我々には食事の前に「いただきま〜す」という習慣がある。ところが先だって、何気なしに耳にした永六輔のラジオ放送の中で、最近はそんなことを言わないということだった。そのときは「へ〜」という思いであったが、本日の、これまた何気に覗いた
日本会議のブログで、
この問題が扱われていた。それによると、
ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間にはうちの子には『いただきます』といわせないでほしい。給食費を払っているのだから、いわなくててもいいのではないか」(女性セブン)
びっくりするような手紙ですと、永六輔は、出演するTBSラジオ『永六輔その新世界』に届いた一通の先の手紙を読みました。その放送直後に十数通の手紙やはがきが寄せられ、その7割ほどは、「母親の申し出は絶対おかしい」「お金の問題ではない」と否定的でした。
しかし、一方で残りの3割は「ちゃんとお金を払っているのだから別に『いただきます』をいわなくてもいいと思う」「いわなくて当然だ」というものでした。
これはどこかおかしい。
物事の捉え方がずいぶんと変わってきているようだ。そして日本文化が廃れつつあるようだ・・・。日本文化を大切にしようというスタンスのはずである日本会議もこの件には「感謝の心はどこに?」としか言及できていないからだ。
日本文化の基本は、神(カミ)を「それ無しでは人類が絶滅もしくは平穏な心を維持できないほどに強大な影響力を有する生物もしくは非生物、と定義することに始まる。「そのようなもの」は我々を生かし、心を平穏にしてくれるもので、したがって「そのようなもの」を「大切にする」という心構えが重要である。さもなくば、我々は絶滅に向かうか平穏な心で毎日を過ごすことができなくなるからである。
「食べ物」は、我々を生かし心を平穏にしてくれる最も基本的なものである。したがって「大切にする」ということが肝要であることは言を待たない。また、我々が「生きる」ということは、他の(食べ物となる)生命体を摂取して初めて可能になることであることに注意したい。
「大切にする」という心は、対象のルーツに着目する、ことで生じる。食べ物を大切にするとき、食べ物のルーツに着目しよう。その食べ物が存在することは、それを必要とする我々の命が太古の時代から連綿と続いてきていること、食べ物もまたそうであること、食べ物が我々に届くまでに関与する人々の存在、食べられるように加工してくれる人々の存在、・・・、といったように、数多くの関与が適切にあって初めて可能となるのである。このようなことを知れば「いただきます」ということは、金を払っているから言う必要はない!というような低次元な発想にはなるべくもないのである。
また、摂食障害を扱うときにも、この「いただきます」の心意が適切に現れるように持って行くことができれば、症状が軽減する方向に向かうということを知れている。このことは別の機会に述べてみたい。

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