僕にとって、一等に大事なモノって何だ?
最近、ふと考えてしまうんだ、そんな事をさ
本当に大事なモノだから、きっと目には見えなんだろう
本当に大事なモノだから、きっと手は簡単に届かないんだろう
本当に大事なモノだから、きっと少しの努力じゃ気付けないんだろう
でも、自分にとって、最も大事なモノを見つけられていない筈なのに
今の僕はちっとも不幸じゃないんだ
どうしてなんだろう
・・・・・・あぁ、そうか
僕は自分の大事なモノを、未だにその影すら掴めなくて、みっともないくらいに悪戦苦闘している
だけど、君は見つけてくれたんだ
君は僕と過ごすこの時間が、世界で一番に大事なモノと言ってくれた
本当に、僕は何をしていたんだろうね
こんなにジタバタしている僕を好いてくれる、ありのままの僕を認めてくれた君を泣かせるなんて
残念ながら、僕はまだ大事なモノをこの手に掴めていないけど、ちっとも不幸じゃない
だって、僕にとって本当に大切で、僕を必要としてくれる君の温かな右手をしっかりと握れているから
「う・・・う―――わ―――」
水分補給のために立ち寄った駅で、新八は渋い顔で唸ってしまう。彼が苦々しい笑みを浮かべて見つめているのは駅の看板。
『道の駅 岩手県 来島パーク』
「いーい名前の駅だな―――しかも・・・」
売店に置かれている、真緑色のソフトクリームに新八の唇も同じ色になる。
そのソフトクリームの緑は抹茶やメロンで作ったものではなく、どうやらワカメを使っているらしい。しかも、このスイーツ、この街の名物でかなり話題を攫っているようだ。
『ミネラルたっぷり ワカメソフト 来島町名物』
脳裏に紫色の煙を黙々と上げる「物体X」めいた料理が盛られた丼を手にしている満面の笑みのまた子を思い出した新八は乾いた笑い声を漏らしてしまう。
「うん・・・・・確かにっっ。
確かに、ここは『来島パーク』だよっっ。
『話題の』って、あれでしょっ、『いろんなイミで』ってことでしょ」
ペットボトルに水を汲みながらでも、ツッコミを入れるのを忘れない新八。ツッコミストの鑑である、正に。
「ミネラルたっぷりって・・・・・・
そういうモンダイじゃないよね? ソフトクリームって・・・・・・」
苦い笑いを噛み殺していた新八は不意に駅の壁にズラリと貼られていたポスターに目を留める。
「星と賢治の・・・・・・・・・賢治・・・宮沢賢治?」
そこで、ようやく新八は自分が岩手県に入っている事をしみじみと実感した。
「そっか・・・岩手県だもんな、ここ・・・・・・」
再び、自転車で走り出した新八は幼少からこれまで読んできた宮沢賢治の作品を思い出してみた。
「『銀河鉄道の夜』、『注文の多い料理店』、『よだかの星』、『グスコーブドリの伝記』、『春と修羅』、『オツベルと・・・象』?
あと、何だっけ? 梨の実が川に浮かんでたヤツ・・・・・・・・・」
その作品なら、私の中学二年生の時に使っていた国語の教科書に載っていた覚えがある。とても幻想的で、私は教科書に乗っている作品の中でも特に気に入っていた。
梨がプカプカ浮いていて、それをカニの親子が腐って沈んでおいしいお酒になるのを川の底で待ってるって話・・・・・・
おいしそうだなって思って、父さんに言ったら
「やっぱり?」 「私もそう思ったよ、小さい頃」―――って笑ってた
「梨のお酒か・・・・・・・・・・」
あの話は、そのあとどうなったんだっけ・・・・・
脳裏に話の続きを思い出そうとしながら、新八は舌の上に話に登場する『梨の酒』の味を想像してみた。
お酒をあんまり前向きに美味しいとは思わないけど、あれだけは今でもちょっとだけ飲んでみたいかも・・・・・・・・・と思う
夢想する新八は前だけを見て、ペダルを漕ぐ足に力を入れる。
走り続けていると、なんだか頭がボーッとしてきて、どんどん、とりどめのない事を考えている
そして、もっと走ると、だんだん音が聴こえなくなってきて、自分の中までしんとする
適当に開けた場所まで辿り着いた新八は今宵はこの場所で夜営をしようと決めて、自転車を降りる。そうして、すっかりと慣れた動作でテントを張り、夜食の準備をする。
新八は長距離走行で熱を持っている足を揉みながら、京次郎が貸してくれた自転車を驚き混じりに見つめる。
「京さんの自転車、やっぱり、すごいいい。
こんなに距離走っても、疲れ方がぜんぜん違う」
以前の自転車ではマッサージをしても足の芯が鋼になってしまったか、と思うほどに重く感じていたのに、今では筋肉にこそ乳酸が溜まってしまっているが芯に疲れが染み込んではいない。
これなら、明日も快調に走れそうだと安心した新八は鞄から地図を出す、京次郎は自転車と同じように貸してくれた地図を。
京さんからかりた日本地図は何度も雨に当たったらしく、傷んで黄色くなって、あちこちに貼られたセロハンテープが広げるとパリパリと割れた
新八はこの地図を渡す時に、京次郎がコレを見て浮かべた懐かしそうな表情を思い出した。
『まるで古文書じゃなぁ』 『もう、あれからそんなにたったんか』
そういって、彼はちょっと笑った
新八に地図を見せながら、『自分探しの旅』の先輩である京次郎は彼に経験者ならではのアドバイスを贈った。
『北海道に入ったら、絶対に無理はせん事じゃ。
ともかく広ぇし、街灯がないからの、必ず夕暮れ前に寝床を確保じゃ。
あと、今ぁ、電車で簡単に渡れるがな、本州から北海道に入る時ぁ、フェリーを使う事じゃな。
四時間近くかかって、北海道に近づいてきたときゃ、「おおっ」って思うからの。
自転車に乗ったまま、フェリーで入っていくのは、何じゃかすげぇ『旅』ってカンジがすっからのぉ』
新八は地図に込められた京次郎の想い出に憧憬の念を重ねる。
この赤いサインペンの道は京次郎さんが旅した足跡だ
夜は更けていったが、新八は疲れや眠気も忘れて、いつまでも地図に見入っていた。
点と点を少しずつ結んだ赤い線
眠い目で眺めるそれはなんだか星座のように思えた
翌朝、日が昇り始めると同時に自転車に跨り、ペダルをゆっくりと規則正しいリズムで回し始めた新八。
道は思っていたより平坦で短時間で距離を稼げたが、それでも昼頃になると空腹感はペダルを一周させる度に強まっていき、腹の虫も切ない泣き声を上げる。
「うー、はらへったー」
低い唸り声を上げている、凹み始めた腹を擦って、一秒でも速い栄養補給を求める腹の虫を宥めすかしていた新八は視線の先にある建物を発見し、視線を鋭く尖らせた。
「ん・・・・・・学校発見!!」
新八は素早く周囲を見渡す。
「学校ある所には・・・・・・お店有り・・・」
旅の最中で得た真理を呟いた新八はそれを発見し、疲れが滲み出ていた顔に生気を取り戻す。
「ビンゴ!!」
その駄菓子屋と思わしき店はここに店を構えて長いのだろうか、少しばかり寂れていたが、シャッターが上がっている点を見る限り、まだ営業しているようだ。
「すいませーん・・・」
おずおずとガラス戸を開けた新八はツンと鼻をつく埃の匂いに少し懐かしさを感じつつ、店内を見回した。
(あ、あった。しかも、アンパンオンリー?! 選択の余地ナッスィング!!)
しかし、選り好みをしていられる状況と状態では無いと割り切った新八はアンパンをsるだけ手に取って店の奥に向かう。
(しかし、やっとみつけたエネルギー源!! もちろん、全部確保!!)
「すみません、これください!!」
店主の老婆は奥から腰を丸めながら出てきたが、まだ若くて食欲旺盛であろう新八がアンパンを買い求めようとしている事に違和感を覚えたのか、曲げたら折れてしまいそうなほどに細く乾いた首を傾けて、新八を見上げた。
「なーに、アンタ、お昼これだけけ?」
この質問は予想していなかった新八は戸惑いがちに頷いた。
「え? はい」
「どっがら来たの?」
「東京です」
途端に、老婆は豆のように小さな目をこれでもかと見開いて、驚きを露わにした。
「東京!? 自転車で?」
老婆は外に止めておいた自転車を見て、持ち主が目の前の青年だと気付いて、呆れ混じりの息を漏らした。
事情は判らないが、事情を察した老婆は戸惑いを隠せずにいる新八を下から見上げて、険しい表情で嗜めた。
「なーにしてんの、え――――――?
だら、なんか、もちょっと食べねばなー」
拒否しようとするもの、腹の虫が感謝の声を上げてしまったものだから、真っ赤になった新八は快活に笑う老婆に半ば強引に店の奥へと上がらされる。
「・・・・・・すみません」
恐縮しながらも、飯を忙しくかきこむ箸を止められない新八は耳まで朱に染めながら、せめてとばかりに手を更に早く動かす。
「ハム、もっと切るか? 漬物しかねぐて、わりぃーなあー」
茶を啜って、新八の気持ちの良い食べっぷりに口元を緩ませた老婆。
「たんねば、あとはそーめんしかねっけ」
これ以上はご馳走になれぬ、と新八は慌てて、口元に飯粒をつけたままの顔と手を激しく左右に振った。
「いえ、充分です。ありがとうございます」
箸をそっと置いた新八は「一飯の恩義を返さねば男が廃ってしまう」と思い悩み、老婆にそれとなく話を切り出した。すると、この老婆も中々に清々しい性格で、新八の申し出をやんわりと断らずに店の壁のやや傾いている棚を指した。
それを見た新八は小さく頷くと店の方に向かい、具合を確かめてみる。
幸い、ネジが緩んでいただけのようで、新八はマイナスドライバーで締めなおして棚を水平にする。ついでに、下に支えも入れて、少しばかり重い物を置いても耐えられるように強度をつける。
「おばーちゃん、これでどーだろう?」
新八が直してくれた棚を見て、老婆は嬉しそうに頷く。
「ああ、いーねぇ。元どおりんなったー」
OKが出て安心した新八はふと、天井に目を向けた。
電球はつけられていない。被っている埃の厚さからして、かなり前に切れて外したが、老人の弱った足腰では脚立を使って付け直すのも危ないので、仕方なくそのままにしているのだろうか。今はまだ日が高いからいいが、夜は困るだろうし、それこそ危ないだろう。
「電球は? つけようか?」
心配そうに指差した新八に老婆はサバサバした面持ちで首を横に振った。
「いーの、いーの。もう昼間しかやってねんだから。もってぇねぇ」
「え? そう? いいの?」
老婆の言葉に新八は複雑そうな顔で、店に置かれている商品を眺めた。
埃をかぶったシャンプーにリンス、タワシにクレンザー、色あせた石鹸箱・・・
もう何年、ここで眠ってるんだろう
それらに手を伸ばしかけた新八へ店の奥に戻った老婆が厳しい声を掛ける。
「もう、そっちいーよー、さわんねぐても。茶でも飲めよー」
「でも・・・・・・」
「いーよー、もう誰も、そんなん買わねんだから」
「そ・・・そんな・・・」
「じゃあ、何で置いているの?!」なんてツッコミを世話になった老婆に入れられるはずもない新八はそのにべもない言葉に、明らかに荷物にしかならない品々を手に取ろうとしていた手を宙で止めて胸に痛みを覚えた。
渋々と店の奥に戻らされた新八は老婆の淹れてくれた茶を美味そうに飲む。
不意に、老婆は昔話を始め、壁に飾った遺影を小枝のように細い指で示す。
「この店はね、お姑さんがやってだの」
老婆より若干、若そうな老女が老婆の『お姑さん』なのだろう。
「あの人な。となりは舅。で、これがオレのだんな様」
老女の横にはそっくりな顔の年齢が十ほど違う二人の遺影がある。
「その横は? これは畑? でっかい葉っぱ」
しかし、その写真に写っている老婆の後ろに生えている植物の大きさが異常である事に首を傾げる。そうして、特徴的な葉の形にその正体を悟って、驚きの声を上げた。
「・・・・・・って、これ、アロエ!?」
新八が派手に驚いてくれたからだろう、老婆は満足そうに意地の悪い笑顔で頷いた。
「んだ、ロスアンゼルスで撮ったヤツだ」
老人独特の言い回しに数秒こそ頭の周りに「?」マークを飛ばしてしまった新八であったが、すぐに眼鏡を吹っ飛ぶほどに驚く。
「ロサンゼルス・・・って、アメリカの!?
えぇっ、おばあちゃん、行ったの?! ボクはまだ、日本出たコトないんですけど・・・!?」
仰天の事実に慌てふためく新八を可笑しそうに見ながら、老婆は細い腕を目一杯に左右へ広げた。
「農協の旅行で行っだのよぅー。
でっけーの!! アロエの葉ァが。こーんな、あっだのよー」
談笑の最中、老婆は不意にどこか淋しさが滲む表情で俯いた。示し合わせたように、時計の振り子が揺れる音が重なったものだから、余計に空気が切なくなってしまう。
「仕方ないのさぁ。
だーいぶ前に国道にでっかいスーパーができだし」
顔を上げた老婆はもう、その深い皺が刻まれている顔に淋しさなど滲ませていなかった。
「でもね、やめるわけにはいがねーの。小学校があんべ?」
老婆が入り口の方に小さな目を向けたのと同時に学校が終わったのか、何人かの児童が汗まみれの顔で店に飛び込んできて、彼女に元気で大きな声をかける。
「ばーんーちゃーん、くーださーいな―――」
「ホラ来だ」
老婆は幾らか歯の抜けた口を歪めて、嬉しそうに笑う。
「
な?」―――って言って、おばあちゃんはニッと笑った
―――そして、「おやつだぁ」と言って、ラップにくるんだトウモロコシを三本・・・
土産まで貰ってしまった新八は何度も礼を言い、少し店を手伝った後に老婆や子供に見送られて出発した。彼は何度も振り返って、一漕ぎ毎に小さくなっていく自分を店の前に立っていつまでも手を振ってくれている老婆らに手を振り返していた。
夜も更け、休憩を取ることにした新八。彼はガードレールに尻を乗せて、老婆がくれたトウモロコシに齧り付き、口の中一杯に広がる甘味に表情を綻ばせた。
「うん、うまいっ」
新八は器用にトウモロコシを齧っていく。
「やっぱり、蒸したトウモロコシっておいしいなー。甘いもん」
ふと、新八は苦笑いを浮かべる。あの歳で、海を渡って異国を見てきたあの老婆の事を唐突に思い出したのだ。
「しかし・・・・・・負けたなぁ」
小さく溜息をついた新八は口の端についた粒を指で取って口の中に弾きいれる。
「ボクだって、まだ飛行機乗ったコトないのに・・・・・・
ロサンゼルスだもんなぁ、あんなおばあちゃんがさぁ」
旅行に年齢なんぞ関係ないと頭じゃ解っていても、ショックは大きかった。老人なら温泉とかの方が良かったんじゃないか、と思いつつも、老婆の話を聞く限り、いくつになっても初めての国で自分が見たことが無かったような物を見られる経験は貴重で、楽しい時間を過ごしたようだ。
「うちの母親だってないよ? 日本、出たこと。
父親だって・・・・・・」
不意に、新八の言葉が途切れる。
そうだ・・・・・・一度も出ないで、終わってしまった
新八の脳裏に、幼少の頃に自作の飛行機をまだ床に臥せってしまう前の父、鷹久と飛ばした楽しかった日の思い出が甦ってきた。
一度も乗せてあげられないで
あんなに乗り物が好きだったのに
苦い後悔と酸っぱい郷愁の念に駆られた新八の背後を一台の列車が汽笛も高らかに通り過ぎていく。
こんな時間に、と思わず振り向いた新八はその列車の色と側面に描かれていた星を見て息を呑む。
「えへへ」
その列車を写真に収めた鷹久は子供に還ったような嬉しそうな笑みを零していた。
そんな父の喜びを肌で感じた新八も自然と嬉しくなり、キラキラと輝く瞳でその列車を見つめた。
「父さんっ、この電車、星がついてる」
まるで新発見でもしたような響きの声を上げて描かれている星を指差す息子の肩に手を誉めるように置いた父。
「そ、イカしてるだろ? この列車はね・・・・・・」
「北斗星だっっ」
思わず、新八はその寝台列車の名を叫んだ。
そして、慌てて自転車に跨った新八は北斗星と並行するように走り出す。
新八は全力でペダルを回しながらも、目だけは前ではなく横の北斗星に向けていた。そんな走り方は危ない、と解っていても、夜の闇の中で悠然とレールの上を走っていく北斗星から目を逸らせなかった。
かつて、父親が興奮混じりに語った北斗星の説明を鮮明に思い出せた新八。
「これは寝台列車だよ、一晩かけて札幌までいくんだ。
お前が大きくなったら、一緒に乗ろうな」
そっと頭を撫でてくれた新八は父親がこの列車が本当に好きなのだな、とその温かな掌からはっきりと感じた。だからこそ、ついと口から飛び出た我が侭だった。
「父さん、ボク、今乗りたいよ」
そんな息子の可愛らしい我侭に微苦笑を浮かべた鷹久は新八の頭をまた優しく撫でる。
「ダメだよ。
だって、新八、10時過ぎると眠くなっちゃうじゃないか? そしたら、父さん、つまらないだろう」
痛い所を突かれて、申し訳無さそうな表情になった新八の頬をからかうように優しく摘まんだ鷹久は憧れの色が濃い瞳で北斗星を熱く見つめ、息子に優しく微笑みかけた。
「もう少したって、お前がもっと遅くまでおきて、おしゃべりできるようになったら一緒に乗ろう、いつかふたりで」
凄まじい速度で流れていく車窓の一つに、回想と同じように柔らかな微笑みを浮かべて走る己を見つめる父親を見た新八の目はそこに釘付けとなってしまい、意識が一旦停止してしまう。
その瞬間だった、バランス感覚が崩れ、前輪が滑ってしまった。
「!!」
慌てて、体勢を立て直そうとした新八だったが、時既に遅く、彼と自転車は宙にいた。
「ぎにゃああ」
引っくり返った悲鳴を上げながら、新八は自転車ごと土手を滑ってしまう。
「あ・・・あああ、あぶな―――っっ」
寸前で指に力を入れて、肌を指す冷たさが残っている川への転落だけは免れた新八は真っ青になった顔で安堵の息を大きく吐き出した。
しばらく、暴れている心臓を落ち着けようとしていた新八だったが、不意に笑いが込み上げてきた。
「は」
あの瞬間、見た父の微笑は幻だったのだろうか。
「ははは」
幻でもいい、とぼんやり思った。
満月の柔らかな光に晒されながら、悦に浸るように静かに笑ってしまう新八。
「・・・・・・あぁ」
ふと、傍らに飛んでしまっていた眼鏡を掛け直して視界一杯に広がる夜空を見れば、視界に収まり切らないほどの数の星が懸命に瞬いていた。
「天の河だ」
夜空を一直線に横切る、星の流河はただただ雄大、言葉にはしがたい美しさだった。
あんなちっぽけな赤い列車にさえ乗る事がかなわなかった人生、父が生きた意味、そして、ボクの生きる意味
新八は寂しさも傷みも忘れて、しばしの間、星を穏やかな気持ちで見つめていた。
しかし、そんな泡が弾けるように生まれた疑問に答えなどすぐに出るはずが無い。むしろ、簡単に出るようなモノが答えであるはずが無い。膿むほどに頭を悩ませても、ブッ倒れるまで精神を削っても、気持ちよくなるまで身体を苛め抜いても得られないのだ。
生きる意味など、死ぬ寸前でやっと解るのだ。
自分が生きる意味を必死に考え続ける事にこそ『意味』があるのだ。考えるのを諦めるのも、途中で生きるのを止めるのも、それは各人の勝手だ。周囲の大事な人間もしくは無関係な人間に迷惑をかけなければ問題ない、責任を取るのは誰でもない、自分だからだ。
諦めて、後で後悔するのも自分。投げて、後悔するのも自分。
最後の最後まで考え続けた者が一番に偉いなんて言わない。答えが絶対に得られると保証がある訳じゃないから。
それでも、その者は天寿を迎えた時、少なくとも満足して逝けるだろう。自分を誤魔化さず、自分に諦めず、自分を見捨てず、自分を蔑ろにしなかった生涯に大きな悔いを残さないで、泣いたりしないで笑って逝けるだろう。
新八はゆっくりと両手を上げた。
「手、よし」
新八はゆっくりと足を上げた。
「足もOK、大丈夫」
そうして、しっかりと地面に立った新八は損傷が無い事を確かめた自転車を起こして跨り、ゆっくりとペダルを漕ぎ出した。
「よし、走ろう」
今宵はこの長く平らな道を哲学に耽りながら、地道に走ろうと決めて新八の口元には父親ソックリの微笑が浮かんでいた。
新八はありふれている筈の道路標識を見てドキドキした。
フェリーというものに初めて乗った
新八はフェリー乗り場に着いた時、一抹の嬉しさが胸に広がった。
自転車のまま入っていってワクワクした
新八はグラグラと揺れるタラップにちょっとだけビビった。
廃屋にテントを張って
フェリーはゆっくりと海を割りながら目的地に進んでいった。一時の船旅の間、新八は海風に当たったり、図書室で本を読み漁ったり、目的地が重なっている旅人達と語り合った。
おまわりさんにおこられた
新八はフェリーを降りた時、ちょっとだけ淋しかったが、目的地に辿り着いた喜びはそれを遥かに凌駕していた。
坂道を追いこしていったファミリーカーが
新八は長い道を走り、入り組んだ道を駆け、急な上り坂を登り、急な下り坂を降った。
てっぺんで待ってて、おにぎりをくれた
新八は色々な街を訪れた。魚が美味い町、肉が美味い町、華やかな町、落ち着いた町、と。
バイクで旅しているひとに、アルミ鍋でご飯を炊く方法をおそわった
途中、何度かサイロに干し草をつめるバイトをした
新八は様々な人に出会った、優しい人、厳しい人、穏やかな人、激しい人、に。
湖のほとりでテントを張ったら
新八はパンクやチェーン外れなどの故障に何度も襲われた。
満潮でねたまま水びたしになった
新八はトラブルの度に心折れそうになったが、決してペダルを漕ぐのを、前に進む事だけは止めなかった、止めたくなかったからだ。、
鉛色の海を見た、道路を横切る雲の陰を見た
荷物になるカメラなど持っていなかった新八だったが、目に入る美しいと思った物も醜いと思ってしまった物も総て心の中に収めているアルバムに入れていった。
走って、食べて、眠って、また起きて、走って
新八はこの旅で見た全ての物を死ぬまで覚えておこうとは思っていなかった。
ただ、ふと思い出して穏やかな気持ちになれるであろう、淡い想い出くらいは作っておきたかった。
ペダルのふみすぎで、くつの底が抜けた
車に轢かれたカモメをみた
自分の手先も見えない程の霧に包まれた―――そして
新八は息がしにくいほどの細かいが激しい雨の中をスリップだけに気をつけて慎重に走っていたが、レンズに当たる水滴で曇る視界の先にそれを確かに見つけた。
生まれて初めて、雨の終わる場所を見た
それは本当に信じられない光景だった、誰かが素早く引いたような直線を境にするようにはっきりと蒼天と曇天が分かれていた。
奇蹟めいた光景に目を見張っていた新八はゆっくりとペダルを回した瞬間、直感した。
あ・・・・・・来る
思わず、新八が被っていたフードを強引に剥がし、眼鏡を外したのと同時に、顔を痛いほどに叩いていた雨がなくなった。
光
今の今までいた雨の中から飛び出た新八は眩い光の中を走っていた。不思議な感覚だった。さっきまで雨の中にいたのに、今、この走っている場所は晴れている。
しかし、新八は確かに感じていた、自分の中で芽吹いたソレを。
地の果てというものは、もっとさびしいところだと思ってた
その道はただただ真っ直ぐで、風を一身に受けて気持ち良さそうに回っている風車が道の左右に建っていた。
こんなに明るくて、
濡れた顔に当たる風は気持ちが良かった。
せいせいした所だとは思ってなかった
新八が顔を上げれば、腹の底から思いっきり叫びたくなるような、点々とした白い雲が飄々と流れていく、真っ青な空だけが広がっていた。
そして、ついに新八は日本列島の最北端であることを旅人に示す、かの有名な三角形のオブジェまで辿り着いた。
「ついた、ここが日本のつきあたりだ・・・・・・」
オブジェに触れて、眼前に広がる海を見つめる新八の心にはただ感動と達成感だけが広がっていた。それ以外の感情や感覚、そう例えば、旧い自分の汚れた皮を脱ぎ捨てられたような爽快感。新しい自分を発見したような喜びなんてまるで無かった。
不思議だ、こんな遠い地の果てなのに
気がつかなかった
じつは、あのアパートの自分の部屋のドアとつながっていて、
まさか、自分の家のドアが
ドアをあけて、外に出ればどこへでも行けたんだ
「どこでもドア」だった、なんて
新八は転落防止用の鉄柵に疲れてはいるが軽い身体を預けるようにして、海を無言で眺めた。
青春18切符も、銀河鉄道のミドリ色の切符も、何もなくても、自分の足を交互に前に踏み出すだけで
バカみたいだ、そんなコト、小学生だって知っている
いや、ボクだって知っていた
――――――でも、ここにくるまではわからなかったんだ
新八はスッキリしていた、自分でも驚くくらいに。
この風景が見れてよかった
憑き物がサッパリと落ちきった、清々しい微笑みを浮かべた新八は遥か遠くの地で、今日も自分の為に頑張っている想い人の横顔を脳裏に浮かべ、もう一度だけ、目の前の風景を見つめて、しっかりと心の中に焼き付けると、何のためらいも無く背を向けた。
帰ろう、君の―――そして、ボクの―――――――みんなの住む場所へ・・・・・・
停めた自転車に向かう新八の足取りは軽く、そして、その背中は決して大きさを増してはいなかったが、確かに逞しくなっていた。
帰ろう、また同じ数だけ、ペダルを踏んで
夏休み最終日前日のその日も、蝉達の命の燃やす鳴き声は喧しかったが、カーテンが閉められたその部屋でスケッチに精を出していたが根も尽きたのか、臥せっていた神楽は騒音など意も止めずに、穏やかな寝息を立てていた。
その隣の部屋では銀時が色っぽく煙草を燻らせながら、パソコンの前に腰を下ろして仕事に集中していた。
「こーんにちはあー」
「ん?」
快活な挨拶に銀時が画面から顔を上げると、生徒等が入り口から室内を控えがちに窺っていた。
「かぐら先生、いますかー?」
銀時は少しだけ渋い顔をして、そっとカーテンをめくった。
「いるけどな、なんかカゼひいたみてぇで、薬のんで今ねてんだわ」
「あー、ホントだー」
「せっかく来てくれたのに悪ぃなぁ」
気遣って声を潜めつつも、眠っている神楽を見て残念そうな顔をした子供らに銀時は彼女に代わって心から詫びる。
しかし、気にしていないよ、と明るく笑った子供達に銀時は救われる。
「あのね、かぐら先生がね、みんなに似顔絵を描いてくれるって。楽しみにしてるのー」
本当に嬉しそうに語る少女の笑顔に銀時も自然と口元が緩む。
「あぁ、描いてんぞ、けっこーな力作だよ」
「リキサク?」
首を傾げた少年に銀時はしばし考えて、噛み砕いた説明をしてやる。
「あぁ、一生懸命描いたってコトさ!!」
ふと、銀時はその説明に増々はしゃいでいる子供達の肌がコンガリと焼かれているのを見て取る。
「それにしても、おめぇら・・・・・・まっくろだなぁ、プールかぁ?」
力強く頷いた子供達に銀時は弾けたような笑い声を上げた。
「ハハハ、あさってから二学期だろう? 宿題すんだかよ?」
瞬間、今の今まで賑やかな声を発していた子供らの顔色が見る見る内に青ざめていき、弱々しく落とされた肩からは陰鬱な雰囲気がドロドロと言う擬音を漏らしながら、辺りを灰褐色に染めていく。
「あ、悪ぃ!! 禁句だったわな」
普段からAKYな銀時もこれは子供達にとっては失言も過ぎた、と罪悪感を抱いて自分の銀色の髪をクシャリと掻いた。
「そうだ、陶芸教室にいってよ、お姉さんにカルピス入れてもらうか?!」
必死で子供の機嫌を取ろうとする銀時の慌てふためいた姿は実に滑稽ではあったが、年齢も性別も超えた可愛らしさも滲んでいるのも事実だった。
機嫌を直してくれた子供達の背中をそっと押しながら、子供受けの良いまた子の元に向かう最中、思い切って銀時は子供達に尋ねてみた。
「なぁ、かぐら先生の授業はどうだったよ?」
子供らは素直である。
「たのしかったー☆」
「あのねっ、わたし、浜美に入ろうかな―――って思うの―――」
「ボクもっ。でねっ、もっとたくさん絵を描くのー」
子供達の言葉に、それが一時の夢や願望かもしれなくても、今だけでも絵を描く事を心から楽しいと思ってくれるのなら、それだけで十分だ、と銀時は思った。そして、子供らにそう思わせる授業をやり遂げた神楽を心の中で褒めちぎり、後で力一杯に誉めてやろうと固く決める。
一台のロードレーサーが軽やかに走ってくる、学び舎を目差して。
蝉の鳴き声の中、一人の若々しい男が大学構内を歩いていく、ある部屋に向かうべく。
静けさが広がる階段を彼はしっかりとした足取りで上ってきた、ある人に出逢う為だけに。
室内を見回し、探し人の姿が無いことに戸惑いつつ、小さいが人の気配が伝わってくる方を向き、カーテンをそっと開けた男は丸くなって眠っている少女をやっと見つけた。
足音を殺して近づいた男は、少女の傍らに膝を付くと、少し躊躇った後に彼女の汗ばんだ桃色の髪をそっと撫でた。
男の優しさと慈しみに満ちた掌の感触に目をそっと開ける少女、神楽。
神楽は自分が起きた事で慌てて引こうとした新八の指を猛禽類めいた素早さで握り、突然に書置きすら残さずに姿を消し、その上、何の連絡もしないでこの場所に帰ってきた男に驚きでも怒りも表さずに、心の底から嬉しそうな笑顔で言った。
「お帰りなさいアル」
日も沈んで空の色が青から橙に染まり出した頃、また子に遊んでもらって疲れ果てた子供達を迎えに来た母親に渡した銀時は若いパワーに振り回されたからか、疲労の色も濃くして部屋に戻ってきた。
「おい、神楽・・・・・・家にもどんぞ。だいじょうぶ・・・・・・」
カーテンを開けた瞬間、飛び込んできた光景に銀時は目を見張り、息を呑んだ。
部屋にいる人間が増えていた。
だらしなく投げ出されている、実用的な筋肉が増した脚と、しばらく陽の光に当たっていないせいで更に白くなった足は仲良く並んでいた。
無言のまま、渋さの強い面持ちでそれを腕組みをして見据えていた銀時だったが、咥えた煙草に火を点けて、いくらか紫煙を燻らせた後にボソッと低い声を漏らす。
「・・・・・・・・・8月30日―――夏の終わり」
しかし、呟いた自分の言葉はどうにもしっくり来なかったのか、頭を強めに掻いた銀時は隣の部屋に踵を返す。
「―――いや」
そうして、一眼レフを構え、レンズを銀時は向けた。
「『最後の夏休み』、か」
そして、銀時は神楽の小さな手をしっかりと握ったまま平和そうな顔で眠りこけている新八に無事な帰宅を讃える言葉を贈り、心の内でゆっくりと三秒を数えてからシャッターを切った。
「おかえり、新八」

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