私は今でも忘れていない
まだ、その感情の名も知らなかったほど幼かった頃、貴方の肩の上から見た、夜空に咲いた大輪の花花を
とても綺麗だった
あの夏の日は私の中で決して色褪せない想い出だ
あれから、どれほどの年月が流れたのか
私はあの人とさほど変わらない年齢になった
夜空に咲き乱れる花の美しさは決して変わらない
だけど、何故でしょう
思い出以上に「キレイ」と思えません
きっと、貴方が側にいないから
きっと、一人で見ているから
今なら解ります
初めて好きになった貴方と見られたから、あれほどに綺麗だったのだと
でも、子供だった私は芽生えていた初恋を自分で潰してしまった
誰よりも優しくしてくれた貴方に、あんな痛そうな顔をさせてしまった
ただ、素直になればよかったのに
ただ、一言を叫べばよかったのに
ただ、追いかければよかったのに
でも、今、私は後悔はしているけど不幸じゃありません
破れた初恋は痛かった、苦しかった、辛かった
だけど、それは私をしっかりと成長させてくれた
ほんの一段だけ、『カッコイイ』大人になる為の階段を登らせてくれたから
だから、今度、会ったらお礼を言わせてください
「素敵な初恋をありがとうございました」って
今なら、貴方を一陣の疾風のように私の前から連れ去った、貴方の愛しい人と大親友になれると思うんです
そして、僕はまた走り出す
もう走って答えが出せる、なんて考えはなくなってたけど、走り出したのだからとりあえず「つきあたる所」まで走ろうって
「へ? つきあたりまでって・・・・・・北海道の?!」
日当を受け取った新八の言葉に、面々は驚きを隠せない。
「っつーことは稚内?
遠いぞ―――、大丈夫か? おい」
しかし、新八の芯の強さを短い付き合いだったが垣間見た一同は心配そうな言葉をかけていたが、「こいつなら出来るだろう」と根拠のない信用を向けていた。
「ま、気ィつけてな」
「はい」
力強く、首を縦に振った新八に面々はポケットや鞄の中身を探り出した。
「名ごりおしーなー。ホレ、せんべつ」と使いかけのテレかを渡す者、「北海道は夏でも、夜は冷えるから」と着古したウィンドブレーカーを渡す者、「元気でのー」とお気に入りのハラマキを渡す者。
新八は様々な微妙感が漂う餞別に戸惑いの表情を浮かべながら礼を言う。
「あ・・・ありがとうございます」
ふと、新八は一番の恩人の姿がこの場にいない事に気が付いて、不安そうな顔で周りを見回す。
「あ、あの・・・京さんは?」
「あぁ、何か、『実家に行く』って、ゆうべ出て行ったけどな・・・・・・」
「そ・・・そうですか」
肩を落とした新八に晴太が声をかけてきた。
「オーイ、早くしろよー。自転車屋、あくぞー」
京さん・・・・・・お別れなのに・・・そっか、残念だな
「そ・・・そうですか。じゃあ、そろそろ」
さいごに自転車、一緒に選んでもらえたらって思ってたんだけど・・・
寂しさを覚えつつも、これ以上は出発を遅らせられない新八はそんな感情を押し殺して面々に頭を下げる。
そうして、背を向けようとした時だった、
「お―――い、まっとくれや―――」
まさかの声に視線をそちらに向ければ、汗だくの京次郎が新八の元まで走ってきた、自転車に跨って。
「きょ、京さん!?」
いきなり、京次郎が自転車を漕いで現れたものだから新八の眼鏡はズレてしまう。
「ふ―――、間に合ったわ―――」
シャープな顎から止め処なく流れる大粒の汗を拭い去った京次郎は苦笑いを見せる。
「やっぱ、久々だとキッツイの―――坂がっっっ・ふーっ、あついのぉ」
驚きが収まっていない新八に詰め寄った京次郎は彼の方に、自分が今、漕いできた自転車をそっと押した。
「ほれっっ、これ乗ってけや」
「え?」
「儂んじゃ。貸したるわ。メンテはしといた」
「え?」
「ちぃと古いんじゃが、悪くないヤツじゃ」
新八は興奮と驚愕で、京次郎の顔と磨かれた自転車を交互に見るしかない。
「え・・・・・・でも、何で?」
新八は京次郎の自転車を見て、一つの疑問が頭に浮かぶ。その自転車は、つい先日に自転車屋で買おうと決めた代物に近い、洗練された鋭い形をしていたからだ。
「これ、長距離用じゃないですか? ど、どうして?!」
すると、京次郎もそうだが、後ろの面々がやけにそわそわとし始めた。
「え? あ・・・あぁ、まぁ、その・・・何っつーかの」
照れ臭いのか、誤魔化すように汗を拭う京次郎は不思議そうな顔で覗き込んでくる新八から視線をわずかに逸らしながら絞るような声で答えた。
「儂もやったんじゃ・・・・・・大学の頃にの。
その、何つーかの・・・・・・日本一周ってヤツをの?」
この告白には新八だけでなく、晴太も驚かされる。特に、京次郎を本当の兄のように慕っている晴太のショックは大きかったようだ、問い質す声がかなり震えてしまっている。
「きょきょきょ、京さんも!? 『自分探し』をっっっ!?」
「おぉ。あー、こそばゆいのー」
言ってしまえば腹も据わるのか、京次郎は頬を熟れたトマトよりも赤くしながらも力強く頷いた。
「懐かしーなー。うんうん、京次郎も倒れてたんだよなー、旅の途中でよ」
「そーそー、修復中の京都の寺の竹林の中でな―――。
ハハハ、あの頃はまだ、京も可愛かったよなー」
「まぁ、今でもかわいいがのぉー」
面々は若き日の頃の、人生の迷い人であった京次郎を『拾った』日の事を、昨日どころか五分前の出来事のように鮮明に覚えているらしい。
「こないだ、志村君がココの境内で倒れてんの見た時ゃ、『あぁ、また来た、青春の迷い人が☆』って、すぐ思ったよ」
まさか、自分と京次郎の人生に重なっている部分があったとは予想もしていなかった新八は間抜けな呆け顔になっている。
「京さんが、そんなっっ、青くさい事していたなんてっっ」
理想像に亀裂を、よりにもよって本人に入れられた事がよほどショックが大きかったのだろう、晴太は思いっきり失言をかましてしまう。
ハッとした時にはもう遅く、京次郎は逃げようとした晴太の襟を掴んで胸元まで引き摺り寄せる。
「―――っつー訳で、浮いた五万は食費の足しにでもせぇや」
晴太の口元を手で覆って彼が蒼白な顔でタップしても決して力を緩めない京次郎は爽やかな笑顔で新八に優しい言葉を旅道具と一緒に贈る。
「―――んで、コレももっていけや、儂が作った日本地図じゃ」
京次郎は半分に畳んだ地図に走っている赤線を指して説明をする。
「赤い線が坂のキツイとこじゃ。車の地図にゃ乗っとらんからの。
それに、工具に替えのチューブじゃき。道内に入ったら、もう店も民家も殆どないからの」
白目を剥いて泡を口の端から噴いた晴太を離した京次郎は戸惑いを隠せないでいる新八の首へと、チューブをかけてやる。黒くて太い、無骨も過ぎるネックレスもあったものだ。
「水くむトコもないからの、道の駅を上手いこと使うとえぇ。
国道沿いにポツポツあっから、マップを貰うんじゃぞ、ちゃあんと。
最初の駅でMAPをもらうとえぇわ。儂が行った頃より駅ぁ、増えてるハズじゃろうからのぅ・・・・・・ほれぇ」
何から何まで自分の世話を見てくれ、道具やアドバイスまで最高の餞別としてくれた彼に新八は礼の言葉もない。
「京さん・・・あの、ボク、何てお礼を言ったらいいか・・・・・・その・・・」
首に圧し掛かる重さや京次郎への感謝で俯いてしまった新八に対して、京次郎は悪サイドっぽい笑みを浮かべて肩を張り飛ばす。
「礼なんてえぇわ。貸すだけなんじゃからの。やらんぞ?」
彼の言葉の真意を察し、目を見張った顔を上げた新八の頬へ京次郎は握った拳を軽く捻り込む。
「―――じゃから、帰りにまた寄れや、ここに。ソレを返しにの。八月いっぱいはここにおるき」
京次郎の悪どいが爽やかさも薫る笑顔に新八の不安は一気に払拭された。
「はい」
「おいっ、いつまでしゃべってんだよ。早く行けっつの」
後ろ髪を引かれてなかなか出発できない新八に、京次郎に活を入れてもらって目を醒ました晴太はいよいよ焦れて、彼の肩を掴んで強引に自転車の方へと引き摺る。
「あっ、はい」
「キリがねぇんだよっっ、まったく」
「またのぉーっっ」
「カニ送れよ―――」
「ムリだっつの」
「じっ、じゃあ、またっ。
あのっ、ありがとうございましたっ」
自分に大きく手を振って見送ってくれている一同に新八は晴太に引き摺られながら、大きな声で心の底から感謝の言葉を叫んだ。
自転車に跨った新八はもう一度だけ振り返って、眼鏡を上げると京次郎にも負けない清々しい表情で礼と一緒にある言葉を叫んだ。
「お世話になりました。
行ってきます」
―――そして、僕はもう一度、走り出す
「元気で走れよー」
「トラックに気をつけろよー」
石灯籠に腰を下ろしていた鳳染は去っていく新八をあえて表立って見送らずに、賢人の面持ちを携える老齢の白猫に彼の旅の無事を祈ってやった。
あの雨の夜に飛び出したのとは全然、違うきもちで
新八は何度も振り返りながら、笑顔で大きく手を振り続けた、その度にバランスを崩しそうになりながら。
「さーてと、さくっと足場をやっつけるか」
「お―――しっ」
新八との別れは名残惜しかったが、彼のためにもサクッと頭を仕事モードに切り替えた一同。
そんな中で、晴太だけは淋しそうな顔で、既に背中が見えなくなった新八が曲がった角をじっと見つめていた。
「・・・・・・・・・」
晴太はいつまで経っても喧嘩腰で、最後の最後まで新八のことを邪険にしていた。だが、年の近かった新八と過ごしていた時間は同僚に同年代の者がいなかった晴太にとっては仕事をしている時とは違った充実感を味わえた。恥ずかしくて口にこそ出せなかったが、晴太は新八のことを親友だと認めていた。
だから、新八の前では強がっていたが、姿が見えなくなってしまったら急に淋しさが込み上げてきたらしい。
そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、京次郎たちは彼の背中に声をかける。
「おーい、行くぞっ」
「うぃ―――すっ」
痛いほどに頬を自分で張り飛ばした晴太は無理矢理に寂しさを追い出すと、新八が走って行った道に背を向けて、同僚の元へ駆け足で向かった。
もう一度
炎天下、数種類の蝉が木々を舞台にして、コンサートやリサイタルを開いていた。
『ここ江ノ島は只今、35度。
夏休みの由比ガ浜は大勢の海水浴客でにぎわっています☆』
頭の軽そうなMCの軽快な声がラジオから聞こえてきたが、蒸し風呂のようなアトリエで一人、巨大なキャンバスに描きかけの作品の前に座り込んでいる神楽は自分から発してしまっている重い空気で潰されそうになっていた。
「・・・・・・・・・だめネ」
全身の水分が汗となって出てしまっているような、疲弊しきった表情の神楽は柔らかそうな唇を半開きにして己の画を見つめていたが、不意に首を小刻みに左右に動かした。
「これじゃ・・・・・・」
神楽は汗だくの掌をキャンバスに押し付けた。
「だめアル、だめアル・・・・・・だめアル。なんでネ?」
神楽は硬いキャンバスに己の額をぶつけて悔しそうな声で歯軋り混じりに呟いたが、その苦々しい問いには誰も答えてくれなかった、決して誰も。
アトリエから這い出た神楽は失った水分を補うために自動販売機でスポーツドリンクを買い求める。そうして、差し入れのパンの袋を開いた彼女はベンチに腰を下ろし、ひんやりとしている壁に背中を預けながら、外で文字通りに人生を賭けて叫んでいる蝉の求愛の言葉に耳を傾けてみる。
そうして、小休止を切り上げて自室に戻ろうとした神楽は廊下の先にある女性の後姿を見つけた。
神楽の気まずそうな視線に気付いたのか、その女性・・・脇薫女史は神楽の方に顔を向けたが視線の主が神楽であることに気づくと、彼女よりも気まずそうな表情を浮かべていた顔を背けると、そそくさと『油彩 夏季スタイル「一般の部」 講師 脇薫』と看板が置かれた部屋に入っていってしまった。
「こんにちはー。
それでは、みなさん、今日もよろしくおねがいしまーす」
どうしていいか分からぬまま、その場に缶と食べかけのパンが入った袋を持ったまま立ち尽くしていた神楽に無邪気な、裏表を感じさせない笑顔で駆け寄ってきた子供ら。
「かぐら先生―――っっ☆」
「せんせー」
「あー、先生☆ パンたべてるー。ちょーだいー」
「先生―、今日、何かくのー」
「あ、先生、おでこに絵の具、どしたの?」
「ころんだんだー、先生」
目聡く自分が抱えている悩みなどまるで気づかず、訳知り顔で優しい慰めの言葉もかけてこない子供達が矢継ぎ早に飛ばしてくる言葉の圧力に押されそうな神楽だったが、ほんの少しだけ胸の中の重さが和らいだ気がするのだった。
「・・・・・・・・・う―――ん」
子供達が帰った後、教室で神楽は珍しく困り果てた表情で、一枚の絵を見て低い唸り声を喉から上げていた。彼女が手にして見ているのは生徒が「見てくれ」と渡してきた絵。ある城を描いたらしく、実に『写実的』な絵だった。構図がっしかりと出来ており、色の使い方も悪くない絵だったが、あえて穿った見方をすれば「マニュアル的な教師に受けが良さそうな」一枚のように思えた。
唸った神楽に不安を覚えたのか、この絵を描いた鬱蔵はしきりにズレてもいない眼鏡を上げている。
「どうかな・・・・・・? できれば、率直な意見を言ってもらえるとたすかるんだけど・・・・・・
・・・その・・・章をとるには、どの辺を直した方がいいとか・・・」
そんな鬱蔵の言葉に絵を見た瞬間に胸の中に抱いていた疑念が膨らんだ神楽は、恐る恐る尋ねてみた。
「魔死呂威君・・・もしかして・・・写真見て・・・描いたアルか?」
「うそっっ。え? 何でわかるの?」
神楽の指摘が痛い所を突いてしまったらしく、今までの冷静ぶりが嘘だったように動揺も露わにした鬱蔵は後ずさった拍子に机の上の荷物を派手に落としてしまう。
「・・・・・・・・・」
慌てて荷物を拾い集め始めた鬱蔵に手を貸そうとした神楽の手がふと止まる。鬱蔵の荷物のほとんどは塾の教本やそこで出されたテストばかりで、他の子供のようにお菓子や漫画、ゲームなど子供らしい持ち物が何一つとして入っていなかったのだ。
鬱蔵は誰ともなしに言い訳めいた言葉を呟く。
「だって、仕方ないだろ、『夏休みの想い出』って言われても、親だって忙しいし・・・どっか連れてってくれ、なんて言えないよ」
マンツーマンで名を売っている塾の夏期講習プログラムは過酷ではないにしろ、やや詰め込み感がスケジュール表からは滲んでいる。
「塾とか夏期講習とか、全部まとめると、けっこーなお金かかるんだ。
だから、母さんは残業とか、たくさんしてるわけだし・・・・・・」
「英会話? 模試? 塾のスケジュール、びっしりヨ?
小学生ダヨネ? 夏休み中の・・・」
神楽は唖然とした表情で聞いてしまう。
「魔死呂威君、とても・・・・・勉強できるのデハ?
こ・・・これでも、足りないアルか?
そ、そんなスゴイとこ、受けるアルか?」
だが、神楽は誉めたと言うのに鬱蔵の表情は翳る。
「いや・・・・・・念には念を入れないと・・・・・・
ボク、運動は苦手だし、病欠も多かったし、入試を有利にするには、あとはもう絵の賞関係くらいしか・・・・・・」
だが、ここでグダグダ愚痴を神楽相手に零していても時間の浪費、と持ち前のドライさで割り切った鬱蔵。
「―――ま、いいや。
・・・で、何かない? こう・・・ヒントとか、コツとかさ」
鬱蔵のドライな質問に神楽は慌てる。元より、誰かに何かを教えるのが不得意な神楽は誰かにアドバイスをするのが大の苦手だった。何せ、凡人と普段から『見えている』風景が違うだけに、それを凡々な才能だけを持っている者に言葉では説明できないから絵を描いているような部分があるのだ。しかも、大人以上に真剣かつ切羽詰った雰囲気の子供を相手にしなければならないのだから、余計に言葉を選んでしまうので、口調はおぼつかない。
「コツ!? コツ・・・・・・えーと、えーと・・・
というか、それよりも、絵が固い・・・・・・カナ? のびのびしてないというか・・・」
途端、鬱蔵の表情は不機嫌なものになる。慌てて、神楽は具体的なアドバイスを考えるがそう簡単には出てきてくれない。
「もっと、こう・・・・・・『自由に・・・』、『のびのび・・・』というか、『好きに・・・』というか・・・」
「『好きに』!? また、それかよ。担任と同じ事言う、わけわかんねーよ」
神楽のそれは子供ながらに堅物な鬱蔵には逆効果なアドバイスだったようだ。彼は軽いパニックを起こしてしまう。
「『好きに描け』って、具体的にどーゆー事なのさ。
ボクはこう『キッチリ』描くのが好きなんだよ。
でも、担任は『子供らしくない』って」
溜まっていたストレスを勢いも良く吐いていく鬱蔵に神楽も慌てだした。
「子供らしい絵って、どんなんだ?
『無邪気な』ってことか!? どーすりゃ、無邪気なものが描けるんだ?」
・・・・・・少年、そんな雑念と『賞狙い』なんて邪気塗れの考えを抱いている時点で、自分がアウトな事に気付けないか? 「無邪気になる方法」、そんな事を考え出した瞬間に、人は無邪気でなくなるのだ。そもそも、微塵も邪気がない人間などいるか? 否、人間の43%は邪気で出来ていると断言しても間違いではない筈だ。
そこで、鬱蔵は目を見張った。
「いや―――まてよ?
『どーすれば「無邪気なもの」が?!』と言っている時点で、ボクにはもう『無邪気』っていうアビリティーはないじゃんか?」
どうやら、この鬱蔵、本物の馬鹿ではないようだ。結果はどうあれ、自分でそれに気付けたようだ。しかし、気付いてしまったらしまったで、自分を自分で追い込む辺り、器用な性格ではないらしい。
「しかも、『無邪気』ってのは『無意識』ってのと結びついてるわけだから、『意識』しちまった時点で、もうボクには手に入れられない―――!?
イベントアイテムを取りそこなって進んじまった・・・みたいな?!」
「あ・・・あの・・・えと・・・あ・・・・・・あわわ・・・」
どんどん思考の迷宮に自分から迷い込んでいく鬱蔵を止められない神楽は泣きそうだ。
「じゃあ、『無邪気っぽさ☆』を学べばどうだ!?
本物は手に入れそこなったけど、『―――っぽいもの☆』なら、アウトラインをおさえれば、ボクにもまだ手はあるはずっ。
ボクの、この学習能力をもってすればっっ」
間違ってないけど、大幅に間違っている鬱蔵の歪んだやる気に神楽は踏ん張っていられず、吹き飛ばされてしまいそうだ。
しかし、ここで神楽は違和感を覚えた。いつも真面目で、あまり俗っぽい事に興味が無さそうな鬱蔵がここまでの粘りを見せるのはどうしてなのだろうか?
「・・・・・・魔死呂威君! 何で、そんなに賞にこだわるアルか?」
神楽のおっとりとした声での、間を抜かした質問に鬱蔵はイラ立った。
「だから、さっきも言っただろ。
ボクは志望校に受かんなきゃいけないのっ。でないと、母さんが・・・・・・」
そこで、鬱蔵は「しまった」と言わんばかりに顔を青くした。
鬱蔵の罰が悪そうな反応に、「やっぱりカ」と確信が強まった神楽は深く落ち着いた色が広がっている瞳で彼をじっと見つめた。
「マミーがとれって言ったアルか? 志望校、ぜってい受かれって?」
鬱蔵は遠回りをせずに斬り込んで来た神楽の実直な問いに唇を噛み締めた。
「・・・・・・母さんは、そんなコト言わない」
鬱蔵は顔を俯け、腿の上に置いた両の拳をきつく握り締めた。
「志望校だって、ボクが自分で決めたんだ・・・・・・ボク、やりたい事があるから、そこから逆算すると、そこ入っておかないとマズイんだよ。
だから、今、母さんにも迷惑かけてて・・・
で、母さんは『がんばれ』って応援してくれてたんだ、『二人でがんばろう』って。
なのに」
母親と壁に掲げた『目標』の前で笑顔で誓い合ったのを思い出していたのか、鬱蔵は口元に穏やかな微笑を漏らしていたが、突然に彼は激しい怒りを露わにして、己の腿を憎い相手に見立てたかのように激しく打ち据えた。
「親戚の叔母さんたちが、無責任に『リコンして片親だと私立は不利だ』とか言ったのを真に受けちまって・・・」
『どうしよう・・・母さん、鬱蔵の足をひっぱっちゃったの?』
その時の、鬱蔵の母親のショックは計り知れないものだったのだろうが、そんな母を見た鬱蔵のショックも大きかったのだろう。
故に、鬱蔵は賞賛や名誉に人一倍、執着するのだろう、自分の為ではなく自分を笑顔で支えてくれる母親の笑顔を見たい、それだけのために。その執着心が己のまだ未成熟な心身を酷く傷付けてしまう事が聡明な頭脳で理解できていても。
鬱蔵はココに来て、初めて自分の感情を爆発させた。
「ボクは・・・だからっ、ぜったい受かないとダメなのっ。
で、いいかげんな事、言った伯母さんたちにも、楽勝でしたよ☆ ―――って言ってやんないと気がすまないのっっ、母さんのためにも、俺のためにも」
瞬間、鬱蔵の熱いほどの感情が篭もった言葉にハッと胸を突かれてしまった神楽の思考は一瞬にして凍ってしまった。
一切の感情がコトンと軽い音を立てて抜け落ち、血の気も一緒に失せて蒼白に変わり果てた神楽の耳から脳味噌に入ってくるのは鬱蔵の言葉、心中で蚊の羽音の様に喧しいのは教師や評論家の命令めいた言動。
「子供らしくない絵って言われるのもわかるよ・・・・・・」
『四季展に出すなら抽象っぽいモノはダメだよ』
「そんなん当たり前だ」
『次回作は、いつ頃、完成するんだね?』
「だって、ボクがもう子供でいるの、嫌なんだもん」
『早く次の作品を』
『辿りつきたい場所』を、もった時
「賞が欲しくて、それ目当てで頑張るって事自体、も、ぜんっぜん『美しくない』ってわかってるよ!」
『右のが“四季展用”で、左のが“海光賞用”―――違いやすか?』
生ゴミよりも酷い匂いを放つ、ドロドロとした底なし沼が餌を捕らえようと伸ばしてきた触手に足を神楽が掴まれそうになった刹那、彼女の中で閃くように聞こえてきたのは、大事な好敵手の優しさと鋭さがゴチャ混ぜになっていた言葉と大切な先導者の優しさと慈しみが同居していた言葉。
「―――でも、一生懸命、描いたんだよ、これでもさ」
『神楽。
神楽、大丈夫。好きに描いてみろよ』
二人の形も色も全く対照的な優しさをはっきりと思い出した神楽の中に巣食っていた澱は美しい涙となって、体の外へと排出された。
無私の心で描く力を失った――――――
いきなり、声を出さずに静かに泣いている神楽に、今の今まで憤っていた鬱蔵は肝を抜かされる。
「えっ? あれっっ? 何で?! 何で、先生が泣くんだよ!?」
そもそも、異性が苦手な鬱蔵は目の前で大人が泣くなんて状況など想像すらした事がなかった。
「え? わああ、ボクが泣かしたみたいじゃんかよ!?」
「好きなものを」「楽しんで」という言葉は美しい
鬱蔵はハッとする。
「っていうか、ボク・・・ボクのせいかもっっ」
「・・・ち・・・がう・・・」
神楽は虫が囀るような声を漏らして、首を小さく横に振った。
「ち、ちがわないっ。
ああっっ、ゴメンっっ、先生っっ」
―――でも、その、何と、むずかしい事か・・・・・・
「ご・・・ごめん・・・ね」
神楽は謝罪の言葉を漏らした。だが、それは目の前にいる泣く自分をを慰めながら己を責める鬱蔵になのか、自分にレベルの低い嫌がらせを仕掛けてきながらも、自分の生み出す『作品』を素直に誉めてくれている、遠回りも過ぎる優しさを持つ沖田へなのか、自分がどんなに酷いスランプに陥ってしまっても、遠すぎず近すぎずの絶妙な距離から自分を支えてきてくれていた銀時へなのか、それは彼女自身にも解っていなかった。ただ、惜しみない感謝の念がそんな言葉となって、心の底から溢れてきて、口から零れてしまった。
「あやまるなよっ」
「ごめ・・・」
「ボ、ボクの方こそ、ちょっと、なんか煮つまって・・・・・・」
「う・・・うっ」
「その、う・・・・・・うわあああああん」
神楽の泣き顔を見せられ、神楽の聞こえない泣き声を聞かされた鬱蔵は我慢が出来なくなった。
そのあと、バカな子供2人はむかいあって泣いた
アブラゼミとか、クマゼミに混じって
えんえんと・・・わんわんと・・・
日も落ちきった頃、声を大にして泣きすぎた所為だろう、涙と同じほどに汗だくの神楽と鬱蔵はすっかりと魂が抜けきって疲弊の色が濃い表情で壁に背中を預けていた。
「あ・・・頭がガンガンするヨ・・・・・・」
「ボク・・・ハナから鉄のニオイが・・・・・・」
「今、何時アルかぁ?」
「・・・・・・7時・・・」
首を回して壁の時計の針が示す数字を見た鬱蔵は額に手を当てた。
「あ、ボク、塾!!」
だが、不意にどちらからともなく押し黙った神楽と鬱蔵は同時に顔を見合わせた。二人は互いの顔に浮かんでいる表情を見て、自分の耳に聞こえているそれが空耳ではないことを悟る。
「何アルか? カミナリ? 雨ハ? カサないヨ?」
目を擦った神楽の言葉を鬱蔵が小声で遮る。
「・・・ちがう」
鬱蔵は汚れた眼鏡を慌てて拭くと、目を凝らす。
そうして、目を大きく見開いて、彼方に咲き乱れている色とりどりの大輪の花々を指差した。
「あれっ、みてっっ。花火だっっ」
「・・・・・・・・・」
顔を見合わせた二人はほんの少しだけ戸惑ったが、すぐに手と手を繋いで学び舎を矢が如く飛び出すと、音と光の競演が繰り広げられている場所へ全速力で向かう、小さいけど力強い手をしっかりと握って先を走る鬱蔵は神楽が転ばないように気をつけながら。
大勢の人で賑わう川原まで辿り着いた二人は重い足に活を入れ直すと階段を一気に登り上がった。そうして、小さな体二つで人だかりを割りながら一番前に辿り着いた二人は迸った光と轟いた音に目を見張った。
神楽と鬱蔵の目の前に広がっていたのは光の雨、いや、瀑布であった。夜空に引かれた線の上には瞬く星が、線の下からは眩い火花が。
二人は瞬きも呼吸すらも忘れて、刹那的な美を魅せる芸術に酔い痴れてしまう。
「スゴイヨ、キレイアル」
先生はニコニコしながら叫んでる
神楽は鬱蔵の袖を引っぱって引き寄せると、鬱蔵が真っ赤になっているのも気にしないで耳元で花火が打ちあがる音に負けないように大きな声で叫んだ。
なんだい、さっきまでメソメソしてたクセに(――――――まぁ、ボクもだけど・・)
ほとほと呆れながらも、夜空に咲いていく花を見つめる鬱蔵の口元には憑き物が落ちきったような穏やかな微笑が浮かんでいた。
鬱蔵は神楽の手をそっと握り返す。
―――でも、ホントにキレイだ
きっと、天の河ってこんなんじゃないかな。まだ、プラネタリウムでしか見たコトはないけれど
いつか、間近で見られたら
生きてるうちは、まだムリかな
いや、でも、ボクは見たい、もっと近くで
そこに辿り着く為に、ボクはがんばりたい
後日、鬱蔵は一枚の絵を手にして、神楽の元を訪れた。
「先生。これ、もっかい描いたんだけどさ・・・・・・」
その絵を受け取って見た瞬間に神楽は大きな瞳を更に大きくさせて、驚きを顔全体で表現したけれど、すぐに嬉しそうな笑みを鬱蔵に見せてくれた。
その絵は構図はしっかりと取られ、色使いにも子供得意の柔軟さは見えなかったが、少なくとも無理な背伸びが消えていた。肩の力を抜いて、自分が「どうあるべきなのか」ではなく「どうありたいのか」を考えながら描いたのだろう、とても輝いていた。
鬱蔵が描いたのは想い出。何年経っても鮮明に思い出せるだろう、初めて甘酸っぱい感情を胸の内に覚えた大切な一日。
「うん、すごくキレイアル」
鬱蔵がそんな神楽の笑顔も、あの夜に二人で見た花火に負けないくらいキレイだ、と思ったのは秘密だ。

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