
(大変だねぃ、あの人も)
東城の葛藤が手に取るように察せ、沖田は同情交じりの苦笑いを漏らした。
「よぉ、きゅ・・・柳生、買い物か?」
「うん、土方君。パトロール中かい?」
「あぁ、そろそろ、飯にしようかと思ってた所だけどな。
四人で、適当な店、入っか」
自分の真っ直ぐな気持ちを余す所無く吐き出した事で、逆にこれまでのように二人きりで食事をする自信を失ってしまっていた土方は動揺を気取られないようにしながら、周囲を見回した。九兵衛も彼と同じ心境らしく、目を巡らせる。
だが、沖田はそんな初々しいピンク色のオーラを振りまかれながら、飯を食えるほど神経が太くなかったし、醤油を取ろうとした拍子に手が触れて顔を赤らめたりする土方など見たくもなかった。
「あ、俺ぁ、パスで。神楽と飯を食いに行く約束してるんで」
「私も輿矩様に頼まれた買い物がありますので」
わざとらしい態度で、昼飯の誘いを断った沖田と東城は自分達を慌てて呼び止めようとする二人の声になど耳を貸さず、素早く群衆の中に紛れ込んでしまった。
「あ、あんだよ、付き合いの悪ぃ野郎どもだな・・・・・・」
そう悪態を突くも、土方は困り果ててしまった。先にも述べたが、土方は食事をしている間、今までのような態度でいられる自信は欠片も無かった。
だが、ここで「食事に行く」流れを有耶無耶にしてしまうのも勿体無い話だ。
(えぇい、くそぅ、どうとでもなりやがれ)
腹を決めた土方は、戸惑いもあからさまに人ごみの中に消えてしまった従者を救いを求めるような目で探している九兵衛の眼前に、木刀ダコや薄くなった切り傷が目立つ無骨な右手を突き出した。
「ひ、土方君?」
「今日は、土方スペシャルを奢ってやるよ」
驚きで瞼を上げた九兵衛だったが、すぐに首を縦に振り、土方が差し出した手を握った。
祭りの時よりも、確かに熱くなっているお互いの手を決して離したりなどせず、二人は幸せそうな笑顔で、他愛の無い会話をしながら、土方お勧めのお好み焼き屋に軽い足取りで向かい出した、その時だった、
(十四郎さんのコト、よろしくお願いしますね、九兵衛さん)
「え?」
「どうした?」
九兵衛が突然、体を緊張で強張らせたので、土方も自ずと周囲に鋭い視線を巡らせ、「網」を展開してしまう。
「い、いや、何でもないよ」
九兵衛は未だに心配そうな面持ちで、慌てて取り繕ってしまった自分の顔を覗き込んでくる土方を安心させるように微笑むと、彼の手を一層、強く握り締めて足を前に出した。
逢った事も、話した事も、当然ながら一度も無いけれど、九兵衛は自分に語りかけて来た優しい声の正体を悟っていた。
(僕は、貴女の『存在』を土方君の心の中から消す事は出来ないでしょう。
だからこそ、僕は彼と一緒に、貴女の分も幸せに、笑顔で溢れた生活を送っていきます。
どうか、僕らの行く道を見守ってて下さい)
その瞬間、沖田はどうして、足を止めたのか、振り返る気になったのか、自分でも解らなかった。
ただ、懐かしい気配をわずかに感じた。
だから、遠くに姿が見えている九兵衛の傍に、自分が見間違える筈のない女の影を見てしまった時は、本当に心臓が止まるかと思った。
何も考えずに飛び出そうとした刹那、その女は沖田の方に、彼らがかつて、侍道を行く際の心の支えにしていた、淡月を連想させる微笑みを緩やかに携え、その小さくも大きかった手をゆっくりと振った。
思わず、急ブレーキをかけてしまった沖田が瞬きを一回した間に、その女の姿は何処にも見えなくなっていた。
しばらく、周囲の者に視線を向けられているのにも気づかないほど、呆けた表情でその場に立ち尽くしていた沖田だったが、不意に可笑しさが腹の底からこみ上げて来てしまい、遠ざかっていく土方と九兵衛に背を向けた。
「♬誰かが変えてくれる、と思った。誰かって誰だ?♩
🎶俺は人を救う事なんて、できやしないけど、自分くらいは救える。俺はせめて、俺の事を救おう♪」
彼は、ここ最近、ラジオでよく流されている軽快なポップを口ずさみながら、自分の愛しい人が同じ歌に耳を傾けながら待ってくれているであろう、小粋なカフェテラスへ足早に向かう、今しがた、自分が見たモノを話してやろうと心を浮つかせながら。
(姉上、俺は今日も、好きな奴を好きでいられて、幸せって呼べるもんを体で、心でちゃんと感じてますぜ)

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