写真というのは機械をたくさん介在させることのできるアートです。
その分いろんなことができるから、自分の撮ったものを素材としてアートに仕上げている人が多いですね。
けれど、「撮っただけ」でアートになっている写真があるとしたら、それは素晴らしいと思います。
Kai-Wai散策
この村田賢比古さんの写真がまさしくその通りの写真です。
一体毎日どれほどの写真を撮り続けているんだろう?
膨大な量の写真を撮り続けているという肉体が こんなにも美しい写真を可能にしています。
イギリスの
自然史博物館で何万という石の展示を見た時の驚きに似ています。
地球にはとんでもない数の宝物が埋まっているのですね。
一つ一つに注目して見てみると、本当に奇跡のような美しさです。
そして、ゆっくりと感動が生まれました。
ああ、この地球という星自体が奇跡なのだと。
村田賢比古さんの写真を見ていると、同じような感覚に包まれます。
日々、当たり前に通り過ぎている普通の景色の中に、或いはなぜか焦って過ごしてしまっている一瞬の中に、奇跡のような景色があったのだということに感動するのです。
それらを切り取って「ほらここにこんなに素敵な奇跡の瞬間がありましたよ」と見せてもらっている感覚になるのです。
そうです。
Kai-Wa-散策は、あの自然史博物館の展示のように感じるのです。
村田賢比古さんはちょうどあの自然史博物館の石を掘り出し、集めて展示した人たちのように、毎日の当たり前の日々の中にある美しさや、ワクワクする瞬間や、普通の人たちの中にあるかっこよさや、とんでもなく素敵な瞬間を切り取っています。
それらの写真を見ていくと、自然史博物館で生まれたような感動が生まれてきます。
「ああ、私たちの存在そのものが奇跡なんだ」
そうです。
「普通の私たち」の存在、そしてちょっとした一瞬、日々気づかずに過ごしてしまっている瞬間の中に 本当は奇跡のように素敵な景色があるということに気づかされます。
私たち自身が奇跡なのだ・・・・・・彼の写真を見ていると、それを感じ、毎日をもう少し丁寧に生きていかなくちゃって思うのです。
私たちの存在そのものが奇跡だと思わせてくれるような写真、中々ありませんよね。
それを可能にしてくれている精神と肉体に感動します。
お料理もそうです。
前々から書いていますけれど「ほら、どうじゃ〜」というようなお料理はあまり好みません。
素材を大切にして、ゆっくりじんわり体の奥底から感動が生まれるようなお料理が好き。
そんなお料理を味わったら、奥の奥から体が喜び、生きていることが本当にありがたく感じます。
「我」の勝ったお料理からそのような感動は生まれません。
写真も同じ。
「我」の強い写真からは こうした幸せは生まれてきません。
私たちの存在そのもの、日々の何気ない一瞬そのものが実は奇跡なのだと思わせてくれる写真。
そんな風に書いてくると、音楽においても私の好みの傾向が分かるなって思います。
いつも書いているオリンスキーさんの歌はまさしくそう。
そんな歌を歌いたいです。

5