筑後市の
北島すえ子市議会議員は、彼女のホームうページで次のように述べている。
>修正案に「性差を否定するような教育を行ってはならない」という文言があり、第1条から19条までの筑後市の条例案を否定するような文言になっておりました。
>このような条例ができたら筑後市の女性政策はまったく進みません。
これは、明らかに、ジェンダーフリーは男女の性差を否定することを意味している。そこで、最近、ジェンダーフリーを廃止することを打ち出した石原慎太郎氏率いる東京都ではどうなっているかと調べてみると、
新井美沙子都議会議員が次のように述べている。
>ジェンダーフリーとは、男女の性別をなくすことではなく、文化的、社会的につくられてきた男女の性に対する偏見や先入観を取り除こうという当たり前の考え方です。
>しかし、知事は、男女の違いを無理やり無視しようとするジェンダーフリー論のばっことして、本来のジェンダーフリーとは誤ったとらえ方で、ゆがめられたジェンダーフリー論にすべて集約させてしまいました。
ここでは男女の性差を否定するものではないという考え方になっている。どうも話がめちゃくちゃなのがジェンダーフリーであるようだ。
そもそもジェンダーとは(大辞泉)、
ジェンダー 【gender】
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1 文法で、名詞や活用語の男性・女性・中性といった分類。
2 社会的、文化的に形成される男女の差異。男らしさ、女らしさといった言葉で表現されるもので、生物上の雌雄を示すセックスと区別される。
という意味である。男らしさや女らしさとも言えるわけだから、それに対する偏見や先入観を取り除こうというのが本来のジェンダーフリーであるという。なにやらもっともらしく聞こえるが、はたしてどうなのだろうか。
ここで大切なことは「偏見」や「先入観」を取り除くといった表現である。いかにも、ネガティブで悪い面を取り除いて良いものにするという印象を与えるではないか。
そもそも「偏見」というのは、客観的な根拠無しに相手を非好意的に見てしまう先入観や判断のことである。ここには、いわゆる「差別」を無くそうという意図も汲み取れる。
そのようなことを目的として、男らしさ・女らしさに縛られるのではなく「自分らしさ」というものまで提案される(例えば
瀬地山角東大大学院助教授)。
ここでおかしいのは、次の点である。
そもそもジェンダーという概念は、男らしさ女らしさというように、肉体的な区別である「男」と「女」の属性と考えられるものである。そうでないものはジェンダーとは言わない。この属性を取り払ってしまおうという考え方は、すなわち、「男女の性差の否定」であることに相違ないのである。
男女の性差の否定が行き着くところは何か?社会・文化の崩壊である。当たり前であろう。社会・文化によって形成されたものをジェンダーとしているのだから、そのジェンダーを否定することは、社会・文化の否定であることに相違ないのである。
ジェンダーフリーが性差の否定になることは、トランスジェンダな武道家(決して「らんま1/2」ではない(笑))である
神名龍子氏のサイトには、もっと詳細が語られている。

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