久々の更新です(^^;
またもや青少年の悲惨な事件が起きてしまった。このところ、この手の事件があとを絶たないようだ。この手の事件は、昨今の世情の特徴の反映なのだろうか。それとも、以前からあるようなものなのだろうか・・・必ずしも昨今の特徴とはいえないようなものではなく、かっては報道されなかったので知る機会が無かったのかも知れないという思いがする。
それにしても、関係者や周囲の反応は、『まさか、あの子が信じられない!』とか『前兆を見逃したのではなかったか?』といった相変わらずのものばかりである。そして、このような悲惨な経験から、将来へ向けての英知を汲み取ることができず、せいぜいカウンセラーを配置して『心のケアを!』という程度のことしか為されていないのが現状だ。こんなことでよいのだろうか。特に『心理学』はなんの役に立つのだろうか。かろうじて事後処理にほんの少しは役に立っているかもと思われるだけで、根本的には何の役にも立っていない!といってよいのではないだろうか。何とかせねばなるまい。
町田市の例と同様、昨今の事件は『いわゆる傍目には良い子』に見える青少年が引き起こすことが特徴であると言えよう。従来の心理学では、この点の理解が為されていない。しかし、それほど理解に苦しむことでもなんでもないことは、次のようなことを考えれば分かるものである。
人間は「甘える」という特性を持つ生き物である。これは「子育ての本質」すなわち、子が不快感を覚えるたびに快感に変えてあげる、ということを生後から絶え間なく実践することで、子育ての本質の実践者(普通は母親)に対して「条件母性反射」と呼べるものが成立することによって発生すると考えてよいものだ。条件母性反射が成立したことは「人見知り」が存在することで確認できる。以降、子は母親に甘えることから始まり、次第に他の人へも甘えるようになっていき、子の世界が拡大されてゆく。
ところで、土居健郎・元東大教授が示したように、人間には「甘えたくても甘えられない」という状況に陥ると、拗ね、僻み、恨み、不貞腐れ、自棄糞の心意が発生するようになる。「甘えたい」という心意は五種類に分類される。それは、マズロー心理学に言う、生理的欲求に基づいて甘える(ご飯頂戴など)、安全欲求に基づいて甘える(そばに居てよ!など)、所属・愛情欲求に基づいて甘える(あれ買って!など)、承認欲求に基づいて甘える(ほめてよ!など)、自己実現欲求に基づいて甘える(・・・になりたい!など)というものだ。
たとえば、子育ての過程において、夫婦が不仲であったり、鍵っ子状態であったり、・・・、すると、安全欲求に基づく甘えが充足されないのが普通だ。すると、子の心には拗ね、僻み、恨み、不貞腐れ、自棄糞の心意が発生する。安全欲求に基づく甘えがどうしても充足されないときは、模倣本能が働き、他の人間の甘えの行動を模倣して甘えるようになる。赤ちゃんの行動を真似て甘えるようになると、赤ちゃん返り、退行などとして認知される。程度がひどければ「問題児」として認知される。
一方、大人の行動を真似て甘えるようになると、いわゆる、規律正しい『良い子』として、傍目には映るようになる。この点、従来の心理関係者が見落としているきわめて重要な問題点なのだ。規律正しい『良い子』という状態が、例えば安全欲求に基づく甘えが充足されない状態で、つまり『我慢』をしながら維持されているという点である。このような状態は、従来の心理学では全く認識されておらず、したがって、用語も存在しない。日本文化の心理学と家族療法では、これを『越行』と名付けている。上記の『退行』に対応する言葉である。
越行状態で生活をしていると、拗ね、僻み、恨み、不貞腐れ、自棄糞になる心意を我慢している状態であるから、我慢をしないような他者を見ると、嫉妬によって、怒りや憎悪が込み上げてきたりすることまでも我慢しなければならなくなる。この我慢はいつまでもできるものではなく、やがては反動が形成されてしまうこと必然である。
臨床的には、この我慢が可能な期間というのは、10年前後、5〜15年程度と見積もることができると観察される。したがって、いわゆる傍目には良い子に見える青少年が引き起こした悲惨な事件は、事件の発生の10年前後以前に、甘えたくても甘えられないような状況、つまり、基本的欲求に基づく甘えが充足されないような状況が発生していることが知れるのである。
以上のようなことを知ると、『前兆を見逃したのではなかったか?』といったことはナンセンスであることが分かる。越行状態にあること自体が『前兆』なのである。天才とバカは紙一重というように、いわゆる退行による問題児と越行による良い子は根は同一なのであること知らねばならない。

1